第21話:鉄の雨、あるいは吸血の終わり(前半)
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ブゥゥゥゥン…………。
その音は、鼓膜を震わせるというより、頭蓋骨を直接削るような振動だった。
背後から迫る、黒い雲。
数千、いや、数万。
第2層の食物連鎖の底辺にして、最も凶悪な捕食者たち。
ニードル・モスキートの大群。
「走れ! 振り返るな!」
俺は叫び、泥を蹴り上げた。
グチャリ、と地面が粘りつく。
腐った植物と水分を含んだ腐葉土が、俺たちの足を絡め取ろうとする。
重い。
酸素酔いの熱さと、結露で濡れたコートの冷たさが、体力を万力のように締め上げる。
「ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」
隣を走るキナの息遣いが荒い。
彼女は技術屋だ。
戦闘訓練は受けていない。
第1層からここまで、極限の緊張状態が続いている。
体力はとうに限界を超えているはずだ。
それでも、彼女は走っている。
恐怖が、足を動かしているのだ。
俺は、チラリと後ろを確認した。
絶望的な光景だった。
鬱蒼とした木々の隙間を埋め尽くすように、黒い粒子が雪崩込んでくる。
一匹一匹が、スズメほどの大きさがある。
その全身は、生物的な柔らかさなど微塵もない、黒光りする金属質の甲殻で覆われている。
そして、その顔面から突き出した、銀色の口吻。
長さ20センチはあるだろうか。
鋭利な注射針そのものの形状をした凶器が、獲物の血を求めて一斉にこちらを向いている。
「ッ……! 速い!」
俺は歯噛みした。
逃げ切れない。
奴らは空を飛んでいる。
障害物だらけの泥道を走る俺たちとは、機動力が違いすぎる。
距離が、縮まる。
羽音が、大きくなる。
最初は遠くの雷鳴のようだった音が、今はすぐ耳元で巨大な蜂が唸っているような爆音へと変わっていく。
ブゥン! ブゥゥン!
先頭の数匹が、俺たちの頭上を追い越していった。
そして、旋回する。
「……!」
前方の進路が、黒い壁によって塞がれた。
右も。
左も。
そして、後ろも。
囲まれた。
「ニルス……!」
キナが悲鳴のような声を上げて、足を止める。
俺もまた、急ブレーキをかけて泥の上を滑った。
全方位、360度。
緑色の森の景色が、黒い点描によって塗り潰されていく。
逃げ場はない。
俺たちは、巨大なドーム状の「檻」の中に閉じ込められたのだ。
何千本もの注射針で作られた、死の檻に。
「……チッ」
俺は舌打ちをし、キナの前に立った。
魔剣を構える。
だが、その切っ先はどこにも定まらない。
敵が多すぎる。
剣で斬れる数じゃない。
一匹を斬り伏せている間に、十匹が背中に取り付き、百匹が喉笛に食らいつくだろう。
(どうする……?)
思考を加速させる。
酸素過多の脳が、焼き切れそうなほど熱くなる。
俺は、魔力がない。
だから、奴らの「熱探知(魔力感知)」には引っかからないはずだ。
奴らが狙っているのは、俺じゃない。
「……キナだ」
俺は、背後の相棒を見た。
彼女は魔力を持っている。
しかも、第2層の濃密なマナを吸い込んで、その魔力回路は活性化しているはずだ。
飢えた吸血鬼たちにとって、今のキナは、暗闇で輝く極上の「灯り」に見えているに違いない。
現に、奴らの複眼は、俺を通り越してキナだけを凝視している。
ギロリ、ギロリと、無機質な眼球が動く。
俺が囮になることはできない。
俺が森の奥へ走っても、奴らは見向きもしないだろう。
なら、どうする?
守るしかない。
この身一つで。
物理的に、壁となって。
「キナ」
俺は、魔剣を地面に突き刺した。
そして、着ていたコートの前ボタンを弾き飛ばす勢いで外した。
「え……?」
キナが戸惑った顔をする。
「来いッ!!」
俺は、キナの腕を掴み、強引に引き寄せた。
彼女の小さな体が、俺の胸にぶつかる。
温かい。
いや、熱い。
俺の体が冷え切っているせいか、彼女の体温が溶岩のように感じられる。
心臓の音が、直接伝わってくる。
ドクン、ドクンと、早鐘を打つ命の音。
俺は、広げたコートで彼女を包み込んだ。
頭からすっぽりと覆い隠し、俺の懐の中に閉じ込める。
「ニルス、なにを……!?」
コートの中で、キナがもがく。
「動くな!」
俺は怒鳴った。
喉が裂けそうなほどの大声で。
「絶対に、一歩も出るな! 俺の体から離れるな!」
これは、ただのコートじゃない。
第0層で拾った、廃棄された「白化種」の皮をなめして作った特注品だ。
白化種の皮膚は、魔力を弾く性質を持つ。
そして、物理的にも強靭だ。
これなら、多少の攻撃は防げるはずだ。
「……来るぞッ!!」
俺が叫んだのと同時だった。
ブゥゥゥゥゥン!!!!!!
羽音が、最高潮に達した。
空気が爆ぜる。
黒い壁が、一斉に収縮した。
攻撃が、始まった。
ヒュンヒュンヒュンヒュン……!!
風を切る音。
それは、虫が飛ぶ音ではなかった。
無数の矢が、あるいは金属の礫が、嵐のように降り注ぐ音だった。
俺は、キナを抱いたまま、体を丸めてうずくまった。
背中を、空に向ける。
コートの襟を立て、隙間をなくす。
直後。
カカンッ!
ガギンッ!
ドスッ! カンッ!
衝撃。
背中に、無数のハンマーで叩かれたような重い衝撃が走った。
「ぐ、ぅぅぅ……ッ!!」
俺は、奥歯を噛み締めた。
痛い。
針が刺さった痛みではない。
コート越しに、骨に響く打撃痛だ。
奴らは、自らの体を弾丸のように加速させ、その鋭利な口吻を突き立てて突っ込んできているのだ。
その運動エネルギーは、スズメほどの質量とは思えないほど重い。
カン、カン、カン、カン!!
音が、止まない。
雨だ。
これは、鉄の雨だ。
俺の背中という地面を、絶え間なく穿ち続ける、殺意の豪雨。
俺は、必死に踏ん張った。
膝が泥にめり込む。
衝撃のたびに、体が揺さぶられる。
もし気を抜けば、バランスを崩して倒れ、コートがはだけてしまうだろう。
そうなれば、中のキナは一瞬で穴だらけにされる。
(耐えろ……耐えろ……!)
俺は、自分の筋肉に命令した。
硬くなれ。
石になれ。
俺は今、人間じゃない。
ただの「壁」だ。
コートの中。
俺の腕の中で、キナが震えているのが分かった。
彼女の視界は、暗闇だ。
俺の体臭――鉄と油と、冷たい結露の臭い――に包まれ、外の世界は見えない。
だが、音は聞こえているはずだ。
カン! ガッ! ズドン!
俺の背中を叩く、生々しい破壊音。
そして、そのたびに俺の体が強張り、苦悶の息が漏れるのを、彼女は肌で感じているはずだ。
「……ニルス」
コートの隙間から、震える声が聞こえた。
「痛い……? ねえ、大丈夫なの……?」
彼女の手が、俺の胸元の服を握りしめている。
その指が、白くなっている。
俺は、口の端を引きつらせて笑おうとした。
だが、顔面筋が強張って、うまく動かない。
「……あぁ。問題ない」
嘘をついた。
背中はもう、感覚がないほど痺れている。
一箇所に何度も衝撃が集中し、アザどころか、骨にヒビが入っているかもしれない。
「このコートは……頑丈だ。……蚊の針くらいじゃ、貫通しねぇよ」
言いながら、また一撃。
肩口に、鋭い痛みが走る。
重い。
一匹一匹が、石礫のようだ。
(クソッ、いつまで続く……?)
数が多すぎる。
終わらない。
このままでは、ジリ貧だ。
コートが破れるか、俺の骨が折れるか、あるいは俺の体力が尽きて腕が緩むか。
そのどれかが起きた瞬間、ゲームオーバーだ。
「……離して」
不意に、キナが言った。
「え?」
「離してよ、ニルス!」
彼女が、俺の腕の中で暴れた。
俺の胸を押し返し、外へ出ようとする。
「なっ……馬鹿野郎! じっとしてろ!」
俺は慌てて抱きしめる力を強めた。
外に出たら、一秒で死ぬ。
蜂の巣なんて生易しいものじゃない。
原形をとどめない肉塊にされるぞ。
「私が……私が囮になれば……!」
キナの声が、涙声になっていた。
「あんたは魔力がないんでしょ!? だったら、私が走って引きつければ、あんただけでも逃げられる!」
彼女は、気づいているのだ。
自分が「狙われている」ことを。
そして、俺が「巻き込まれている」だけだということを。
「私のせいで……あんたが傷つくのは、もう嫌なのよ!」
キナの悲痛な叫びが、俺の胸に突き刺さる。
彼女は、第1層で俺に救われた。
そして今また、俺の背中に守られている。
「役に立ちたい」「対等でありたい」と願う彼女にとって、この状況は、死ぬことよりも辛い屈辱なのかもしれない。
守られるだけの存在。
お荷物。
不良品。
かつて両親に捨てられた時のトラウマが、彼女の中でフラッシュバックしているのが分かる。
だからこそ。
俺は、絶対に離さない。
「ふざけるな!」
俺は、キナの耳元で怒鳴った。
「俺が、お前を見捨てると思うか!」
「でも……!」
「黙ってろ! ……俺は、計算で動いてるんじゃない!」
俺は、さらに強く抱きしめた。
俺の冷たい体温と、彼女の熱い体温が混ざり合う。
「俺は……二度と、俺の背中で誰かを死なせたりはしないんだよ!」
脳裏に過ぎるのは、10年前の記憶。
父さんと母さんの背中。
俺を庇って、ヘリオスの炎に焼かれた両親の最期。
そして、レオ。
背負ったまま、冷たくなってしまった親友の重み。
もう、御免だ。
守れなかった後悔を背負って生きるのは、もうたくさんだ。
「お前が囮になって俺が助かる? ……そんな効率的な未来なんざ、クソ食らえだ!」
俺の言葉に、キナが息を呑む。
抵抗が、止まった。
俺は、顔を上げた。
コートの襟の隙間から、外の世界を睨みつける。
視界は、黒一色だった。
蚊の群れが、俺たちの周りを旋回し、隙あらば突き刺そうと密集している。
その複眼の一つ一つが、嘲笑うように光っている。
カンッ! カンッ!
攻撃は激化している。
奴らは学習しているのだ。
ただ闇雲に突っ込むのではなく、コートのつなぎ目や、俺が顔を隠している腕の隙間を狙い始めている。
ビリッ。
嫌な音がした。
右肩。
コートの革が、裂けた音。
そこへ、すかさず二匹目が突っ込んでくる。
ドスッ!
「ぐっ……!!」
鋭い痛みが、肩の肉を食い破った。
針が、刺さった。
コートを貫通し、生身に到達したのだ。
熱い。
焼けるような痛みが広がる。
毒か?
それとも、体液を吸い上げるための消化液か?
「ニルス!?」
俺の苦悶の声を聞き、キナが顔を上げる。
暗がりの中で、彼女の目と俺の目が合う。
俺の額から、脂汗が流れ落ちる。
肩から血が滴り、キナの頬を汚す。
「……限界か」
俺は悟った。
これ以上は、持たない。
ただ耐えているだけでは、いずれ蜂の巣にされる。
守るだけじゃダメだ。
この理不尽な数を、圧倒的な暴力を、覆す「力」が必要だ。
だが、俺には剣しかない。
剣では、この雨は防げない。
「……キナ」
俺は、絞り出すように言った。
「俺は、あと少しなら耐えられる。……だが、それだけだ」
俺は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
その瞳の奥に宿る、知識の光を信じて。
「お前の『科学』は……この状況を打開できるか?」
キナが、ハッとして息を吸う。
彼女の視線が、俺の肩の傷に吸い寄せられる。
そして、その傷の向こう、空を埋め尽くす黒い雲へと向けられる。
彼女の瞳から、怯えが消えた。
代わりに、冷たく、鋭い光が宿る。
技術者としての、計算と殺意の光。
「……できるわ」
キナは、短く答えた。
その声には、もう迷いはなかった。
「私の計算が正しければ……一瞬で、全部消し炭にできる」
「一瞬、だな?」
「ええ。……でも、準備がいるわ。あんたがコートを開いた瞬間、私が『あれ』を起動するまでの、コンマ数秒」
キナの手が、背中のバックパックへと伸びる。
ガチャリ、と留め具を外す音。
中から取り出したのは、無骨な機械の塊だった。
「その一瞬だけは……無防備になる」
「構わん」
俺は即答した。
どの道、このままジリ貧で死ぬなら、一瞬の勝機に賭ける方がマシだ。
それに。
俺は信じている。
この少女が作る「鉄」は、決して俺たちを裏切らないと。
「合図したら、開くぞ」
俺は、全身の筋肉をバネのように収縮させた。
背中に降り注ぐ衝撃を、意志の力で無視する。
キナが、機械のスイッチに指をかける。
回路が唸り、青白い光が漏れ出し始める。
「いつでもいいわ」
キナが、俺の目を見て頷いた。
俺は、深く息を吸い込んだ。
肺の中の過剰な酸素が、血液を沸騰させる。
(来い……!)
俺は、タイミングを計った。
攻撃の波が、一瞬だけ途切れる瞬間。
奴らが、次の一斉攻撃のために身構える、その刹那。
今だ。
「……やれッ、キナ!!」
俺は、叫びと共に両腕を広げた。
バッ!!
守りの壁が、取り払われる。
俺とキナの姿が、無防備に世界へと晒される。
その瞬間。
黒い雲が、獲物を見つけたピラニアのように、殺到した。
数千本の針が、俺たちの眼前に迫る。
死が、物理的な質量を持って押し寄せてくる。
だが。
それよりも速く。
キナが、引き金を引いた。
「消えなさい、害虫ども!!」
バチィィィィィィィィン!!!!!!
閃光。
そして、鼓膜を破るような放電音。
キナが掲げた機械から、扇状に広がる青白い電撃が奔流となって解き放たれた。
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