349話 月影着陸
モニターを見つめながら、明賢は静かに呟いた。
「行け。人類が初めて月へ立つための事前準備だ。」
誰もがその言葉を胸に刻み、再びコンソールへ向き直った。
月影は月へ
そして次に控える有人着陸船のため、誰も歩いたことのない道を切り拓いていく。
月への最終接近
打ち上げから三日。
月影は静かに月へ近づいていた。
船内に人はいない。
あるのは高性能誘導コンピュータと、日本中の技術者たちが十数年かけて作り上げた制御プログラムだけだった。
大型アンテナは常に地球を向き、羽合宇宙センターとの通信を維持している。
管制室では、巨大スクリーンに月影の軌道が描かれていた。
月へ向かって伸びる一本の白い線。
その先端に、小さな光点がゆっくりと進んでいる。
通信主任が報告する。
「月まで残り一万キロ。」
「速度、予定値。」
「姿勢角、誤差0.03度。」
航法主任も続く。
「誘導コンピュータ、正常稼働。」
「月重力圏への進入まで、あと十五分。」
静かな声だけが、広い管制室に響いていた。
月重力圏へ
やがてモニター上で、月影の軌道がわずかに曲がり始める。
航法主任が画面を見つめたまま告げる。
「月重力圏、進入。」
その瞬間、探査機は地球ではなく、月の重力に引かれ始めた。
月面は急速に大きくなり、クレーターの輪郭まではっきり映し出される。
搭載カメラが送る映像には、灰色の海、山脈、無数のクレーター。
人類がまだ一度も近くから見たことのない世界が広がっていた。
映像担当が思わず呟く。
「本当に月なんだ。」
全員がその景色に見入っていた。
月軌道到着
月を背景に、探査機を搭載したモジュールがゆっくり姿勢を変える。
月面に対して逆向きに機体を回転させ、減速噴射の準備へ入った。
航法主任が読み上げる。
「逆噴射姿勢、固定。」
「噴射開始まで十秒。」
大型スクリーンには、秒読みが表示される。
十。
九。
八。
室内は完全な静寂に包まれた。
三。
二。
一。
「逆噴射開始。」
月遷移モジュール後部エンジンが点火。
数分間にわたって燃焼を続け、探査機はゆっくり速度を落としていく。
速度。
高度。
軌道傾斜角。
すべてが計画通りに推移していた。
燃焼終了。
コンピューターが軌道を解析する。
数秒後。
航法主任が顔を上げた。
「月周回軌道到達。」
「パラメータ正常。」
「探査機、分離シークエンスへ移行します。」
その報告に、管制室にはようやく安堵の息が広がった。
月影(探査機)、分離
月周回モジュールの固定ボルトが解除される。
「分離三秒前。」
「二。」
「一。」
ガコン。
静かな衝撃とともに、サービストランクから月影がゆっくり射出された。
小型スラスターが短く噴射し、探査機は単独飛行へ移る。
銀色の船体が、月の淡い光を受けて静かに輝いた。
続いてもう一つの貨物ユニット。
「月面探査パッケージ(前進補給ユニット)」
こちらも分離される。
補給パッケージには、
居住モジュール
観測装置
大型アンテナ
ローバー収納整備コンテナ
電源設備
など、後から到着する有人月着陸船のための機材が搭載されていた。
通信主任。
「探査機、正常分離。」
「補給パッケージ、正常分離。」
「双方とも予定軌道。」
月周回モジュールは役目を終え、待機軌道へ移行した。
一方、月影と補給パッケージは、それぞれ独立して着陸準備へ入る。
月面降下シークエンス開始
月影がゆっくり姿勢を変える。
機首をわずかに持ち上げ、降下エンジンが点火した。
「降下開始。」
「姿勢制御、正常。」
「高度五千。」
「高度四千。」
探査機は自動制御で、少しずつ月面へ近づいていく。
補給パッケージも、少し離れた予定地点へ向けて降下を始めた。
大型スクリーンには、二つの光点が並んで降りていく様子が映る。
航法主任。
「両機とも誘導誤差1メートル未満。」
明賢が静かに頷いた。
「いい。」
「そのまま行け。」
最終降下
「高度三千。」
「高度二千。」
「高度千五百。」
月影はさらに速度を落とす。
月面の細かな地形まで、搭載カメラにはっきり映り始めた。
クレーター。
岩石。
細かなレゴリス。
探査機は事前に選定された平坦地を正確に捉える。
「高度五百。」
「降下安定。」
「着陸レーダー正常。」
「障害物検知なし。」
補給パッケージも、ほぼ同じタイミングで最終降下へ入った。
着陸
高度三十メートル。
降下エンジンの推力がさらに弱まる。
高度十メートル。
月面の砂が静かに舞い始めた。
高度二メートル。
推力最小。
そして。
コトン。
月影は着陸脚で静かに月面を捉えた。
機体は一度だけわずかに揺れ、すぐに静止した。
数十秒後。
補給パッケージも予定地点へ着地。
二つの着陸成功表示が、管制室の巨大スクリーンに点滅する。
通信主任が興奮を抑えきれず立ち上がった。
「月影、着陸成功!」
「補給パッケージ、着陸成功!」
「両機とも正常です!」
それまで静かだった管制室に、一斉に歓声と拍手が響き渡る。
互いに握手を交わす技術者たち。
十数年に及ぶ研究が、今この瞬間、確かな成果となって実を結んだ。
明賢はスクリーンに映る月面を見つめ、静かに拳を握りしめた。
「これで月読命を迎える準備が整った。」
「月は、もう遠い世界ではない。」




