352話 6人の月面着陸訓練
月面着陸ミッション訓練
月面着陸計画の正式決定とともに、選び抜かれた6名の宇宙飛行士は新たな訓練課程へ入った。
有人宇宙飛行士としての訓練を修了した彼らでさえ、教官から最初に告げられた言葉は厳しいものだった。
「これまでの訓練は宇宙へ行くための訓練だ。」
「ここからは違う。」
教官は月面の模型を見渡しながら続けた。
「これから諸君が受けるのは、月で生活し、月から帰るための訓練である。」
誰一人として口を開かなかった。
宇宙へ行くことと、月へ降り立つことはまったく別の任務だった。
宇宙船の中だけで生活するのではない。
重力が地球の六分の一しかない世界で歩き、作業し、基地を建設し、実験をして、再び月を離れて地球へ帰還する。
そのために必要な技術は、これまでの有人宇宙飛行とは比較にならないほど多かった。
教官は静かに言う。
「訓練は有人宇宙飛行より遥かに過酷になる。」
「途中で脱落しても不思議ではない。」
「だが、月へ行く者には、それだけの力が求められる。」
六人は無言で頷いた。
誰も弱音は吐かなかった。
自分たちが日本で最初の月飛行士になることを理解していたからである。
二つのチーム
月面着陸計画では、六名は三人ずつ二つのチームへ分けられた。
どちらかのチームが選ばれ、一方が月面へ降り立てなくなっても、もう一方が任務を引き継げる体制である。
互いに競い合いながら、互いを支える。
それが月計画の基本方針だった。
チームA
船長・橘創一郎。
日本宇宙軍最高のテストパイロット。
四十二歳。
試験飛行経験を持ち、極限状態でも心拍数がほとんど変化しないことで知られている。
訓練で誰かが落ち込めば、誰よりも早く声を掛ける。
部下は皆、橘隊長がいるなら大丈夫だ」と口を揃えた。
進藤凛。
二十九歳。
帝国大学准教授。
惑星科学を専門とする若き女性研究者だった。
月面資源への情熱は人一倍強く、地質サンプルの話になると時間を忘れて語り続ける。
理論を重視する性格で、現場主義の長谷川とはしばしば意見が衝突した。
しかし、二人とも相手の実力だけは誰より認めていた。
議論は激しくても、信頼は揺るがない。
そんな関係だった。
長谷川巧。
三十五歳。
海軍工廠第5研究室出身。
大型機械と造船技術を知り尽くした技術者である。
壊れた装置を見ると、自然と手が動く。
「直らない機械なんてない。」
それが口癖だった。
月面ローバー。
生命維持装置。
発電設備。
どんな故障でも、現場にある部品だけで応急修理してしまう。
明るく豪快な性格で、張り詰める訓練中でも冗談を飛ばし、周囲を笑わせることが多かった。
チームB
船長は宇佐美誠。
四十五歳。
外科医として数多くの命を救い、災害医療でも第一線に立ち続けた人物だった。
宇宙飛行士でありながら医師でもある。
月面では、医療責任者としても全員の命を預かる。
穏やかな笑顔を絶やさず、どんな相談にも耳を傾ける。
皆からは自然と、「先生」と呼ばれていた。
ただし、規律を乱す者には容赦しない。
怒った姿を見た者は、皆二度と同じ失敗を繰り返さなかった。
霧島零。
三十二歳。
地球周回ロケットの開発責任者の一人。
数字を何より信じる効率主義者だった。
歩く距離。
電力消費。
酸素使用量。
通信時間。
全てを計算し、最も合理的な方法を導き出す。
冷たい印象を持たれやすい。
しかし、非常時には誰より早く判断し、新しい制御プログラムを書き上げて仲間を救う。
その姿を知る者は、彼を本当に冷たい人間だとは思わなかった。
日向葵。
二十八歳。
極地建築を専門とする構造設計士。
月面基地建設の責任者でもある。
地球の六分の一という重力環境を、「最高のキャンバスです!」と本気で言ってしまうほど前向きだった。
行動力は群を抜いている。
霧島が「効率が悪い。」と言えば、「まずやってみましょう!」と笑って返す。
慎重派と行動派。
正反対の二人だったが、その組み合わせがチームBの大きな強みになっていた。
月面着陸ミッション訓練
訓練内容は、これまでの有人宇宙飛行とは比較にならないほど幅広かった。
まず始まったのは、月面重力環境での動作訓練である。
特殊な吊り下げ装置を使い、身体重量の約八割を支えた状態で歩行する。
最初は全員が転倒した。
地球と同じ感覚で歩けば、身体が前へ飛びすぎる。
逆に慎重になりすぎると、前へ進めない。
橘は何度も歩幅を修正しながら言った。
「歩くんじゃない。」
「跳ねる感覚だ。」
その助言を聞き、少しずつ全員の動きが自然になっていった。
続いて、着陸船の操縦と故障時対応訓練。
着陸直前にエンジン推力が低下する。
姿勢制御装置が停止する。
高度計が故障する。
あらゆる異常が意図的に発生する。
長谷川は操縦桿を握りながら笑った。
「月まで来て故障なんて、機械も空気読まないな。」
教官は即座に答える。
「月では笑っても誰も助けてくれん。」
「直すのはお前たち自身だ。」
笑っていた長谷川の表情も、すぐ真剣なものへ変わった。
月面サンプル採取訓練では、進藤が本領を発揮した。
岩石の種類。
採取位置。
保存方法。
全てを細かく指示する。
「この石は表面だけじゃ駄目です。」
「下の層も採取してください。」
「採取位置は必ず記録します。」
理論家らしい細かさだった。
一方で長谷川は苦笑する。
「石一つ拾うのも大変だな。」
進藤は即座に返した。
「その石一つで、月の歴史が分かるかもしれないんですよ。」
さらに、生活モジュール設置訓練も始まる。
日向は設計図を広げながら、月面基地の組み立て手順を何度も確認していた。
重力が軽いとはいえ、大型モジュールの展開は容易ではない。
「ここを先に固定してください!」
「支柱はあと5センチ右!」
現場を走り回る姿は、まるで建設現場の監督そのものだった。
訓練では、月影探査機が送ってきた詳細な地形データも活用された。
巨大スクリーンには、実際の月面を基に再現した立体地図が映し出される。
岩の位置。
クレーター。
斜面。
危険地帯。
着陸候補地点。
全てが精密に再現されていた。
橘は何度も着陸シミュレーターを繰り返し、わずかな誤差も許さなかった。
長期間の隔離生活も、重要な訓練だった。
数週間にわたり、六人は外部との接触を断たれる。
限られた空間。
限られた食料。
限られた会話。
精神状態は毎日記録され、医師でもある宇佐美が全員を観察する。
疲労。
孤独。
焦り。
そうした感情をどう管理するかも、月飛行士には欠かせない能力だった。
その後は、宇宙遊泳と月面歩行を組み合わせた複合訓練。
船外へ出て、そのまま月面作業へ移行する。
さらに、月面離脱訓練では、緊急事態を想定して数十秒以内に着陸船へ戻る訓練が何度も繰り返された。
最後には、帰還船への乗り換え模擬訓練まで行われる。
月面へ降りるだけでは終わらない。
必ず地球へ帰る。
そのための訓練だった。
訓練施設には、前世であれば1960年代後半にようやく実現したはずの技術を先取りした、精巧な月面モックアップが広がっていた。
灰色の砂塵。
大小の岩石。
人工クレーター。
月面基地予定地。
全てが実際の月を再現している。
宇宙飛行士たちは、何度も転び、砂塵まみれになり、汗を流しながら歩き続けた。
月で転ばないために。
月で生き残るために。
そして、日本人として初めて月へ降り立つその日のために、六人は誰一人として歩みを止めなかった。




