138話 水門建造
汎名運河開削再始動
季節は巡り、重く垂れ込めていた雲と雨は、ゆっくりと遠ざかった。
ある朝、空は澄み切った青を取り戻す。
湿り気を帯びていた大地も、陽光に照らされ、白い蒸気を立ちのぼらせながら乾いていった。
ぬかるみに沈んでいた掘削地の土は固まり、放置されていた重機たちが、まるで長い眠りから目覚めるように唸り声を上げる。
エンジンが回る。
履帯が軋む。
「油を差せ! ベアリングを確認しろ、止まるなよ!」
現場監督の声が響く。
雨季で中断していた工事が、いま再び動き出したのだ。
だが、ただの再開ではない。
現場の空気は以前よりも引き締まり、どこか確信に満ちていた。
衛生兵たちの働きにより、労働者の健康被害は目に見えて減少。
熱に倒れる者はほとんどいない。
診療所は静かで、笑い声さえ聞こえる。
掘削班の手には、再び泥が戻る。
シャベルが土を掘り、クレーンが岩塊を吊り上げる。
測量班は水平器を覗き込み、白い標杭を打ち直す。
「この位置なら水門を問題なく置ける。」
「誤差二センチ以内、許容範囲です。」
報告が重なる。
やがて、汎名から日本本土へ、大陸間ケーブル通信による報が送られた。
受信先は、国土交通省。
静かに紙帯へと打ち出される。
『雨季明け、工事再開可能。水位変化激甚。現行鋼鉄製水門、耐久に懸念あり。新型鋼鉄製水門の設計・製造を要請す。』
報告を受けた明賢は、東京郊外にある海軍開発工廠へ直ちに向かった。
広大な工場。
天井の高い建屋の中央では、巨大な鋼板が吊り下げられている。
溶接機が鳴り響き、火花が散る。
蒸気が立ちのぼり、金属の匂いが満ちる。
「強度試験の結果は?」
明賢の問いに、技師が即答する。
「降伏点は予定値を上回っています。ただ、潮風による腐食が懸念されます。」
「ならば防錆塗装を三層にしろ。外面は酸化防止。内側には防錆樹脂を使う。」
即断だった。
技師たちはうなずき、設計図を広げる。
コンパスが走り、定規が滑る。
鋼鉄製水門は、ただの板ではない。
潮流を受け止め、水位差を制御し、幾十年もの圧力に耐える門。
新型水門の製造が始まる。
鋼板が重ねられ、リベットが打たれ、溶接の火花が夜を照らす。
遠く離れた汎名では、再び掘削が進む。
運河の溝は日ごとに深まり、湖へと近づいていく。
鋼鉄と土。
本土と外地。
工廠の火花と、熱帯の太陽光。
すべてが一つの線で結ばれていた。
汎名運河
製造は昼夜を問わず続けられた。
溶接の火花が散り、赤熱した鋼が圧延機によって引き伸ばされる。
金属音が反響し、その余韻は夜の東京湾まで届くかのようだった。
鋼板はJIS規格に基づく鋼材が使用され、内部には水圧を分散させる強固な骨組みが組み込まれる。
縦梁、横梁、補強肋材。
すべてが計算され、誤差は許されない。
構造用鋼から組み上げられた水門は、高さ十二メートル、幅三十メートル。
巨大な鋼鉄の壁が、工場中央にそびえ立つ。
完成の瞬間、工具を握っていた作業員の手が止まり、やがて自然と拍手が広がった。
「これが、運河を繋ぐ弁だな。」
誰かがそう呟く。
鋼鉄水門は分割式。
輸送を考慮し、分けられている。
巨大クレーンがゆっくりと吊り上げ、トレーラーへと載せる。
搬出先は、東京湾岸の貨物港
そこには、輸送船が待機していた。
船倉には補給物資。
重油。
新たな冷却装置。
そして汎名衛生局へ送る新型薬品の木箱。
鋼鉄と医薬。
門を築く力と、命を守る力。
その両方が積み込まれていく。
出航の日、東京湾沿岸の埠頭には多くの人が集まった。
技師。
作業員。
官僚。
軍人。
学生。
皆、巨大な鋼鉄の部材を見上げている。
その中央に立つ明賢が、静かに口を開いた。
「この門は、人の努力が生んだ証だ。海を越えた友が待っている。我らの手で汎名の水門を完成させよう。」
やがて、汽笛が鳴る。
低く、長く。
巨大な輸送船がゆっくりと岸を離れる。
白波を引き、船首は南を向く。
南へ。
そして西へ。
甲板の上で、若い技師が空を見上げた。
夕暮れの雲が、赤く染まっている。
「本当に、海を繋ぐんだな。」
その呟きは風に溶けた。
こうして、日本から汎名へ、再び希望と鋼鉄を乗せた船団が旅立つ。
運河はまだ未完成。
人の意志はすでに、海を越えていた。




