第20話:最初の洗礼、緑色の地獄へようこそ(後半)
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「ギチチチチチチ……!!」
目の前の怪物が、鳴いた。
植物が音を立てるはずがない。
それは俺の常識だった。
だが、こいつは違う。
蕾に見えた頭部を激しく震わせ、硬化した花弁同士を擦り合わせて、威嚇音を撒き散らしている。
それは、ガラスを爪で引っ掻いたような、あるいは濡れたゴムを擦り合わせたような、生理的な嫌悪感を煽る高音だった。
鼓膜がビリビリと震え、奥歯が浮くような不快感が脳髄を走る。
「……ッ」
俺は、サバイバルナイフを握る手に力を込めた。
掌に滲んだ汗と、空気中の湿気が混ざり合い、柄がヌルリと滑りそうになる。
それを、指が白くなるほど強く握り直す。
泥にまみれたブーツを踏ん張った。
グニュリ、と足元の腐葉土が沈み込み、腐った水の臭いが立ち昇る。
(来る……!)
殺気が、肌を刺した。
怪物の「口」から伸びた、数本の緑色の触手。
それが、鎌首をもたげた蛇のように、空中でゆらりと揺れた。
先端からは、透明な粘液が糸を引いて垂れている。
あれに触れれば、ただでは済まない。
溶解液か、あるいは麻痺毒か。
俺の心臓が、早鐘を打つ。
酸素酔いの熱とは違う、冷たい緊張感が血管を駆け巡る。
「ニルス、気をつけて! そいつの魔力反応、デタラメに高いわ!」
背後の泥の中から、キナの叫び声が聞こえた。
「魔法で焼き払って! 距離を取って……!」
キナは叫ぶ。
それが、この世界の「正解」だからだ。
怪物には魔法。
炎で焼き尽くすのが、最も効率的で安全な駆除方法だ。
だが。
(……ダメだ)
俺は、その選択肢を瞬時に切り捨てた。
ここは第2層。
酸素濃度が異常に高い「肺の森」だ。
ここで火を使えばどうなるか。
ただの火種でさえ、爆発的な燃焼を引き起こす。
ファイアボールなど撃ち込めば、バックドラフト現象で俺たち自身が火ダルマになり、この森一帯が火の海になるだろう。
俺たちは、「火力」という最大の武器を封じられている。
「火は使えない!」
俺は、視線を怪物から外さずに叫び返した。
「物理でやるぞ!」
俺の言葉に、キナが息を呑む気配がした。
正気か、と思っているのだろう。
魔法を使わず、ナイフ一本で、この巨大な人食い植物に挑むなど。
その時。
ヒュンッ!!
風切り音。
思考する間もなかった。
右側の触手が、鞭のようにしなり、俺の顔面めがけて弾け飛んできた。
速い。
視界の端で、緑色の閃光が走る。
俺は、反射的に首を左へ傾けた。
バシュッ!!
耳元で、空気が裂ける音がした。
頬に、熱い衝撃が走る。
避けきれなかった衝撃波か、それとも微細な棘にかすったか。
一筋の痛みが走り、遅れて、タラリと温かいものが頬を伝う感触があった。
血だ。
「……チッ」
舌打ちをする暇もない。
休むことなく、二撃目が来る。
今度は左から。
そして、正面から。
三本の触手が、逃げ場を塞ぐように、時間差で襲いかかってくる。
(見える……!)
俺の集中力が、極限まで研ぎ澄まされる。
過剰な酸素が、脳の回転速度を強制的に引き上げているのかもしれない。
スローモーションのように、触手の軌道が見える。
一本目を、しゃがんで回避。
頭上を豪風が通り過ぎ、髪が逆立つ。
二本目を、ナイフの腹で受け流す。
ガギンッ!
植物とは思えない、金属的な衝撃が手首に走る。
重い。
ただの蔓じゃない。
中身が詰まった、強靭な筋肉の塊だ。
そして、三本目。
俺の鳩尾を狙って、槍のように突き出された一撃。
避ければ、背後のキナに当たる。
(止める)
俺は、左腕を前に出した。
ただし、素手ではない。
第1層の廃材置き場で拾い、ガムテープで腕に巻き付けておいた、分厚い鉄板の即席防具。
ドォォォォン!!
衝撃。
鉄板がひしゃげる音がした。
骨がきしむ。
腕が肩から引っこ抜けるかと思うほどの重い一撃が、俺の体を後方へ弾き飛ばそうとする。
「ぐ、ぅぅぅ……ッ!!」
俺は、奥歯が砕けるほど噛み締め、右足の踵を泥に突き刺して踏みとどまった。
泥が波のように捲れ上がる。
痛い。
鉄板越しでも、骨にヒビが入ったかもしれない。
だが、受け止めた。
「ギィッ!?」
怪物が、困惑したように声を上げた。
獲物が吹き飛ばないことに、苛立っているようだ。
今だ。
攻守が、入れ替わる一瞬の隙。
「……オラァッ!!」
俺は、食い込んだ触手を左腕で抱え込んだ。
逃がさない。
右手で、ナイフを逆手に握り直す。
狙うのは、触手の付け根ではない。
伸びきった、筋肉繊維の真ん中だ。
ザシュッ!!
ナイフを突き立てる。
硬い。
生木を斬る感触ではない。
タイヤのゴムと、何層にも重ねた生肉を同時に切り裂くような、強烈な抵抗感。
俺は、体重を乗せて、ナイフを横に引いた。
ブチブチブチブチッ!!
繊維が千切れる、湿った音が響く。
そして。
プシューーーッ!!
切断面から、ドス黒い液体が噴き出した。
樹液ではない。
オイルと血液を混ぜて腐らせたような、強烈な悪臭を放つ体液だ。
「うわっ……」
俺の顔に、液体が降りかかる。
熱い。
そして、臭い。
鼻が曲がりそうな腐臭に、胃液がせり上がってくる。
だが、止まらない。
俺は、切断されてのたうち回る触手を踏みつけ、本体へと肉薄した。
「ギ……ギィイイイイイ!!」
怪物が悲鳴を上げる。
残った触手を振り回し、暴れる。
だが、遅い。
一本を失った痛みで、動きが雑になっている。
俺は、泥を蹴って懐に入り込んだ。
目の前には、巨大な「口」。
牙の列が、俺を噛み砕こうと開かれる。
その奥から、甘ったるい死の匂いが漂ってくる。
(食われる前に、狩る)
俺は、ナイフを口の端に突き刺し、そのまま駆け上がるようにして跳躍した。
狙うのは、茎だ。
パイプに寄生している、根元部分。
そこが、こいつの急所であり、心臓だ。
「死ねッ!!」
俺は、空中で体を捻り、ナイフを振りかぶった。
重力と、遠心力と、全身の筋肉のバネを乗せた、渾身の一撃。
ドスッ!!
ナイフが、太い茎に深々と突き刺さる。
だが、それだけでは足りない。
太すぎる。
ナイフの刃渡りでは、切断しきれない。
「……吸え!!」
俺は、叫んだ。
背中の魔剣にではない。
自分の体に。
そして、このナイフを通して、相手の熱に。
俺の体は「吸熱機関」だ。
触れたものから熱を奪い、凍らせる。
魔剣ほど急激ではないが、接触していれば、その効果は発揮される。
ジュワァァァ……。
ナイフの刺さった場所から、白い霜が広がる。
怪物の体液が、一瞬で凍結する。
緑色だった茎が、白く、脆い氷の彫刻へと変質していく。
「ギ、ギィ……?」
怪物の動きが、ピタリと止まった。
細胞が凍りつき、神経伝達が遮断されたのだ。
「砕けろ」
俺は、凍りついた茎に向かって、ブーツの底を叩き込んだ。
パァァァァン!!
乾いた音が、森に響いた。
ガラスが割れるような、軽快で、残酷な音。
巨大な花の首が、根元からへし折れた。
ズズ……ズドォォォン。
ゆっくりと。
怪物の巨体が、泥の中へと崩れ落ちた。
切断面からは、凍った体液がシャーベットのようにこぼれ落ち、黒い泥を白く染めていく。
終わった。
俺は、残った茎の上に着地した。
肩で息をする。
ハァ、ハァ、ハァ……。
過剰な酸素が、焼け付くように喉を通る。
顔を拭うと、黒い体液と、自分の血と、結露した水滴が混ざり合って、ベトベトになっていた。
「……はぁ」
俺は、ナイフに付いた汚れを、自分のコートで乱暴に拭き取った。
手が震えている。
恐怖ではない。
酸素酔いと、急激な運動による興奮のせいだ。
静寂が、戻ってきた。
だが、それは先ほどまでの不気味な静けさとは違う。
「捕食者が死んだ」ことによる、周囲の生物たちの警戒と、畏怖を含んだ沈黙だった。
俺は、泥まみれになったキナの方を振り返った。
彼女は、座り込んだまま動けずにいた。
目を見開き、口を半開きにして、俺を見上げている。
その視線には、安堵だけではない、複雑な色が混じっていた。
魔法を使わず、爆弾も使わず。
ただのナイフ一本で、怪物を解体してしまった男。
その姿が、彼女の目にはどう映っているのだろうか。
「……キナ」
俺は、声をかけた。
努めて、普段通りの声で。
「怪我は、ないか」
キナは、ビクリと肩を震わせた。
そして、ハッとして頷いた。
「え、ええ……。大丈夫。……あんたこそ」
彼女は、俺の顔に付いた血を見て、顔をしかめた。
「ひどい顔よ。……泥と、油と、血でぐちゃぐちゃ」
「いつものことだ」
俺は、短く笑った。
第0層では、これが日常だった。
生きることは、汚れることだ。
綺麗に戦って勝てるほど、この世界は優しくない。
「……ごめんなさい」
不意に、キナが俯いた。
その声は、消え入りそうに小さかった。
「私が……不用意に近づいたから。……機械が使えないからって、焦って……」
彼女の手が、泥の中できつく握りしめられている。
悔しさ。
そして、己の無力さへの絶望。
技術者としてのプライドが高い彼女にとって、ただ守られるだけの存在になることは、死ぬよりも辛い屈辱なのかもしれない。
「……気にするな」
俺は、倒した怪物の死骸を蹴った。
「こいつの擬態が上手すぎただけだ。……それに」
俺は、キナの方へ歩み寄り、手を差し伸べた。
「お前は無力じゃない。……お前の知識がなけりゃ、俺はこいつが『何』なのかも分からなかった」
慰めではない。
事実だ。
彼女がいなければ、俺はここに来ることさえできなかった。
キナは、俺の手を見つめた。
汚れて、傷だらけで、冷たい手。
彼女は、ためらいがちに、その手を握り返した。
「……ありがとう」
彼女の手は、震えていた。
だが、その握力は強かった。
彼女もまた、ここで折れるつもりはないのだ。
俺は、彼女を引っ張り上げた。
「行こう。……血の匂いが広がりすぎた」
この森で、血の匂いは「招待状」だ。
一匹を倒しても、その死臭がまた次の捕食者を呼び寄せる。
ここは、終わりのない連鎖の只中なのだ。
俺たちは、再び歩き出そうとした。
その時だった。
ブゥゥゥゥン…………。
低い音が、聞こえた。
風の音ではない。
もっと硬質で、人工的な振動音。
最初は、遠くで鳴っているようだった。
だが、その音は急速に近づいてくる。
いや、「増えて」いる。
一匹じゃない。
十、百、いや、もっと……。
「……なに?」
キナが、空を見上げた。
俺もまた、視線を上げた。
そして、背筋が凍りつくのを感じた。
頭上の木々の隙間。
人工太陽の光を遮るように、黒い影が広がっていた。
雲ではない。
それは、無数の「点」の集合体だった。
ブゥゥゥゥン!!
羽音。
数千、数万の羽ばたきが重なり合い、大気を震わせる轟音となって降り注ぐ。
「……嘘でしょ」
キナが、後ずさる。
黒い雲が、形を変え、渦を巻きながら降下してくる。
その一粒一粒の正体が、見えた。
蚊だ。
だが、俺の知っている蚊ではない。
大きさは、スズメほどもある。
全身が、黒い金属のような甲殻で覆われている。
そして、その口元には、長く、鋭い「針」が伸びていた。
まるで、注射器の針のような、銀色の凶器。
ニードル・モスキート。
第2層の、最悪の吸血鬼たち。
「……走れッ!!」
俺は叫んだ。
植物なんて目じゃない。
あんな数に囲まれたら、物理攻撃なんて通用しない。
血を一滴残らず吸い尽くされて、ミイラになるだけだ。
「キナ、森の奥へ!!」
「わ、わかってるわよ!!」
俺たちは、泥を蹴り上げて走り出した。
背後から、黒い死の雲が、雪崩のように押し寄せてくる。
「ブゥゥゥゥン!!!!」
耳をつんざく羽音が、森の静寂を完全に破壊した。
最初の洗礼は、まだ終わっていなかったのだ。
緑色の地獄は、俺たちを骨の髄までしゃぶり尽くすつもりらしい。
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