346話 20年の歳月
ある晩。
帝国大学・宇宙工学研究棟。
深夜になっても建物の明かりは消える気配がなかった。
廊下には図面を抱えて走る研究員がおり、試験室からはCNCで金属を加工する音が断続的に響いてくる。
そんな研究棟へ、明賢は護衛を最小限だけ伴って静かに姿を現した。
「明賢様がお見えになりました!」
その一声で研究者たちは立ち上がろうとしたが、明賢は軽く手を上げて制した。
「構わない。仕事を続けてくれ。」
その言葉に、研究室は再び動き始める。
明賢は一つひとつの部屋をゆっくり歩きながら視察した。
床には実験で壊れた模型の破片が散らばっている。
着陸脚の試作品は何本も折れ曲がり、壁際には「失敗」「改良案」と書かれた札が付けられていた。
壁一面には大小さまざまな図面が貼られている。
着陸脚だけでも数十種類。
衝撃吸収方式。
油圧機構。
展開速度。
月面で沈み込まない接地板の形状。
すべてが少しずつ違い、無数の試行錯誤の跡が残されていた。
別の机には未知の合金試験片が整然と並べられている。
あるものは高温試験で赤黒く変色し、あるものは低温試験でひび割れ、あるものだけが美しい銀色のまま形を保っていた。
研究主任が説明する。
「こちらは着陸船外板候補です。」
「こちらはローバー車輪用。」
「こちらは宇宙服関節部材になります。」
明賢は一つひとつを手に取り、重量や表面を確かめながら静かに頷いた。
試験室では月面ローバーの模型が走行実験を行っていた。
細かな砂を敷き詰めた試験路を進むが、途中で片輪が沈み込み停止する。
担当研究者は悔しそうな表情を浮かべる。
「やはり重量配分が。」
その横では別の班が改善案を書き込んでいた。
「車輪幅を広げよう。」
「接地圧をさらに下げる。」
「サスペンションも変更する。」
失敗した直後にもかかわらず、次の案が次々と生まれていく。
明賢はその様子をしばらく黙って見つめた。
そして静かに口を開く。
「良い。」
研究者たちの視線が一斉に集まる。
明賢は壊れた着陸脚を拾い上げた。
「非常に良い。」
誰も言葉を発しない。
「壊れたということは、限界が分かったということだ。」
「限界が分かれば、次はそれを超えればいい。」
研究者たちは静かに頷いた。
明賢は研究室全体を見渡しながら続ける。
「今すぐ月へ行く必要はない。」
「焦る必要もない。」
「だが」
「行く準備は、今から始めておかなければならない。」
「君たちは、その先陣だ。」
その言葉には、不思議な重みがあった。
何百年も先を見据えた者だけが持つ確信だった。
研究者たちの表情には疲労が残っていた。
しかし、その瞳には誇りが宿っている。
明賢は穏やかに微笑んだ。
「未来は必ず来る。」
「人は必ず宇宙へ出る。」
「その時、日本は誰よりも先に月へ立つべきだ。」
「君たちが今描いている図面は、その未来への第一歩になる。」
研究棟は静まり返っていた。
その言葉は、研究者一人ひとりの胸に深く刻まれた。
後年、多くの研究者が「あの夜の言葉が研究人生を支えた」と語るほどであった。
やがて、年月は静かに流れていく。
日本の技術は、一段一段、階段を登るように積み重ねられていった。
重工業は大型構造物を自在に製造できるまで成長し、電子産業は真空管から半導体へと発展を遂げ、半導体工場は高性能な制御装置を生み出し、精密加工技術は宇宙機器に耐えうる精度へ到達していく。
ロケットエンジンもまた、何百回という燃焼試験を経て信頼性を高めていった。
かつて研究室で描かれたラフスケッチは、設計図となり、試作機となり、実証機となり、やがて本物の宇宙船へと姿を変えていく。
月着陸船は二十回以上の全面設計変更を受けた。
重量を削り、燃費を改善し、安全性を高め、着陸精度を極限まで向上させる。
探査ロボットも十数機もの試作機が製作され、
砂塵試験、真空試験、振動試験、低温試験、破壊試験を何度も繰り返した。
壊れては直し、直しては改良し、最後には「月完成形」と呼べる完成形へと到達していった。
1620年代から始まった誰にも知られない静かな研究。
その小さな積み重ねは、やがて1640年代後半の日本初の有人宇宙飛行を実現させる原動力となる。
そして、その成功は終着点ではなかった。
さらにその先人類初の月面着陸という、さらに大きな挑戦への礎となっていくのである。
1647年 夏 羽合宇宙センター
灼熱の太陽が照りつける羽合島。
青く澄み切った空の下、海沿いに広がる巨大な宇宙センターでは、かつてない規模の計画が最終段階を迎えていた。
発射場には、二本の超大型ロケットが静かに並び立っている。
高さは従来の有人宇宙船用ロケットのおよそ三倍。
白銀の機体は陽光を反射して眩しく輝き、その巨大な姿は、まるで空へ伸びる二本の塔のようだった。
近くで見上げる作業員は思わず息をのむ。
「これが、本当に飛ぶのか。」
その圧倒的な存在感は、何度見ても慣れることがなかった。
一本は、人類初の月面着陸を担う有人月面着陸船を搭載したメインロケット。
もう一本は、無人月面探査機、探査ローバー、観測機器、住居モジュール、そして将来の月面基地建設に必要な資材を搭載した輸送ロケットだった。
発射場では空軍、宇宙軍、文部科学省、帝国大学、さらに羽合基地と羽合管制センターの技術者たちが昼夜を問わず最終準備を続けている。
燃料充填班。
通信班。
誘導班。
整備班。
医療班。
この二つの計画
月面有人着陸計画「月読命」
そして、月面探査機先行投入計画「月影」
そのどちらも、十年以上に及ぶ基礎研究と数え切れない実験、失敗、改良の末に、ついに「構想」ではなく「実行」の段階へと到達したのである。




