358話 ハッチオープン
ローバー展開作業
月面着陸を終えた船内では、誰も焦ることなく次の手順へ移っていた。
まず行うべきは、月面ローバーの展開だった。
船内中央のチェックリストには、次の工程が順番に表示されている。
ローバー収納区画開放
展開アーム起動
接地確認
電源投入
遠隔操作試験
通信確認
すべてが完了して初めて、宇宙飛行士たちは船外へ出ることができる。
橘はチェックリストを一つ確認すると、操縦席の後方へ身体を向けた。
壁面には、普段は見えないよう保護カバーで覆われた収納パネルがある。
彼はロックレバーを解除した。
カチッ。
パネルがゆっくりと手前へ開く。
内部には、整然と並んだ制御スイッチ。
非常停止装置。
油圧表示灯。
ローバー展開専用の操作盤が現れた。
進藤がその前へ移動する。
一つひとつ表示を確認する。
「展開アーム待機。」
「収納ロック正常。」
「電源待機。」
異常表示はない。
彼女は赤い保護カバーをゆっくり持ち上げた。
カチッ。
展開スイッチが姿を現す。
「月面ローバー展開、開始。」
そのままスイッチを押し込んだ。
瞬間。
船体下面で、静かな作動音が響く。
ウィーン
船底部の大型ハッチが、ゆっくりと外側へ開いていった。
船内には油圧装置の低い駆動音だけが伝わってくる。
モニターには、船体底部カメラの映像が映し出された。
灰色の月面。
その中央で、ハッチがゆっくり開いていく様子が見える。
収納されていた油圧式アームが伸び始めた。
一本。
二本。
三本。
関節ごとに角度を変えながら、慎重に下方へ降りていく。
その先端には、折り畳まれた月面ローバーが固定されていた。
長谷川は画面を見つめながら呟く。
「アーム動作、正常。」
「振動なし。」
「展開速度、予定値。」
ローバーはゆっくりと下降していく。
高度1メートル。
50センチ。
20センチ。
そして。
車輪が月面へ静かに触れた。
ふわりと灰色の砂が横へ流れる。
進藤が高度表示を見る。
「接地確認。」
長谷川が続ける。
「ローバースタンド、ロック解除。」
固定アームが静かに開放される。
ローバーは完全に月面へ自立した。
四輪はしっかりと月面を捉え、傾きもない。
長谷川が遠隔操作パネルを操作する。
「電源投入。」
数秒後。
ローバー前面の表示灯が順番に点灯する。
白。
緑。
青。
メインコンピューター起動。
姿勢制御起動。
通信起動。
バッテリー正常。
車輪モーター正常。
カメラ正常。
進藤が笑みを浮かべた。
「全部、生きてる。」
橘は最後の確認を行う。
ジョイスティックを軽く倒す。
ローバーの前輪が数度だけ動く。
右。
左。
停止。
遠隔操作盤の通信遅延もない。
映像も鮮明だった。
「ローバー、リモートチェック完了。」
橘は静かに頷く。
「準備完了。」
船外活動服への着替え
続いて始まるのは、船外活動の準備だった。
船内は決して広くない。
三人が同時に動けば、互いの肩が触れるほどの空間しかない。
その狭い船内で、慎重に宇宙服への着替えが始まる。
まず、通常飛行服を脱ぎ、温度制御インナーへ着替える。
このインナーには、細かな冷却チューブが張り巡らされている。
月面では昼夜の温度差が極端なため、体温管理は生命そのものだった。
長谷川が冷却装置を接続する。
「冷却循環、正常。」
進藤は自分のチューブ接続を確認した。
「水冷ライン、異常なし。」
その上から、大型の船外活動服を着用する。
一人では着られない。
互いに装着を手伝いながら、慎重に固定していく。
胸部ユニット。
腕部。
脚部。
関節ロック。
生命維持装置。
一つずつ確認が進む。
長谷川は橘の背中へ大型バックパックを固定した。
カチッ。
ロック完了。
「生命維持装置、固定。」
続いて進藤の装備も確認する。
「酸素循環ライン接続。」
「冷却装置接続。」
「電源正常。」
橘も二人の装備を確認していく。
彼は酸素残量表示を見た。
「酸素量チェック。」
表示は満タン。
「良し。」
長谷川が橘のヘルメットをゆっくり装着する。
ガチャン。
ロックリングが回転し、完全に密閉された。
「ヘルメットロック。」
「固定。」
続いて進藤。
最後に長谷川。
三人とも完全な船外活動仕様となる。
進藤は通信パネルを操作した。
「通信系統、宇宙服独立回線へ切り替え。」
数秒後。
ヘルメット内スピーカーから音が流れる。
「通信正常。」
「音声確認。」
橘。
「聞こえる。」
長谷川。
「こちらも良好。」
三人は互いの姿を見る。
白い宇宙服。
大型バックパック。
金色のバイザー。
先ほどまで船内で作業していた三人とは、まるで別人のようだった。
羽合管制から通信が入る。
「船外作業服からの通信を確認。」
「いよいよ月面初の船外活動だ。」
「慎重に行け。」
橘は短く答えた。
「了解。」
三人はハッチ前へ並ぶ。
最後の確認が始まる。
酸素。
通信。
生命維持装置。
全員正常。
月面へ出る準備は、完全に整った。
三人はハッチ前の減圧区画へ移動する。
船内と船外を隔てる最後の空間だった。
橘は最後尾から区画全体を見渡す。
全員が入ったことを確認すると、隔壁レバーへ手を掛けた。
重いレバーをゆっくり下ろす。
ゴウン。
厚い隔壁が静かに閉まり始める。
数十センチもある気密扉が完全に閉じ、船内区画と完全に切り離された。
表示灯が赤から緑へ変わる。
長谷川が減圧装置を起動した。
「減圧開始。」
「目標、0気圧。」
排気バルブが開く。
区画内の空気がゆっくりタンクへ排出されていく。
船内には、低い排気音だけが響いていた。
シューーー
三人は静かに呼吸を整えた。
計器の数字が少しずつ減っていく。
0.4気圧。
0.3。
0.2。
0.1。
さらに。
0.05。
0。
針が静かに止まった。
進藤が確認する。
「気圧ゼロ。」
「船外区画、真空状態。」
その報告を受け、羽合管制から通信が入る。
「ハッチオープン、許可する。」
橘は赤い開放ハンドルへ手を掛ける。
深く息を吸う。
ゆっくりと回す。
ゴッ
ギギギギ
長年の訓練で何度も聞いた振動。
しかし、本物の月面で聞くのは初めてだった。
気密ロックが一つずつ解除される。
最後の固定が外れる。
ハッチがゆっくり外側へ押し開かれていく。
三人の視界いっぱいに、月面の景色が広がった。
漆黒の宇宙。
どこまでも続く灰色の大地。
鋭く伸びる岩の影。
そして、強烈な太陽光に照らされた静かな月の世界。
目の前には、人類がまだ一度も足を踏み入れたことのない世界が、静かに広がっていた。




