第22話:【回想】廃棄品が見る夢、冷たい手だけが優しくて(前半)
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熱い。
背中が、燃えるように熱い。
俺は、泥にまみれたブーツを、重苦しく引き上げた。
足の裏に、腐った植物の繊維と、粘り気のある泥が絡みつく。
一歩進むたびに、体力が泥沼に吸い取られていくようだ。
「……ハァ、ハァ……」
荒い息が、白い霧となって口から漏れる。
俺の体は、魔剣の呪いによって極限まで冷え切っているはずだ。
なのに、背中だけが、焼け付くように熱い。
背負っているキナの体温だ。
彼女の体は、火傷しそうなほどの高熱を発していた。
俺の冷たいコート越しにさえ、その熱がじわじわと伝わってくる。
ドクン、ドクン、という彼女の心臓の音が、俺の背骨を直接叩いている。
速い。
そして、弱い。
まるで、壊れかけたエンジンのように、不規則なリズムを刻んでいる。
「……う、ぅ……」
耳元で、キナのうめき声が聞こえた。
言葉にならない、苦悶の吐息。
その息さえも、熱風のように俺の首筋を撫でる。
(急げ……)
俺は、奥歯を噛み締めた。
焦りが、胸の中で渦を巻く。
毒が回っている。
あの蚊の針から注入された毒が、彼女の小さな体を内側から侵食しているのだ。
血管を紫に染め、細胞を焼き、命の灯火を揺らしている。
俺には、どうすることもできない。
俺の体は、ただ熱を奪うだけだ。
彼女を治すことも、痛みを消してやることもできない。
ただ、こうして背負い、体温を冷却しながら、あてもなく歩くことしかできない。
無力だ。
また、この感覚か。
10年前、レオを背負って走った時と同じ。
重くて、温かくて、そして徐々に弱っていく命の重み。
「……ごめ、ん……」
キナが、小さく呟いた。
意識があるのかどうかも分からない。
ただ、漏れ出したような謝罪の言葉。
「謝るな」
俺は、前を見据えたまま短く返した。
視界の端が、酸素酔いでチカチカと明滅する。
森の緑が、毒々しく歪んで見える。
「……直す、から……」
キナの言葉が続く。
だが、その内容は、今の状況とは噛み合っていなかった。
「……いい子に、するから……」
彼女の声が、幼い子供のような響きを帯びていた。
震えて、怯えて、許しを乞うような声。
俺は、息を呑んだ。
彼女は今、俺と話しているんじゃない。
見ているのは、この森の景色じゃない。
熱に浮かされた彼女の意識は、過去へ――彼女が最も恐れる「あの日」へと、落下しているのだ。
***
白い。
何もかもが、白くて、綺麗だった。
壁も、床も、天井も。
すべてが大理石のように磨き上げられ、塵一つ落ちていない。
空気には、高級な香水と、消毒液が混ざったような、ツンとする匂いが漂っている。
(ここは……おうち?)
幼いキナは、ふかふかの絨毯の上に立っていた。
背丈は、今よりもずっと小さい。
手には、茶色の熊のぬいぐるみを抱きしめている。
昨日の6歳の誕生日に、パパとママがくれたプレゼントだ。
「キナ、こっちへいらっしゃい」
優しい声。
ママの声だ。
振り返ると、美しいドレスを着たママと、立派なスーツを着たパパが、優しく微笑んで手招きしている。
「今日は大事な日だからね」
「お前の力が分かる日だ。きっと、素晴らしい色が輝くはずだよ」
パパの大きな手が、キナの頭を撫でる。
その手のひらは温かくて、大きくて、安心できる場所だった。
キナは嬉しくなって、テディベアを抱き直した。
パパとママが笑っている。
キナも嬉しい。
今日は、魔力検査の日だ。
部屋の中央には、大きなテーブルがあった。
その上には、黒いベルベットの布が敷かれ、一つの「水晶玉」が置かれている。
透明で、どこまでも透き通った、綺麗な石。
大人の頭ほどもある大きさだ。
「さあ、この石に手を乗せてごらん」
白衣を着た、知らないおじさん(検査官)が言った。
彼は、事務的な無表情で、手元のバインダーに何かを書き込んでいる。
「はい」
キナは、つま先立ちをして、テーブルに手を伸ばした。
小さな両手を、冷たい水晶の表面に乗せる。
ひんやりとした感触。
ガラスのようで、もっと硬い、石の冷たさ。
「頭の中で、光をイメージして」
おじさんが言った。
キナは、ぎゅっと目を閉じた。
パパが言っていた。
魔力があれば、この石がピカピカに光るんだって。
強い魔力なら「金色」。
優しい魔力なら「青色」。
どれも、とっても綺麗な色なんだって。
(光って……!)
キナは、心の中で念じた。
体の中にある「何か」を、手のひらへ押し出すように。
パパとママを喜ばせたい。
すごいね、って褒めてもらいたい。
1秒。
2秒。
3秒。
……何も、起きない。
まぶたの裏には、暗闇だけがある。
手のひらに感じるのは、変わらない石の冷たさだけ。
「……あれ?」
キナは、恐る恐る目を開けた。
水晶は、透明なままだった。
光っていない。
赤でも、青でも、黄色でもない。
ただの、ガラス玉のように、周りの景色を虚ろに反射しているだけ。
いや、違う。
よく見ると、水晶の中心が、ドス黒く濁り始めていた。
光ではなく、泥水のような「黒」が、モヤモヤと渦巻いている。
「……反応なし」
検査官の冷たい声が、部屋の静寂を切り裂いた。
「魔力回路の断絶を確認。……いえ、これは欠損ですね」
ペンが、紙の上を走る音。
カリカリ、カリカリ……。
その音が、ひどく大きく、不吉に響いた。
「欠損……? そんな、まさか」
パパの声が変わった。
さっきまでの優しさが消え、焦りと、疑念が混じる。
「機械の故障じゃないのか? 私たちの娘だぞ? 魔力がないわけがない」
「機械は正常です」
検査官は、顔も上げずに淡々と言った。
「回路が繋がっていません。体内に魔力タンクはありますが、それを取り出す蛇口が壊れています。……例えるなら、穴の空いたバケツですね」
穴の空いたバケツ。
キナは、その言葉の意味が分からなかった。
でも、それが「悪いこと」だということだけは、肌で感じ取れた。
恐る恐る、振り返る。
パパとママの顔を見た。
笑っていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、「見ていなかった」。
二人の視線は、キナを通り越して、虚空を見つめていた。
まるで、そこに誰もいないかのように。
あるいは、そこにあるのが「愛する娘」ではなく、ただの「壊れた家具」であるかのように。
「……そうか」
パパが、低く呟いた。
その声の冷たさに、キナは身を震わせた。
「不良品だったか」
不良品。
その単語が、キナの胸に突き刺さった。
意味はよく分からない。
でも、パパの目から「光」が消えたことは分かった。
「あ、あのね、パパ……」
キナは、水晶から手を離して、パパに駆け寄ろうとした。
抱っこしてほしかった。
大丈夫だよ、って言ってほしかった。
でも。
「触るな」
ママが、鋭い声で言った。
ヒステリックな、金切り声。
「汚らわしい! 魔力のない子が、私のドレスに触らないで!」
ママは、まるで汚い虫でも見るような目で、キナを見下ろしていた。
後ずさり、拒絶する。
「……ぇ?」
キナの手が、空中で止まる。
なんで?
昨日は、あんなに優しく抱きしめてくれたのに。
可愛いキナ、私の天使、って言ってくれたのに。
水晶が光らなかっただけで。
ただそれだけで、全部、なくなっちゃうの?
「……連れて行ってください」
パパが、検査官に背を向けた。
もう、キナの方を見ようともしなかった。
「手続きは済ませます。……戸籍からも、抹消してください」
「かしこまりました」
部屋の空気が、急激に冷えていく。
白かった壁が、灰色にくすんで見える。
あんなにいい匂いだった香水が、鼻を突く消毒液の臭いへと変わっていく。
(嫌だ)
キナは、テディベアを強く抱きしめた。
唯一の、温もり。
これだけは、離さない。
「パパ……ママ……ごめんなさい」
キナは泣き出した。
涙が溢れて、視界が滲む。
「いい子にするから……直すから……」
何が壊れているのか分からないけれど。
直せば、また愛してくれるはずだ。
だから、捨てないで。
けれど、大人の手は冷たかった。
誰かが、キナの腕を掴んだ。
乱暴に、引きずっていく。
「嫌だ! 嫌だぁぁぁ!」
叫んでも、泣いても、誰も助けてくれない。
白い扉が閉まる。
パパとママの背中が、遠ざかっていく。
場面が、飛んだ。
暗い。
寒い。
風の音が、ヒュウヒュウと鳴っている。
ここは、どこだろう。
キナは、暗闇の中に立っていた。
足元は、冷たい金網の床。
隙間から、遥か下に、赤い光が見える。
「……ごめんな、キナ」
背後から、声がした。
パパだ。
パパが、来てくれたんだ。
キナは振り返った。
暗がりの中に、パパの顔が見える。
でも、その顔は悲しそうだった。
そして、その手は、キナを抱きしめるためではなく、突き飛ばすために伸ばされていた。
「お前のためなんだ」
パパは言った。
自分に言い聞かせるように。
「壊れたものは、捨てなくちゃいけないんだ。……この塔では、役立たずは生きていけないから」
「パパ……?」
「せめて、苦しまないように」
パパの手が、キナの肩を押した。
フワリ。
体が、宙に浮いた。
足元の金網が、いつの間にかなくなっていた。
そこにあったのは、黒い穴。
ダストシュートの、巨大な口。
「あっ……」
落ちる。
重力が、キナの小さ体を下へ下へと引っ張る。
遠ざかるパパの顔。
最後に見えたのは、安堵と罪悪感が入り混じった、歪んだ表情だった。
ヒュオオオオオオオオ……!!
風が、耳元で叫ぶ。
暗闇の中を、どこまでも落ちていく。
テディベアを抱きしめたまま。
怖い。
寒い。
助けて。
下から、赤い光が迫ってくる。
熱風。
焦げ臭い匂い。
焼却炉だ。
ゴミを燃やす、地獄の火だ。
「……熱い」
キナはうわ言を漏らした。
夢と現実の境界が曖昧になる。
「熱いよぉ……焼かないで……」
肌がチリチリと焼ける感覚。
炎が、手足を舐める。
テディベアに引火して、燃え上がる。
(私は、ゴミなんだ)
絶望が、炎よりも熱く、心を焼き尽くす。
壊れているから。
光らないから。
だから、燃やされて、灰になるしかないんだ。
「……ごめんなさい、パパ……」
誰か。
誰でもいい。
この熱さから、助けて。
炎が、顔の目の前まで迫った。
視界が、真っ赤に染まる。
その時だった。
ペタリ。
額に、何かが触れた。
それは、氷のように冷たかった。
焼却炉の熱を、一瞬で吸い取るような、絶対的な冷気。
「……ん?」
夢の中の炎が、揺らいだ。
赤い世界に、白い亀裂が走る。
冷たい。
でも、痛くない。
火傷した肌に、冷水が染み渡るような、心地よい冷たさ。
誰?
パパじゃない。
ママでもない。
もっと、硬くて、大きくて、無骨な手。
「……直さなくていい」
声が、聞こえた。
夢の外側から。
低く、ぶっきらぼうだけど、決して嘘をつかない声。
「お前は、壊れてない」
その言葉が、冷たい水となって、燃え盛る焼却炉の炎を、ジュウジュウと消していく。
壊れてない。
その一言が、6歳のキナがずっと欲しかった言葉だった。
不良品じゃない。
ゴミじゃない。
ここにいていいんだと、誰かに言って欲しかった。
暗闇が晴れていく。
赤い光が消え、代わりに、ぼんやりとした白い光が浮かび上がる。
キナは、重い瞼を、ゆっくりと開いた。
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