355話 地球を離れる
地球重力圏からの離脱
発射から数時間。
「月読命」は予定通り地球周回軌道へ到達し、すべてのシステムは安定状態を維持していた。
個体ロケット各部の切り離しも正常。
推進モジュールは予定の姿勢を保持し、地球を約300km上空から滑るように周回している。
船内では、先ほどまで続いていた打ち上げ時の緊張が少しだけ和らいでいた。
無重力の中で、小さなチェックリストが静かにめくられていく。
橘が通信を開く。
「こちら月読命。地球周回軌道、安定。」
地上からすぐ返答が届く。
「確認した。各系統、正常値を維持。」
進藤は窓の外を見つめた。
地球。
それは、先ほどまで自分たちが立っていた世界だった。
青い海。
白い雲。
巨大な大陸。
その全てが、一つの球体として静かに浮かんでいる。
「本当に、地球を見下ろしているんですね。」
誰に言うでもなく、彼女は小さく呟いた。
長谷川は苦笑する。
「まだ驚くのは早い。」
そう言って前方を指差す。
「俺たちは、あそこまで行く。」
進行方向のはるか彼方。
まだ小さい。
しかし確かに、灰色の光点が見えていた。
月。
人類がこれから向かう、新たな世界だった。
その頃、羽合宇宙センターでは、軌道解析班が次の段階へ備えていた。
巨大スクリーンには、地球を中心とした軌道図が表示されている。
現在位置。
予定軌道。
そして、月まで伸びる一本の長い軌跡。
航路設計担当が報告する。
「現在速度、予定値と完全一致。」
航法主任。
「月遷移軌道投入、予定時刻との差40秒。」
推進担当。
「推進モジュール、正常稼働。」
司令官が頷く。
「予定通り、月遷移燃焼へ移行する。」
そして、管制卓中央の表示が切り替わった。
月遷移軌道投入準備
これが、地球を離れる最後のエンジン噴射になる。
地球を周回する宇宙船から、月へ向かう宇宙船へ。
その運命を決める重要な燃焼だった。
地球周回軌道から月周回軌道へ
打ち上げから数時間。
宇宙船は安定した地球周回軌道を滑らかに飛行していた。
窓の外では、約九十分ごとに昼と夜が入れ替わる。
太陽光に照らされた青い海。
そして数十分後には、満天の星が広がる漆黒の宇宙。
その変化を何度も繰り返しながら、宇宙船は地球の周囲を巡っていた。
船内では、三人が最終チェックリストを確認している。
長谷川が読み上げる。
「船内圧力。」
「正常。」
「姿勢制御スラスター。」
「正常。」
「推進剤残量。」
「予定値を維持。」
橘自身が計器を確認する。
さらに通信確認。
「琉球基地。」
「リンク良好。」
「羽合宇宙通信局。」
「リンク良好。」
「フロリダ基地。」
「リンク良好。」
全ての通信回線が正常だった。
地球との通信は、これから数日間、彼らの命綱になる。
羽合コントロールセンターでも、数百人の技術者が各モニターを見つめていた。
推進解析。
軌道解析。
生命維持。
通信。
一つでも異常があれば、即座に宇宙船へ伝えられる体制である。
明賢も中央のスクリーンを見つめ続けていた。
画面には、宇宙船と月を結ぶ一本の軌道線が表示されている。
その線を外れれば、月へは届かない。
逆に近づきすぎれば、制御不能となる。
極めて精密な飛行だった。
月遷移燃焼(TLI)開始
管制官が静かに告げる。
「こちら地上。」
船内に緊張が戻る。
「TLI燃焼開始まで10秒。」
橘は姿勢制御を最終確認する。
「機首方位、予定角度。」
進藤。
「航法誤差、0.002度。」
長谷川。
「推進剤供給正常。」
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宇宙船後部では、月遷移用メインエンジンの点火準備が始まる。
燃料ライン加圧。
酸化剤供給。
燃焼室圧力上昇。
全てが自動で進行する。
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「点火。」
ドォォォォォン
無重力だった身体が、突然座席へ押し付けられる。
再びGがかかる。
宇宙船全体が低く震えた。
橘が声を上げる。
「推力正常。」
進藤。
「進路変更開始。」
長谷川。
「燃焼室圧力、予定値。」
エンジンは全力で燃え続ける。
地球周回速度はさらに増し、宇宙船は少しずつ軌道を広げていく。
窓の外では、地球がゆっくりと遠ざかり始めた。
先ほどまで巨大だった青い球体が、少しずつ小さくなる。
進藤は思わず見入っていた。
「地球が、離れていく。」
長谷川も窓を見る。
「今まで誰も、ここまで地球を離れたことはない。」
燃焼は十数分続いた。
その間、計器だけを見続ける。
やがて。
「燃焼終了。」
主エンジンが静かに停止した。
船内は再び無重力へ戻る。
宇宙船は慣性だけで飛び続ける。
管制室から声が届く。
「TLI成功。」
軌道解析班も続けて報告する。
「予定誤差、許容範囲内。」
「月遷移軌道へ投入確認。」
巨大な弧を描きながら、宇宙船は地球の重力圏を離れ始めた。
地球の引力はまだ及んでいる。
しかし、進路はすでに月へ向けて固定されている。
人類は今、初めて地球と月を結ぶ航路へ踏み出した。
月周回軌道へ
それから三日。
宇宙船は静かな宇宙を飛び続けた。
昼も夜もない。
ただ地球と月だけが、少しずつ位置を変えていく。
三人は決められた生活を繰り返した。
食事。
睡眠。
航法確認。
通信試験。
機器点検。
どれ一つ欠かされることはない。
長谷川は毎日、推進系統を細かく点検した。
「配管温度正常。」
「電力消費正常。」
「着陸船、異常なし。」
進藤は月面地図を何度も確認する。
無人探査機「月影」が送ってきた膨大なデータ。
クレーター。
岩石分布。
傾斜角。
全て頭へ叩き込む。
橘は毎日、飛行計画を再確認していた。
帰還まで含めれば、まだ任務の半分にも達していない。
そして三日目。
進行方向前方に、巨大な灰色の球体が姿を現した。
月だった。
最初は小さかった。
しかし、時間が経つにつれ、その存在は圧倒的な大きさへ変わっていく。
無数のクレーター。
高地。
平原。
探査機の写真で見た世界が、目の前にある。
進藤が静かに言う。
「月重力圏へ入りました。」
橘が頷く。
「月捕捉開始。」
月の重力が宇宙船を引き始める。
そのままでは月を通り過ぎてしまう。
減速が必要だった。
「減速スラスター、点火。」
機体後部から逆向きに噴射が始まる。
宇宙船はゆっくり速度を落としながら、月の周囲を回る軌道へ入っていく。
軌道解析班から報告。
「捕捉良好。」
「高度正常。」
「速度正常。」
そして。
「月周回軌道投入、成功。」
地球では歓声が起こった。
しかしその声は、宇宙空間には届かない。
船内では三人が静かに顔を見合わせるだけだった。
全員が微笑んでいた。
地球帰還船と月面着陸船の分離準備
月面着陸地点では、無人探査機による準備が進められていた。
探査機「月影」のドローン3基は詳細な地形図を作成し、自動誘導ビーコンを設置。
着陸予定地点周辺の障害物も調査済みである。
宇宙船はその上空を静かに周回していた。
ここから先は、月面着陸船だけが月へ降りる。
三人は分離前最後の総合点検を開始した。
長谷川。
「月面着陸船推進系。」
「正常。」
「着陸脚展開装置。」
「正常。」
進藤。
「着陸レーダー。」
「正常。」
「高度計。」
「正常。」
「誘導コンピューター。」
「正常。」
「分離機構。」
「正常。」
一項目ずつ確認が終わるたび、画面の表示は緑へ変わっていく。
最後に中央ディスプレイへ表示された文字。
着陸許可
三人は静かに頷いた。




