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明賢の物語(日本建国物語)正式版  作者: 大和草


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136/141

136話 熱帯の雨季

汎名運河、掘削。

その記録は、日本国の歴史に刻まれる新たな一行となった。


それは一枚の報告書の中だけではない。

地図の上に引かれた一本の線でもない。

赤土に刻まれた溝と、鋼鉄と、幾千の足跡によって刻まれた、記録だった。


湿った風が吹き抜ける。


空は朝から濃い鉛色。

雲は低く垂れこめ、地平線の向こうで稲光が白く走る。


「雨季が来たな。」


現場監督の声が、低く、重く響いた。


掘削区間の谷底は、すでにぬかるみ始めている。

昨日まで乾いていた土が、一夜にして粘土のように変わっていた。


重機の履帯は沈み込み、エンジンが唸っても前へ進まない。


泥が巻き上がり、鋼鉄のキャタピラを包み込む。


ブルドーザーの運転士が通信機を握る。


「指揮所、こちら第二区画!4番掘削機、泥に沈み動けません!」


雑音混じりの通信が返る。


「わかった、クレーンを回せ!牽引ロープは新品を使え、切れるぞ!」


声を張り上げた監督の足元にも、茶色い水が広がり、波紋を描く。


午後。


空が裂けたかのように、激しい雨が落ちてきた。


視界は十メートル先も見えない。

雨粒は槍のように叩きつけ、土煙は一瞬で泥水へと変わる。


やむなく工事は中断。


作業員たちは仮設小屋へ駆け込む。


鉄の屋根を叩く雨音が、轟音となって響く。


誰もが黙り込む。


ただ、待つしかない。


「まるで天が怒ってるみてぇだな。」


若い作業員がぽつりと呟く。


隣では、年配の監督が湿った煙草を指で転がし、苦笑した。


「怒っちゃいねぇさ。ただ、俺たちがこの土地に慣れてねぇだけだ。」


若者は外を見つめる。


滝のような雨。

泥に沈む重機。


「だけど、これじゃ掘削どころじゃありませんよ。」


監督はゆっくりと頷く。


「そうだな。だが、この地を貫くまで諦めるな。雨季は長くても、必ず晴れる。」


その言葉は、雨音の向こうで確かに響いた。


若者は静かに頷く。


翌日。


雨脚がわずかに弱まる。


空はまだ灰色だが、雲の切れ間からかすかな光が差した。


「今だ、再開する!」


号令が飛ぶ。


作業員たちは膝まで泥に浸かりながら、排水ポンプを始動する。


鋼鉄の筐体を固定し、ホースを谷底へ伸ばす。


発電機が始動する。


ドドドド、と振動が地面を伝う。


やがて、排水ホースの先から泥水が勢いよく吐き出された。


濁流が側溝へ流れ込み、掘削地の水位がわずかに下がる。


「流量安定、圧力正常。」


ポンプを監視する帝国大学出身の技術者が、計器を確認する。


彼は通信機に向かい、本部へ報告を送った。


「こちら第三排水班。排水開始、毎分三千リットル。地盤回復見込み、約六時間。」


雑音の向こうで、承認の声が返る。


泥と雨。

自然は容赦がない。


だが人もまた、知恵と機械で応える。


ポンプは唸り続け、泥水は吐き出され、

掘削面が再び姿を現していく。


汎名運河は、晴天だけで築かれるものではない。


嵐と泥と雷鳴の中で、一歩ずつ前へ進む。


歴史に刻まれるその一行は、汗だけでなく、雨と泥によっても書き加えられていった。


「排水能力は想定の三割増。耐久性にも問題なし。だが、電力供給が不安定です。予備発電機の配備を要請します。」


通信線の向こうで本部の担当官が応答する。

「了解。追加発電機二基、次便で送る。燃料も増送する。」


短い会話だったが、それだけで現場の空気は少し軽くなった。


夜に雨脚はさらに強まった。


仮設宿舎のトタン屋根を叩く音が、まるで太鼓の連打のように鳴り続ける。


明賢が日本から送らせた新型防水布で覆ったはずの屋根も、縫い目からわずかに水が滴り落ちる。


ぽたり、ぽたり、と一定の間隔で落ちる水滴。


作業員たちは濡れた服のまま毛布にくるまり、泥の匂いと湿気の中で眠りにつく。


翌朝。


まだ雲は厚い。


だが、彼らは再び立ち上がる。


長靴を履き、泥にまみれた工具を手に取り、掘削地へ向かう。


「今日も泥まみれだな。」

「おう、もう泥が俺の制服みてぇなもんだ。」


笑い声が広がる。


疲労は確かにある。

筋肉は重く、衣服は乾かない。


それでも、冗談は尽きない。


誰かが転べば、皆が手を差し伸べる。

誰かの機械が止まれば、皆で押す。


数週間が過ぎた。


ある朝、雲の隙間から光が差した。


「晴れだ。」


誰かが空を見上げる。


久しぶりの太陽。


湿った地面から蒸気が立ち上り、掘削現場に再び重機の轟音が戻る。


ブルドーザーが動き、ショベルが赤土を掘り上げる。


積み上げられた土砂の山が、陽光を受けて黄金色に輝く。


技術者の一人が、泥にまみれた地図を広げた。


赤鉛筆で引かれた線は、湖へと向かって延びている。


「あと三キロで湖に繋がる。

ここを越えたら、すぐに行けます。」


その言葉に、誰もが頷いた。


汎名の雨は過酷だった。

重機を沈め、地面を崩し、工程を狂わせた。


だが、その雨を耐え抜いた者たちの絆は、水門のように強くなっていた。


季節は変わる。


空は次第に青さを取り戻し、風は軽くなる。


泥に沈んでいた重機は整備を終え、再び息を吹き返す。


履帯が回転し、鋼鉄の刃が大地を削る。


汎名の地に刻まれていく一本の溝。


それは単なる水路ではない。


海と海を結ぶ道。

人と人を結ぶ意志。


雨を越え、嵐を越え、


日本人たちの決意は、赤土の中に、確かに刻まれ続けていた。

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