137話 熱帯病の駆逐
汎名衛生局
雨季のぬかるみが去っても、湿り気は大地の奥深くに残り続けていた。
地表は乾きはじめても、踏みしめればじわりと水が滲む。
空気は重く、肺の奥にまとわりつくようだった。
川のほとりでは蚊の群れが渦を巻き、夕刻になると黒い雲のように立ちのぼる。
労働者たちは日々、泥と汗にまみれて働く。
陽射しに焼かれ、雨に打たれ、湿気の中で眠る。
ひとり、またひとりと体調を崩していった。
「昨日の夜から高熱だ。起き上がれない。」
宿舎の隅で、作業員が呻くように言う。
額は熱く、唇は乾き、目は虚ろだった。
仲間が慌てて仮設診療所へ運ぶ。
白衣を着た衛生兵が駆け寄る。
「体温、四十度、脈も速い。すぐに隔離を!」
「はっ!」
周囲の者が声を揃え、患者を担架に乗せる。
布で覆い、隔離棟へ急ぐ。
汎名現地では、帝国大学医学部から派遣された医官たちが、現場指揮官の指示のもと「衛生局」を設立していた。
掘削と同時に、もう一つの戦いが始まっていた。
目に見えない敵との戦い。
マラリア。
黄熱病。
破傷風。
熱帯の病は容赦がない。
だからこそ、予防と隔離、そして衛生教育が同時に行われた。
診療所の裏手には井戸と貯水タンク。
日本本土から持ち込んだ簡易濾過装置が据え付けられている。
濁った水が、布と砂と炭を通り、透明に変わる。
水は必ず煮沸。
炊事場には消毒用アルコール。
器具は煮る。
包帯は焼く。
トイレは運河流域と逆方向に掘られ、排水は消毒されが工事用水に混ざらぬよう設計された。
図面には赤い注意書き。
「衛生水系分離、厳守。」
医官の一人、帝大卒の田沢医師は、日本から送られたワクチンと薬品を前に、深く息を吐いた。
木箱の中身は限られている。
「数が足りない。雨季で船が遅れたか。」
助手が不安そうに問う。
「先生、このままでは」
田沢は静かに首を振る。
「わかっている。だが、絶望するな。我々には衛生兵がいる。」
その言葉通り、衛生兵たちは昼夜なく動いた。
日本陸軍の医療課程を修了した者たち。
医師の指示を受け、防護服を被り、応急処置を行い、患部を消毒し、熱を測り、症状を記録する。
誰がどこで倒れたか。
どの区域で蚊が多いか。
どの水源を使っていたか。
一つひとつを書き留める。
感染経路を追う。
やがて、対策が打たれる。
川辺の草を刈る。
水たまりに殺虫剤を撒く。
宿舎に蚊帳を配る。
夕刻、診療所の灯りがともる。
熱にうなされていた作業員が、かすかに目を開ける。
「まだ、生きてるか。」
衛生兵が微笑む。
「当たり前だ。復活したら、働いてもらうんだぞ。」
外では、掘削現場の遠いエンジン音が響いている。
運河を掘る手。
命を守る手。
そのどちらも止まらない。
汎名衛生局。
それは、電力と同じだけ重要な、もう一つの基礎だった。
蚊の発生源となる溜まり水を排除するため、彼らは毎朝、日の出と共に沼地を歩いた。
まだ薄暗い湿地に長靴で踏み入り、草をかき分け、水面を覗き込む。
殺虫剤の入った噴霧器を肩に担ぎ、小さな水たまりにも撒いていく。
薬剤が水面に広がり、朝日を受けて虹色に光る。
「今日も蚊の巣を潰すぞ! 一匹たりとも残すな!」
「了解!」
日差しはすぐに強くなる。
背中を汗が流れ、泥が足にまとわりつく。
それでも声は明るい。
掘削機の轟音の合間に、笑い声さえ混じる。
運河を掘るのと同じだけ、蚊を減らすことが重要だと、皆が理解し始めていた。
診療所の外では、衛生兵のひとりが木箱を裏返し、即席の台にしていた。
「いいか、みんな! この病気は学校で習った通り迷信や悪い空気じゃない。蚊に刺されるのが原因だ。肌を出すな、寝るときは必ずこの布を使え!」
そう言って、彼は白い蚊帳を高く掲げる。
薄布が風に揺れ、光を透かす。
労働者たちは興味深そうに見つめ、やがて頷きながら笑った。
「なるほどな、だから隊長のとこは誰も倒れねぇのか!」
「そうだ、我慢してでも布団で寝ろ!」
冗談交じりの声が飛び、場の空気が和らぐ。
講義は続く。
「長袖を着ろ。水は必ず塩素消毒しろ。熱が出たら隠すな、すぐ来い。」
一つひとつ、丁寧に伝えていく。
やがて、衛生兵たちの努力が、目に見える形で現れ始めた。
発熱者の数は次第に減少。
隔離所から退院して、再び現場へ戻る者が増えていく。
かつて満床だった簡易病棟に、空きの寝台が目立つようになる。
宿舎の掲示板には、衛生局が発表した「清潔十訓」と題する紙が貼られた。
墨で大きく書かれている。
一、食前に手洗いとアルコール消毒を徹底すること。
二、宿舎の周囲に水溜まりを作らぬこと。
三、排水溝に不用意に足を入れぬこと。
四、発熱した者は即時報告すること。
五、蚊帳を毎晩張ること。
六、飲み水を消毒すること。
七、靴を履いて作業すること。
八、擦り傷は必ず洗い消毒すること。
九、汚水を掘削場へ流さないこと。
十、決して仲間を見捨てないこと。
最後の一文だけ、どこか力強い筆致だった。
「最後の一条は、明賢様の言葉だそうだ。」
医官がそう言うと、その場にいた者たちは無言で頷く。
規則であると同時に、誓いでもあった。
汎名の空には、まだ湿気が残る。
時折、スコールのような雨が落ちる。
だが、以前のような不安の影はない。
診療所の扉が開く。
白衣を翻し、衛生兵が笑顔で声を上げる。
「さあ、もう大丈夫だ。汎名の運河も、人の命も、必ず繋いでみせる。」
その言葉は、単なる慰めではなかった。
運河が海と海を繋ぐなら、衛生は命と未来を繋ぐ。
見えない敵に立ち向かった経験は、やがて体系化され、記録され、継承されていく。
そうして、汎名の衛生局は外地初の「前線衛生部隊」としての礎となり、鋼鉄の水門と同じように、静かに、しかし確かに、この地を支える柱となっていった。




