356話 月周回軌道
分離開始
月周回軌道。
宇宙船は静かに月の上空を飛び続けていた。
窓の外には、どこまでも続く灰色の大地。
大小無数のクレーター。
鋭い山脈。
太陽の光が長い影を落とし、月面の起伏をくっきりと浮かび上がらせている。
これから三人は、あの世界へ降りる。
船内には緊張した空気が流れていた。
先ほどまで行われていた最終点検も終了し、すべての表示灯は緑色を示している。
橘は深く息を吸った。
進藤は航法表示から目を離さない。
長谷川は分離システムの最終確認を終え、静かに頷く。
「分離機構、正常。」
「着陸船推進系、正常。」
その報告を受け、橘は通信回線を開いた。
「こちら月読命。分離準備完了。」
数秒後、羽合管制から声が届く。
「こちら羽合。」
司令官はゆっくりと言葉を続けた。
「分離許可を出す。」
その一言で、船内の空気がさらに引き締まる。
橘は操作卓中央にある分離スイッチへ手を伸ばした。
このスイッチ一つで、宇宙船は二つの機体へ分かれる。
月面へ降りる着陸船。
そして、再び地球へ帰るための帰還船。
もう後戻りはできない。
橘は一度だけ二人を見る。
進藤が静かに頷いた。
長谷川も笑みを浮かべる。
「行きましょう。」
橘はゆっくりとスイッチを押し込んだ。
カチッ。
次の瞬間。
ガシャン。
船体全体へ低い振動が伝わる。
固定ラッチが一本ずつ解除され、分離機構が静かに作動した。
計器には順番に表示が現れる。
第一固定解除。
第二固定解除。
全固定解除。
宇宙では音は伝わらない。
しかし船内では、金属が離れる僅かな衝撃だけが感じられた。
そのまま着陸船は、ゆっくりと帰還船から離れていく。
速度はほんの数センチ毎秒。
まるで水面に浮かぶ船同士が、静かに離れていくようだった。
窓の外では、帰還船の白い船体が少しずつ遠ざかる。
進藤が距離表示を確認する。
「分離速度、許容範囲内。」
長谷川。
「姿勢安定。」
数秒後。
帰還船側の姿勢制御スラスターが小さく噴射した。
シュッ。
白いガスが噴き出し、ゆっくりと姿勢を変える。
さらに数回。
細かな噴射を繰り返しながら、帰還船は安全な待機軌道へ移動していく。
管制室でも軌道解析班が報告する。
「帰還船、軌道修正開始。」
「着陸船との安全距離を確保。」
「相互干渉なし。」
司令官が宣言した。
「分離成功。」
「帰還船は月周回軌道で待機に入る。」
巨大スクリーンには、二つの光点が少しずつ離れていく様子が映し出されている。
一つは月面へ向かう。
もう一つは、静かに月を回り続ける。
窓の外では、月面が少しずつ大きくなっていく。
先ほどまでは丸い球体として見えていた月が、今では巨大な地平線となって目前へ迫っていた。
進藤はその景色を見つめながら呟く。
「本当に、降りるんですね。」
長谷川は微笑む。
「もう、引き返せないな。」
橘は短く答えた。
「ああ。」
その一言だけだった。
月面への降下開始
着陸船はゆっくりと姿勢を変え始めた。
月面へ向け、機首が少しずつ起き上がる。
姿勢制御スラスターが細かく噴射され、自動制御コンピューターが最適な降下角度を計算していく。
機体はほとんど揺れない。
静かに。
滑らかに。
月へ向かう姿勢へ移っていく。
その直後。
機体下面から低い作動音が響いた。
ゴン。
ゴン。
ゴン。
ゴン。
着陸脚展開開始。
四本の脚がゆっくりと外側へ伸びていく。
油圧シリンダー。
ロックピン。
衝撃吸収ダンパー。
全てが順番に作動する。
長谷川が確認する。
「第一脚、ロック。」
「第二脚、ロック。」
「第三脚、ロック。」
画面に表示された。
全脚固定完了
橘は小さく頷いた。
「着陸脚、正常。」
地上では、羽合管制がそのデータを確認していた。
「降下シーケンス開始を確認。」
その声は落ち着いていた。
しかし、室内の誰もが緊張している。
この先は、人類史上初めての友人月面着陸。
失敗は許されない。
船内では、三人ともほとんど操作をしていなかった。
日本が開発した最新の誘導コンピューターが、着陸の全工程を自動制御する。
橘の役割は監視。
進藤は航法確認。
長谷川は機体状態の監視。
異常が発生した場合のみ、人間が介入する。
それ以外は、全てコンピューターが担当する。
機体がわずかに震えた。
「降下エンジン、点火。」
低く重い振動が船内へ伝わる。
月面へ向けた降下が始まった。
メインスラスターから噴射されたガスが、着陸船をゆっくり減速させる。
宇宙空間なので音はない。
しかし、振動だけが確かに伝わってくる。
進藤が画面を見つめる。
「降下開始。」
その直後。
コンピューターが次々と処理を進める。
速度低下開始。
降下角度自動補正。
高度計、正常。
慣性誘導装置、正常。
レーザー高度計、正常。
着陸誘導信号、ロックオン。
誘導ビーコンが、着陸船へ正確な位置情報を送り続けている。
着陸船はその信号を受け取り、数センチ単位で軌道修正を繰り返した。
地上の軌道解析班も報告する。
「誤差、0.2メートル。」
ただ画面を見つめている。
船内でも同じだった。
三人はただ、緑色の表示灯が一つずつ点灯していく様子を見守っていた。
異常なし。
異常なし。
全て正常。
それだけが、静かに続いていた。
月面が近づく
高度2000メートル。
クレーターの輪郭が肉眼ではっきり分かるようになった。
高度1000メートル。
岩の影まで見える。
高度500メートル。
降下エンジンの噴射が月面へ届き始める。
灰色の砂が吹き飛び、巨大な砂塵の輪が広がっていく。
月には空気がない。
そのため砂は舞い上がるというより、勢いよく四方へ跳ね飛ばされていく。
長谷川が映像を見つめる。
「砂塵、予定範囲。」
進藤は高度表示を追う。
「高度450。」
「400。」
「350。」
数字が静かに減っていく。
橘は前方を見つめたまま小さく呟いた。
「いよいよだ。」
その声には、緊張と期待が入り混じっていた。
進藤は返事をしない。
ただ計器だけを見つめる。
高度。
降下速度。
横方向速度。
姿勢角。
全てが予定範囲内だった。
長谷川も同じだった。
表示灯を一つずつ確認する。
異常表示は一つもない。
この段階でも、三人にできることは多くない。
着陸船は、無人探査機から送られる誘導信号と、誘導コンピューターによって、着実に月面へ近づいていた。




