354話 月読命打ち上げ
打ち上げ準備開始
宇宙飛行士三名が搭乗を完了すると、発射塔周辺は一気に静けさを取り戻した。
整備員たちは全員退避し、巨大な発射台には「日本」と書かれたロケットだけが残される。
気密ハッチがゆっくりと閉じられる。
ガシャン。
重厚な金属音が船内へ響いた。
直後に警告灯が緑へ変わる。
「ハッチ、完全閉鎖。」
「気密状態確認。」
「機内圧力、正常。」
橘創一郎は操縦席に身体を預け、ゆっくりとハーネスを締め直した。
胸元の固定具を一つずつ確認し、深く息を吸う。
右隣では進藤凛が航法コンソールを見つめ、何十個もの表示を順番に確認している。
左側では長谷川巧が、生命維持装置や着陸船の電源状態を細かく読み取っていた。
三人とも表情は落ち着いている。
これから始まる任務が、これまでとは比較にならない任務であることを誰よりも理解していた。
管制室との通信が開く。
「月読命、こちら羽合管制。」
橘が答える。
「こちら月読命。搭乗完了。」
「最終チェックへ移行します。」
その声とともに、チェックリストの読み上げが始まった。
「姿勢制御系統。」
長谷川が計器を見る。
「正常。」
「酸素循環系統。」
「正常。」
「船内気圧。」
「正常。」
「電源供給。」
「正常。」
「着陸船分離システム。」
長谷川は一度だけ確認画面を指で拡大し、慎重に読み上げる。
「正常。」
「遠隔誘導装置。」
進藤が即座に返答した。
「リンク確立。」
「航法コンピューター。」
「正常。」
「慣性誘導装置。」
「誤差なし。」
「通信系統。」
「羽合基地リンク確認。」
「琉球通信基地。」
「正常。」
「羽合宇宙通信局。」
「リンク確認。」
確認項目は次々と消えていく。
赤い表示は一つもない。
最後に総合判定が画面中央へ表示された。
打ち上げ可能
管制官がゆっくりと宣言する。
「全システム、グリーン。」
その一言で、発射準備は最終段階へ入った。
場内は静まり返る。
管制室には、コンピューターの電子音だけが響いていた。
中央ディスプレイへ巨大な数字が映し出される。
発射まで、残り十秒。
カウントダウン開始
巨大スクリーンに数字が現れる。
10
発射台地下では、巨大な水圧ポンプが一斉に始動した。
ゴゴゴゴゴ
地鳴りのような振動が発射場全体へ伝わる。
次の瞬間。
ドオオオオオオオッ!!
数千トンもの冷却水が一気に噴き上がり、発射台全体を包み込んだ。
白い水蒸気が滝のように広がり、巨大な「水の壁」が形成される。
強化型音響衝撃波減衰システム。
ロケットが発する超音圧から、発射設備や機体を守るための重要な設備だった。
9
水蒸気はさらに勢いを増し、発射台の周囲は白一色になる。
巨大なロケットの先端だけが、その中から姿を現していた。
8
船内では三人が無言で前を向いている。
橘は操縦桿へ軽く手を添えた。
進藤は航法表示を最後まで見届ける。
長谷川は生命維持装置の圧力計を凝視した。
全員の呼吸だけが静かに聞こえる。
7
点火装置が起動。
エンジン内部では、数百個に及ぶセンサーが一斉に作動する。
燃焼室圧力。
燃料流量。
酸化剤流量。
ターボポンプ回転数。
全ての数値が瞬時に管制室へ送られていく。
6
巨大な燃焼室の内部が赤く染まり始める。
ノズル付近では、小さな炎が何度も確認される。
着火シーケンス開始。
管制官が叫ぶ。
「点火準備正常!」
5
ロケット全体が微かに震え始めた。
発射塔へ固定された機体が、巨大な生命を宿したように唸りを上げる。
ゴゴゴゴゴ
観測室の窓ガラスまで細かく震えていた。
4
振動はさらに大きくなる。
整備員たちは遠く離れた安全区域から、固唾を飲んで見守っていた。
誰もが瞬きを忘れている。
3
船内では三人が最後の確認を行う。
2
轟音が発射台全体を包み込む。
ノズルの下には、白く眩しい炎が広がり始めていた。
燃焼圧力は予定値へ到達。
「主エンジン出力、65パーセント。」
1
管制室全員が立ち上がる。
その中で、明賢だけが静かに瞼を下ろした。
そして力強く宣言する。
「月読命発射。」
ロケット発射
その瞬間だった。
メインエンジンが最大推力へ達する。
轟音。
いや、爆発にも似た衝撃が発射台全体を揺るがした。
ゴォォォォォォォォォォォォォォッ!!
巨大な白炎が、ブースター下部から猛烈な勢いで噴き出す。
炎は何十メートルにも及び、水蒸気と混ざり合って巨大な白煙となった。
大地が震える。
発射台が震える。
遠くにある観測室の厚いガラスまでもが細かく振動した。
地面から伝わる振動は、胸の奥まで響いてくる。
ロケットは最初、ほとんど動かない。
莫大な推力が重力と拮抗する。
そして。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
巨大な機体が発射台から浮き上がった。
「リフトオフ確認!」
管制室へ声が響く。
ロケットは炎をまといながら、確実に高度を上げ始める。
観測員が次々と読み上げる。
「姿勢安定。」
「ロール角正常。」
「ヨー角正常。」
「ピッチ角正常。」
通信班からも報告が続く。
「通信品質良好。」
「記録データ正常。」
「誘導コンピューター正常。」
管制官が叫ぶ。
「目標軌道へ向けて順調に加速中!」
船内では、三人の身体へ強いGが加わり始めていた。
橘は座席へ押し付けられながらも、冷静に操縦計器を見つめる。
「飛行安定。」
進藤。
「航法誤差ゼロ。」
長谷川。
「機体異常なし。」
ロケットは青空を一直線に突き進む。
その後方には、真っ白な噴煙が一本の巨大な線となって空へ伸びていく。
高度5キロ。
高度10キロ。
高度15キロ。
高度20キロ。
速度は音速を超え、機体はさらに加速する。
高度30キロ。
40キロ。
50キロ。
窓の外では、青空が少しずつ濃い藍色へ変わり始めた。
空気抵抗は急激に減少し、機体の振動も次第に落ち着いていく。
地球の丸みが、わずかに視界へ現れ始める。
やがて大気圏上層部へ到達。
空は完全な黒へ近づき、宇宙の色が姿を見せ始めた。
管制官が力強く報告する。
「第一段燃焼終了間近!」
数秒後。
「三……二……一……」
ドンッ!!
大きな衝撃が船内を伝わる。
第一段ブースターが切り離された。
巨大なブースターは役目を終え、地球へ向かって落下していく。
その直後。
第二段メインエンジンが間髪入れず再点火。
再び強烈な加速が始まる。
管制室では歓声ではなく、安堵の息が漏れた。
「ブースター分離、成功。」
「第二段点火確認。」
「飛行、予定通り。」
人類初の有人月面着陸へ向けた飛行は、計画通り順調に続いていた。




