252話 開戰初日
開戦の日
1638年3月14日
夜明け前。
まだ薄暗い空の下、マドリード王宮とリスボン王宮で、ほぼ同時に二通の文書へ署名が行われた。
蝋燭の火が揺れる。
重い沈黙の中、書記官がゆっくりと読み上げる。
「日本国に対し、スペイン=ポルトガル連合王国は、ここに宣戦を布告する。」
わずか数行。
しかし、その数行が世界を変えた。
文書は直ちに外交使節へ渡され、港へ、連絡船へ、各国へと運ばれていく。
まだ誰も、この戦争が何をもたらすのか理解していなかった。
欧州全土に走る衝撃
朝。
ロンドン。
外務省へ一報が飛び込む。
「スペインが……日本へ宣戦を布告しました。」
部屋の空気が凍った。
「何?」
「確認は取れているのか。」
「マドリードとリスボンの両方からです。」
大臣は立ち上がった。
「馬鹿な。」
窓の外を見る。
曇り空だった。
嫌な予感しかしなかった。
パリ。
宮廷は朝から大混乱だった。
「本当か!?」
「誤報ではないのか!?」
「いや、既に外交官から裏が取れております!」
「何故こんな時に!」
貴族たちは顔を見合わせた。
誰も笑っていない。
数年前から断片的に伝わる日本の情報。
鉄の船。
遠くから正確に飛ぶ砲。
瞬時に移動する軍。
噂としか思えなかった。
だが、もしそれが本当なら。
スペインは何と戦おうとしているのか。
誰にも分からなかった。
アムステルダム。
商人たちは青ざめた。
「海が荒れるぞ……。」
「交易路はどうなる……。」
「保険料を上げろ!」
「全船に警告を出せ!」
港町は朝から騒然となった。
バチカン。
鐘が深く鳴る。
ゴォーン……
ゴォーン……
長く、重く。
まるで不吉な未来を告げるようだった。
神官たちは祈った。
誰もが感じていた。
これは単なる国家間戦争ではない。
何かが変わる。
世界そのものが変わる。
そんな予感だった。
神聖ローマ帝国。
プロイセン。
会議室では静かな議論が行われていた。
「どちらが勝つと思う。」
誰も答えない。
やがて老将軍が口を開く。
「分からん。」
「だが、日本が噂通りの国ならば。」
そこで言葉を切った。
続きを言う必要はなかった。
全員が同じことを考えていた。
数日後
大西洋を渡った文書が、ニューヨークにある日本新大陸外務局へ届けられた。
外交官が封を切る。
一度、目を通す。
そして顔を上げた。
「来ました。」
会議室が静まり返る。
書類が司令官の前へ置かれた。
そこには、はっきりと書かれていた。
『スペイン=ポルトガル連合王国は、日本国へ宣戦を布告する。』
数秒の沈黙。
誰も慌てなかった。
誰も驚かなかった。
それは、既に予測されていた未来だった。
司令官が文書を閉じる。
そして、静かに言った。
「受理する。」
一同が顔を上げる。
司令官は続けた。
「これより日本国は戦時に入る。」
その一言で、数年に及ぶ準備は終わった。
戦争が始まった。
新大陸司令部 → 全軍通信
通信室。
無数の機器が並ぶ。
通信士たちが席につく。
空気は張り詰めていた。
通信主任が深く息を吸う。
「送信準備。」
「回線接続。」
「暗号化完了。」
「全軍接続確認。」
一人の通信士が小さく頷いた。
「いつでも送れます。」
司令官が言う。
「送れ。」
通信士がキーを叩く。
暗号文が日本中へ飛んだ。
作戦名 幻影
全軍、予定通り行動を開始せよ。
その瞬間だった。
日本軍全体が動き始めた。
大西洋。
日本艦隊の通信室。
「司令部から暗号電文。」
艦長が受け取る。
数秒後。
頷いた。
「始まったか。」
南米。
前線基地。
通信兵が駆け込む。
「開戦命令です!」
参謀たちが立ち上がる。
地図が広げられる。
時計が見られる。
「予定通り進める。」
「はい!」
海兵隊基地。
整列していた兵士たちへ命令が届く。
「全員出港準備!」
「弾薬確認!」
「上陸装備点検!」
慌ただしく動き始める。
しかし、その顔には焦りがない。
何度も訓練した。
何度も繰り返した。
ついに、その日が来ただけだった。
海軍の開戦行動
大西洋。
灰色の海。
水平線の彼方に、スペイン艦隊が航行していた。
そのさらに遠方。
一隻の日本艦が静かに進む。
小型の偵察艦。
艦橋で見張り員が報告する。
「敵艦隊、視認。」
艦長が双眼鏡を下ろす。
「距離。」
「12km。」
艦長が頷いた。
「主砲。」
「十発だけ撃て。」
「了解。」
数秒後。
ドォン!!
第一射。
ドォン!!
第二射。
砲声が海へ響く。
十発。
それだけだった。
艦長が命じる。
「転舵。」
「第四戦速。」
「離脱する。」
エンジンが唸る。
偵察艦は向きを変えた。
まるで魚のように海を滑り始める。
一方。
スペイン艦隊。
見張り員が叫んだ。
「砲撃!」
「右舷方向!」
海面に水柱が上がる。
司令官が怒鳴った。
「何だ!?」
「敵艦一隻確認!」
「一隻だと!?」
双眼鏡を奪い取る。
確かにいた。
黒い船。
見たことのない形。
そして速い。
異常なほど速い。
司令官が叫ぶ。
「追え!」
艦隊が進路を変える。
しかし。
黒い艦は、するすると遠ざかっていく。
「追いつけません!」
「速度を上げろ!」
「これが限界です!」
距離は開く一方だった。
司令官が歯を食いしばる。
「くそっ!」
1時間後。
偵察艦が再び向きを変える。
ドォン!!
また一発。
ドォン!!
また一発。
そして再び逃げる。
「また撃ってきた!」
「追え!」
「待て、罠かもしれん!」
「だが攻撃されているんだ!放置できるか!」
「主力を呼べ!」
「いや、主力を動かすな!」
「ではどうする!?」
誰も答えられない。
命令が錯綜する。
艦隊が乱れる。
隊列が崩れる。
指揮官たちは苛立ち始めた。
それから数時間。
撃っては逃げる。
近づいては消える。
現れては姿を消す。
まるで幽霊だった。
一人の将校が呟く。
「何なんだ、あれは。」
別の将校が顔を歪める。
「我々をもて遊んでいるのか……。」
誰も否定できなかった。
そして、この時。
スペイン艦隊が必死に追い回していたその遥か彼方。
水平線の向こうでは、日本海軍の主力艦隊が、誰にも知られることなく、静かに次の行動へ移り始めていた。
海兵隊・陸軍の開戦行動
開戦コードが発令されると同時に、日本海兵隊と陸軍もまた、事前に定められていた戦時計画へ移行した。
北米国境、汎名、南嶺。
各方面軍司令部には、ほぼ同時に暗号電文が届けられる。
「作戦名・幻影、第一段階を実施せよ。」
その文面は短かった。
だが、それは何ヶ月もかけて準備されてきた戦争計画が、ついに現実となったことを意味していた。
メキシコ国境
夜明け前の国境地帯。
乾いた風が吹き、静寂だけが広がっている。
第一線では、日本兵たちが静かに持ち場についていた。
機関銃手が弾帯を確認する。
観測兵が双眼鏡を覗き込む。
通信兵が受話器を握り締める。
誰一人として騒がない。
彼らはすでに、スペイン軍が国境へ大兵力を集結させていることを知っていた。
しかし、日本側には焦りがなかった。
司令官が静かに言う。
「命令を確認する。」
副官が答えた。
「第一段階は防御です。敵を引きつけ、前進を阻止し、国境へ釘付けにします。」
司令官はゆっくり頷いた。
「よろしい。我々の役目は勝つことではない。」
彼は地図の奥を指差す。
「敵を、ここから動けなくすることだ。」
周囲の将校たちは静かに敬礼した。
彼らは、自分たちが戦争の主役ではないことを理解していた。
主役は別にいる。
自分たちは、その舞台を整える役目なのだ。
パナマ方面
熱帯の密林でも、日本軍は動いていた。
工兵隊が最後の防御工事を進めている。
土嚢が積まれ、機関銃座が完成し、弾薬庫が偽装網で覆われる。
将校が地図を広げた。
「敵はこちらへ兵を集中させるだろう。」
参謀が答える。
「はい。汎名を失えば大西洋や南米が危険になります。必ず主力を投入してきます。」
「それでいい。」
司令官は淡々と言った。
「来るなら来させろ。」
彼はさらに続けた。
「敵がここへ兵を集めれば集めるほど、他の地域は手薄になる。」
誰も反論しなかった。
全員が同じ作戦図を見ている。
敵を一点へ誘導する。
そして、その背後へ刃を突き立てる。
それが日本軍の戦略だった。
海兵隊集結地
一方、大西洋のどこか。
濃い霧に包まれた海域で、巨大な艦隊が静かに集結していた。
揚陸艦。
輸送艦。
補給艦。
護衛艦。
そして、海兵隊を乗せた数多くの船団。
艦内では、海兵隊員たちが最終装備点検を行っていた。
小銃を確認する。
弾薬を数える。
無線機を調整する。
若い隊員が小さく呟いた。
「始まったんですね…… 。」
隣の熟練兵が答える。
「ああ。」
そして窓の外を見た。
そこには、夜の海を埋め尽くすほどの艦影が並んでいる。
古参兵は静かに言った。
「だが、まだ始まっただけだ。」
「……。」
「俺たちの仕事はこれからだ。」
若い隊員は無言で頷いた。
海兵隊司令部
旗艦の作戦室。
巨大な海図の前で、海兵隊司令官が立っていた。
壁には敵植民地の地図が並んでいる。
港。
道路。
要塞。
鉄道。
補給拠点。
すべてが細かく記されていた。
参謀が報告する。
「スペイン艦隊は現在、海軍の偵察艦に翻弄されています。」
「予想通りか。」
「はい。敵主力は完全に誘導されています。」
司令官は腕を組んだ。
「国境方面は。」
「敵兵力の集中が確認されています。」
「よろしい。」
彼は静かに地図を見つめた。
しばらくして、低い声で言った。
「敵は、我々が正面から来ると思っている。」
誰も答えない。
司令官は海図へ指を置いた。
「だが、本命はこちらだ。」
その指は、スペイン植民地の海岸へ止まっていた。
作戦室が静まり返る。
全員が理解していた。
国境は囮。
本命は海から来る。
戦争の重心そのものをひっくり返す。
それが日本軍の狙いだった。
1638年3月14日。
世界の誰もが、日本軍とスペイン軍が国境で激突する。
そう予想していた。
スペインも。
ポルトガルも。
欧州列強も。
誰一人として疑わなかった。
しかし、日本総司令部の地図の上では、赤い矢印は国境へ向いていなかった。
その矢印は、大西洋の彼方、スペイン植民地の背後へ向けて静かに伸びていた。
戦争は始まった。
だが、日本軍はまだ本当の牙を見せていない。
すべては、第二段階へ移行するその瞬間のために動いていた。




