244話 疑心は警戒へ
スペイン王国で開戦方針が決定された直後、王国全土へ緊急命令が発せられた。
マドリード。
王宮の鐘楼から重い鐘の音が鳴り響く。
その音は単なる時刻を告げるものではない。
再軍備の始まりを意味していた。
軍務省。
海軍本部。
植民地総督府。
各地へ早馬が走り、封印された命令書が次々と届けられる。
「国王陛下の名において命ずる。」
「直ちに戦争準備を開始せよ。」
命令は極めて明確だった。
・艦隊再整備
・火砲生産の増強
・植民地兵力の徴収
・補給拠点の拡充
・遠征計画の策定
・海軍基地の増設
・大西洋航路の警備強化
各部署は一斉に動き始める。
海軍工廠では昼夜を問わず作業が続いた。
職人たちは砲身を鋳造し、船大工たちは軍艦の修繕を急ぐ。
提督たちは航海図を広げ、参謀たちは日本領新大陸の地図を検討する。
「補給港はどこになる。」
「大西洋横断に何週間必要だ。」
「敵艦隊の規模は。」
だが。
どの議論にも共通する問題があった。
誰も日本の実力を正確に把握できないのである。
情報は断片的だった。
北米開発。
巨大艦隊。
大陸横断鉄道。
大型港湾。
イングランド内戦への介入。
どれも事実らしい。
しかし実際にどこまで本当なのか。
誰にも分からなかった。
それが逆に恐怖を生んでいた。
南米植民地でも兵士の動員が始まる。
総督たちは兵士を集め、倉庫の在庫を確認し、港湾施設を戦時体制へ移行させる。
「日本軍が来るのか?」
若い兵士が不安そうに尋ねる。
上官も即答できなかった。
日本という国は遠すぎた。
未知すぎた。
だが本国が恐れている以上、何かとてつもない相手なのだろう。
そう考える者が増えていった。
一方その頃。
イングランドでは、スペイン側の異常な動きを察知していた。
新たに成立した共和国政府。
ロンドンの外務局では、各地から集まる報告が山のように積まれていた。
「スペイン海軍が艦艇整備を加速。」
「ポルトガル海軍も動員開始。」
「南米植民地で徴兵実施。」
会議室には重苦しい沈黙が流れる。
誰もが同じ結論へ達していた。
標的は日本である。
そして。
彼らには日本へ恩があった。
国家存亡の危機を救われた恩義である。
共和国首脳部は協議の末、密使を日本へ送ることを決定した。
東京。
外務省南洋局本部。
一頭の馬が砂煙を上げながら門前へ駆け込む。
騎乗していた使者は息を切らしながら叫んだ。
「英国代表より急報!」
警備兵たちは直ちに施設内部へ案内する。
封蝋付きの書簡は、最優先扱いとして明賢の元へ運ばれた。
執務室。
静かな空気の中、外交官が書簡を差し出す。
明賢は封蝋を確認した。
送り主はイングランド共和国代表。
彼はゆっくりと封を切る。
中には短く、しかし鋭い文面が記されていた。
「スペイン・ポルトガルは、貴国を恐れ疑っている。」
「我々の報告の一部を聞き、日本の力を測ろうとしている。」
「両国の動向には十分注意されたし。」
わずか数行。
しかし内容は重い。
欧州最大級の海洋国家二国が、日本を警戒し始めているという警告だった。
イングランド側にとっても、これは単なる外交情報ではない。
恩義への報告である。
日本がいなければ、共和国そのものが存在しなかったのだから。
報告を読み終えた瞬間。
明賢の目がわずかに細くなった。
表情に驚きはない。
むしろ。
予想していた結果を確認したような顔だった。
彼は静かに呟く。
「やはり動いたか。」
部屋にいた側近たちは黙って耳を傾ける。
明賢は再び書簡へ視線を落とした。
「スペインのことだ。」
「我々が新大陸を掌握した時点で、警戒が頂点に達するとは思っていた。」
冷静だった。
むしろ遅かったとさえ感じている。
北米大陸の獲得。
巨大港湾。
人口移住。
どれも既存列強から見れば脅威そのものだった。
側近が慎重に尋ねる。
「戦争になりますか。」
短い沈黙。
明賢は書簡を机へ置いた。
そして静かに立ち上がる。
背筋が伸びる。
室内の空気が張り詰める。
彼は窓の外を見た。
遠くには港。
さらにその先には太平洋。
そして北米。
世界地図が脳裏に広がっている。
やがて明賢は振り返った。
その目には迷いが無かった。
「よい。」
静かな声だった。
だが全員が聞き逃さなかった。
「スペイン・ポルトガルが宣戦布告するなら。」
さらに続ける。
「その意志を、我らもまた受け取ろう。」
その一言。
それだけで十分だった。
側近たちは即座に理解する。
日本政府が動く。
海軍。
陸軍。
海兵隊。
外務省。
全てが戦時準備へ移行する。
長く続いた拡張と開発の時代は終わりを迎えようとしていた。
そして今。
世界最大の海洋帝国と、急速に台頭する日本。
両者が正面から向き合う時代が、静かに始まろうとしていたのである。




