359話 月面の1歩
月面へ降り立つ
ハッチが完全に開くと、目の前には静寂だけが広がっていた。
聞こえるのは、宇宙服の生命維持装置が発する低い駆動音と、自分自身の呼吸だけだった。
橘はハッチの縁に立ち、ゆっくりと月面を見下ろす。
灰色の大地は、太陽の光を受けて白銀にも見えた。
遠くには大小無数のクレーター。
岩肌には鋭い影が伸び、空は昼間であるにもかかわらず漆黒だった。
そこには青空も雲もない。
ただ、黒い宇宙と灰色の大地だけが果てしなく続いている。
橘はしばらくその光景を見つめた。
訓練施設で何百回も見た月面模型。
探査機が送ってきた写真。
立体地形図。
どれも本物には及ばなかった。
「これが、本当の月か。」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
その声は通信回線を通して、着陸船の中、そして羽合管制センターへ静かに届く。
ハッチの外には、着陸船専用の金属製梯子がまっすぐ伸びていた。
銀色の梯子は、月面まで静かに続いている。
月の重力は地球の約六分の一。
身体は軽い。
しかし、その軽さが逆に慎重さを求めていた。
わずかな勢いでも身体は大きく動く。
転倒すれば、宇宙服や生命維持装置へ損傷を与える危険がある。
橘は深呼吸した。
ヘルメットの内側に自分の呼吸音だけが響く。
そして通信を開いた。
「こちら橘。」
「階段から降りる。」
右手で手すりを握る。
ゆっくりと左足を持ち上げる。
慎重に。
左足が第一段へ触れた。
金属を踏む小さな感触が宇宙服越しに伝わる。
体重をゆっくり移す。
問題ない。
橘は次の段へ降りる。
一段。
また一段。
宇宙服は重装備だが、低重力のおかげで動きは想像以上に軽かった。
それでも決して急がない。
一歩。
確認。
また一歩。
確認。
着実に階段を降りていく。
着陸船の船体が頭上へ大きくそびえている。
白い船体。
展開された四本の着陸脚。
足元では、ローバーが静かに待機していた。
橘は最後から二段目で一度止まる。
宇宙服に着いたミラーで後ろを見た。
ハッチの中では、長谷川と進藤が静かに見守っている。
三人の視線が交わった。
誰も言葉は発さない。
ただ小さく頷くだけだった。
橘は再び前を向く。
最後の段へ降りた。
あと一歩。
その先には、誰も踏んだことのない世界がある。
彼は右足をゆっくり前へ出した。
慎重に。
ゆっくりと。
月面へ向かって足を伸ばす。
ザクッ
柔らかな砂を踏む感触が宇宙靴の裏から伝わった。
灰色のレゴリスが静かに押し固められる。
細かな砂がふわりと舞い上がる。
しかし空気がないため、砂は煙のようには広がらず、緩やかな放物線を描いて静かに落ちていく。
橘は体重を完全に月面へ預けた。
人類史上初めて。
世界で初めて。
日本人として初めて。
一人の人間が月面へ立った瞬間だった。
足元には、くっきりと宇宙靴の跡が刻まれている。
その足跡は、風も雨もない月では、何万年も残るかもしれない。
橘はゆっくり周囲を見渡した。
どこまでも続く灰色の世界。
静寂。
そして頭上には、漆黒の宇宙。
その中に、青く輝く地球が浮かんでいた。
白い雲をまとい、青い海を抱いた故郷。
月から見る地球は、思っていたよりも大きく、そして美しかった。
橘はしばらく見上げ続ける。
誰もが帰る場所。
その星が、宇宙の闇に静かに浮かんでいた。
彼は通信を開いた。
「こちら橘。」
少しだけ声が震えていた。
「人類として初めて。」
「世界で初めて。」
さらに続ける。
「日本国として初めて。」
彼はゆっくり月面を見渡した。
「我々は、ついに月面に立った。」
その言葉は、月面から地球まで約1.3秒かけて届けられる。
通信が終わるまで、全員が静かに聞き入っていた。
そして最後の言葉が届いた瞬間。
大きな拍手が湧き起こる。
歓声。
涙。
抱き合う研究者。
帽子を高く掲げる整備員。
何年もの努力が、この一歩へ結実した。
明賢はスクリーンを見つめたまま、静かに目を閉じる。
胸の奥からゆっくり息を吐いた。
その表情には、安堵と誇りが浮かんでいた。
橘は歓声の届かない月面で、静かに周囲を確認していく。
「視界良好。」
彼はゆっくり右方向を見る。
「周辺に障害物なし。」
正面を見る。
「着陸船、異常なし。」
さらに視線を下げる。
「ローバー確認。」
船体下方、約5メートル地点。
灰色の月面の上で、ローバーは静かに待機していた。
「ローバー正常待機。」
最後に報告する。
「船外活動、開始。」
橘が無事に月面へ立ったことを確認すると、着陸船内に残る二人も静かに動き始めた。
長谷川は一度深呼吸する。
ヘルメットの中に、自分の呼吸だけが響く。
彼は苦笑した。
「いよいよ俺たちの番か。」
進藤も静かに頷く。
「映像で何度も見た景色なのに、本物は全然違う。」
長谷川はハッチへ歩く。
橘が下から見上げていた。
「こちら長谷川。」
通信を開く。
「降下を開始する。」
彼は手すりを握り、慎重に階段へ足を移した。
月の低重力によって、身体がふわりと軽くなる。
思わず浮き上がりそうになる身体を、ゆっくりと抑えながら降りていく。
橘が下から声を掛ける。
「段差に注意。」
少し周囲を見渡しながら続ける。
「最後の一段、砂で少し滑りやすい。」
長谷川は短く返事をした。
「了解。」
彼は慎重に最後の段へ降りる。
そして右足を前へ出した。
ザクッ。
宇宙靴が灰色の砂へ沈む。
柔らかな砂がゆっくり押し広げられ、二つ目の足跡が刻まれた。
長谷川は少し身体を上下に動かす。
「軽いな。」
思わず笑った。
「本当に六分の一しか重さがない。」
橘も笑みを浮かべる。
「跳ねすぎるなよ。」
「分かってます。」
二人は固く握手を交わした。
月面で交わされた、人類最初の握手だった。
続いて進藤がハッチへ現れる。
彼女は一度だけ船内を振り返った。
そして通信を開く。
「こちら進藤。」
「降下開始。」
彼女は一段ずつ慎重に降りていく。
途中で視線が自然と横へ向いた。
そこには地球が浮かんでいる。
そして反対側には、果てしなく続く月面。
地球と月。
二つの世界が同じ視界に収まる。
進藤は思わず息を呑んだ。
「信じられない。」
しばらく見つめたあと、小さく呟く。
「こんな景色、誰も見たことがない。」
最後の段を降りる。
ゆっくり右足を前へ出す。
ザクッ。
三つ目の足跡が月面へ刻まれた。
彼女は静かに立ち上がる。
三人が並んで月面へ立った。
橘は周囲を確認してから通信を開く。
「こちら橘。」
「全員、月面への降下を完了。」
隣を見る。
長谷川。
進藤。
二人とも元気だった。
「三名とも健在。」
その報告が地球へ届く。
羽合管制センターでは、再び割れんばかりの拍手と歓声が湧き上がった。
しかし月面では、その歓声は一切聞こえない。
三人の耳に届くのは、生命維持装置の静かな駆動音だけ。
彼らは静かに並び、青く輝く地球を見上げていた。




