353話 月面クルーの決定
有人月面探査
月面着陸クルーの選出
最終選抜は、国家最高機密として極秘裏に進められた。
全員が有人宇宙飛行や宇宙遊泳を経験、あるいはその任務に耐え得る能力を持つ、日本最高峰の宇宙飛行士たちである。
しかし今回の任務は、それらとは比較にならないほど危険だった。
目的地は地球周回軌道ではない。
約三十八万キロ彼方にある月。
一度出発すれば、途中で簡単に救助へ向かうことはできない。
そのため選考委員会は、これまで以上に厳しい基準を設けた。
評価項目は多岐にわたる。
体力
精神安定性
機体操作の正確さ
チームワーク適性
緊急時の判断力
研究活動の素養
長期間閉鎖空間で生活する適応能力
宇宙酔いへの耐性
月面活動に必要な運動能力
極限状態での冷静さ
候補者たちは何か月にもわたり、何百時間もの模擬飛行、故障対応、月面活動訓練、隔離試験、医学検査、心理検査を繰り返してきた。
委員会には宇宙軍、空軍、帝国大学、医学研究所、文部科学省、さらには明賢自身も参加していた。
膨大な記録映像や評価資料が机いっぱいに並べられる。
誰を選び、誰を残すのか。
それは国家の未来を左右する決断でもあった。
1648年12月18日。
長時間に及ぶ協議の末、ついに結論が出る。
月面着陸ミッション
「月読命」
その乗組員三名が正式に決定した。
チームA
船長・橘創一郎。
進藤凛。
長谷川巧。
選ばれた三人は静かに辞令を受け取る。
歓声はない。
涙もない。
あるのは、「必ず成功させる」という覚悟だけだった。
一方、残る三名はバックアップクルーとして任命される。
しかし、それは決して「予備」という軽い役割ではなかった。
打ち上げ前日に体調不良が発生した場合。
機体トラブルで搭乗員変更が必要になった場合。
あるいは発射延期によって任務計画が変わった場合。
いつでも主力クルーと交代できるよう、全く同じ訓練、全く同じシミュレーション、全く同じ医学管理を受け続ける。
そのため、バックアップ要員も月面着陸の全工程を完全に習得していた。
有人宇宙飛行第一号、第二号の頃よりも、遥かに完成度の高い体制が築き上げられていたのである。
打ち上げ準備開始
正式なクルーが決定すると、三名の宇宙飛行士は直ちに最終隔離施設へ移動した。
そこは外部との接触が完全に遮断された建物である。
菌一つ、感染症一つが、国家計画を中止に追い込む可能性がある。
そのため施設内では徹底した衛生管理が行われていた。
入口では何重もの消毒。
空気は高性能ろ過装置によって常に清浄に保たれる。
医師と看護官が二十四時間体制で健康状態を監視する。
毎朝の血液検査。
体温測定。
心電図。
筋力測定。
睡眠状態の分析。
全てが細かく記録されていく。
食事も専属栄養士によって管理された。
高タンパク、高ビタミン、適切な塩分と水分。
月への長い飛行に耐えられるよう、身体は最高の状態へ整えられていく。
訓練は必要最低限まで減らされた。
これ以上能力を伸ばすことより、疲労を残さないことが優先されたのである。
それでも毎日、操作手順の確認、緊急時のチェックリスト、月面活動計画の読み合わせだけは欠かさなかった。
さらに毎日、心理カウンセリングも実施された。
長期間閉鎖空間で生活する精神状態。
互いの信頼関係。
不安の有無。
どんな小さな変化も見逃さない。
そして明賢との最終面談。
三人は一人ずつ部屋へ入り、任務への決意、家族への思い、月面での目標を静かに語った。
最後には、月面実験セットも再確認される。
地質採取器具。
観測機器。
放射線測定器。
月面設置用反射鏡。
日本が開発した小型観測装置。
一つ一つの器具に異常がないか、宇宙飛行士自身の手で確かめていった。
一方、羽合宇宙センターでは、巨大な有人月面ロケットが静かに最終準備を進めていた。
発射塔を見上げると、白い機体が朝日に照らされ、巨大な一本の塔のようにそびえ立っている。
整備員たちは最後まで妥協しない。
燃料充填。
酸化剤補給。
配線確認。
電子制御装置の動作試験。
通信試験。
誘導コンピューターの最終更新。
一つ終わるたびに、責任者が署名を残していく。
「確認完了。」
「異常なし。」
その声が発射棟のあちこちで響いた。
明賢もまた、ロケット組立棟を自ら歩いて視察していた。
発射台。
整備棟。
管制施設。
燃料設備。
どこへ行っても、整備員たちは作業を止めて敬礼する。
明賢は一つひとつの工程を確認し、責任者へ質問を重ねる。
「誘導装置は。」
「異常ありません。」
「生命維持装置は。」
「二重三重に確認済みです。」
「脱出装置は。」
「全系統正常です。」
全てを確認し終えると、明賢は静かにロケットを見上げた。
その巨大な機体の先には、人類がまだ誰一人として立ったことのない世界が待っている。
そして静かに口を開いた。
「この三人が、人類の歴史を大きく変えることになる。」
その言葉は現場全体へ伝わった。
整備員たちはさらに表情を引き締め、
最後の点検へ戻っていく。
誰一人として手を抜く者はいない。
全員が、歴史の一部になるという自覚を持っていた。
1648年12月23日。
有人月面着陸ロケット打ち上げ当日
羽合島・巨大発射台。
夜明け前から宇宙センターは慌ただしく動いていた。
東の空が少しずつ白み始め、やがて薄桃色の朝焼けが広がっていく。
巨大な発射塔の照明はまだ灯り続け、月面ロケットの白い機体を静かに照らしていた。
冷たい海風が発射場を吹き抜ける。
整備員たちは最後の巡回を終え、一人、また一人と管制施設へ戻っていく。
発射台周辺には、
空軍。
宇宙軍。
帝国大学。
文部科学省長官。
そして精鋭だけで構成された打ち上げ班が集まっていた。
この計画の存在を知る者は、日本国内でも極めて限られている。
世界はまだ、人類が月へ向かおうとしていることを知らない。
静かな緊張が発射場を包んでいた。
その中を、明賢はゆっくりとロケット前へ歩み出た。
全員がその姿を見守る。
やがて明賢は演台の前で足を止め、月面へ向かう三名の宇宙飛行士を静かに見つめた。
明賢の訓示
三人は一直線に整列している。
白い宇宙服。
ヘルメットはまだ装着していない。
真っ直ぐ前を向いていた。
明賢はゆっくりと演台へ立ち、穏やかな口調で語り始めた。
「君たちの月面着陸ミッションの完了により、日本の、そして人類の宇宙計画は、大きな一区切りを迎える。」
静かな声だった。
その一言一言は発射場全体へ深く響く。
「今回の成功は、人類がこれまで到達した最も遠い場所を、さらに更新することになるだろう。」
宇宙飛行士たちは微動だにしない。
明賢は続ける。
「この世界には、かつて宇宙へ向かうという概念すら存在しなかった。」
「しかし我々は、知識を積み重ね、技術を積み重ね、失敗を恐れず歩み続けてきた。」
「動物を宇宙へ送り、人を宇宙へ送り、宇宙遊泳を成功させた。」
「そして今日。」
「その努力が結実する。」
朝日がロケットを照らし始める。
白い機体が黄金色に輝いた。
明賢は最後に三人を見つめ、
静かに言った。
「誇りを持って行ってこい。」
短い言葉だった。
しかし、そこには国家の期待、仲間たちの願い、未来への希望、その全てが込められていた。
三人は同時に敬礼する。
明賢も敬礼を返した。
発射場にいた全員が起立し、一斉に敬礼を行う。
静寂の中、宇宙飛行士たちは一人ずつ向きを変え、
ゆっくりと搭乗口へ歩き始めた。
ただ、全員がその背中を見送り続けた。




