第20話:最初の洗礼、緑色の地獄へようこそ(前半)
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グニュリ。
不快な感触が、足の裏から伝わってきた。
俺は、一歩を踏み出した足を止め、ゆっくりと下を見た。
分厚いブーツの底が、地面に沈み込んでいる。
それは土ではなかった。
何層にも重なって腐り落ちた葉と、苔と、正体不明の粘液が混ざり合い、発酵した泥沼。
足を上げるたびに、糸を引くような粘り気が、ジュッ、と湿った音を立てて靴底に吸い付く。
「……最悪な道だな」
俺は、独りごちた。
声が、湿気を含んだ空気に吸われて、遠くへ響かない。
ここは、第2層「肺の森」。
上層の命令で、下層の汚れた空気を浄化するために作られた、巨大な濾過装置。
俺は、顔を上げた。
視界を埋め尽くすのは、圧倒的な「緑」と「黒」のコントラストだ。
巨大なシダ植物が、天井を隠すほど大きく葉を広げている。
その根元には、直径数メートルはある黒い鉄の配管が、大蛇のようにのたうち回っている。
植物の根は、その鉄パイプの継ぎ目や亀裂に、強引にねじ込まれていた。
まるで、獲物に喰らいつく寄生虫のように。
根が脈打ち、パイプの中を流れる汚水や廃ガスを吸い上げているのが、視覚的に分かる。
ゴポポポポ……。
配管の中から、低い音が響いてくる。
何かが流れる音。
あるいは、この森全体が消化不良を起こして、腹を鳴らしているような音。
臭い。
鼻腔を刺すのは、第1層の焦げ臭さとは違う、もっと有機的で、ねっとりとした臭いだ。
甘い花の香りと、腐った水の臭いが混ざり合った、濃厚な芳香。
息を吸うたびに、肺の中にカビが生えていくような錯覚に陥る。
俺は、濡れた前髪をかき上げた。
ポタ、ポタ……。
指先から、絶え間なく水滴が落ちる。
俺の体は今、魔剣の影響で極限まで冷え切っている。
周囲の高温多湿な空気が、俺の皮膚に触れた瞬間に冷やされ、水となって凝結し続けているのだ。
服はずぶ濡れだ。
重い。
まるで、見えない水の中で溺れているような閉塞感。
「……静かすぎる」
俺は、魔剣の柄に置いた指に力を込めた。
金属の冷たさだけが、唯一の救いだ。
鳥の声もしない。
虫の羽音もしない。
あるのは、あの不気味な配管の流動音と、俺たちの湿った足音だけ。
気配はある。
森の闇の奥から、無数の視線がこちらを値踏みしているのは分かる。
だが、誰も仕掛けてこない。
ただ、じっと観察されている。
それが逆に、神経をすり減らしていく。
「……ねえ、ニルス」
背後から、キナの声がした。
その声には、明らかな焦りの色が混じっていた。
「ちょっと、待って」
俺は足を止めて振り返った。
キナは、手元の携帯端末と格闘していた。
彼女の指が、激しく画面を叩いている。
その動きは、いつもの軽快なリズムではなく、苛立ちと不安に満ちた乱暴なものだった。
バン、バン!
彼女は、端末の側面を掌で叩いた。
「……どうした?」
俺は聞いた。
「おかしいのよ」
キナは顔を上げずに言った。
ゴーグルの縁から、汗が滲んでいる。
「数値が、デタラメなの。……方位磁針はぐるぐる回ってるし、魔力レーダーはノイズだらけ。さっきから『エラー』の文字しか出てこない」
彼女は、端末の画面を俺に見せた。
ザザッ……ザザ……。
画面には、砂嵐のようなノイズが走り、時折、赤い警告灯が明滅している。
「湿気よ」
キナが、唇を噛んだ。
「この森の湿度、異常だわ。それに、空気中に変な胞子が舞ってる。……それが機械の中に入り込んで、回路をショートさせてるんだわ」
バチッ。
端末の隙間から、小さな火花が散った。
焦げた臭いが鼻を突く。
「あっ……!」
キナが短く悲鳴を上げ、端末を取り落としそうになる。
彼女は、慌ててそれを両手で抱きしめた。
まるで、病気の子供をあやす母親のように。
「嘘でしょ……? 私の最高傑作なのに……」
彼女の声が震えている。
「これじゃ、地図も作れない。敵の探知もできない。……ただの、重たい荷物になっちゃう」
キナが、顔を上げた。
その表情を見て、俺は胸の奥が痛んだ。
怯えている。
森の怪物にではない。
「自分が役に立たなくなること」に、怯えているのだ。
彼女にとって、機械と技術は、ただの道具ではない。
魔力を持たない彼女が、この理不尽な世界で生き残るために積み上げてきた「牙」であり、「鎧」であり、アイデンティティそのものだ。
それが今、この環境によって否定されようとしている。
「……クソッ!」
キナは、足元の泥を蹴りつけた。
泥が跳ね上がり、彼女のブーツを汚す。
「こんな湿気た場所じゃ、私の火薬も湿気ちまう! ……私が、ただのお荷物になるなんて、冗談じゃないわよ!」
彼女は叫んだ。
それは怒りというより、悲痛な叫びだった。
捨てられた過去。
無能のレッテル。
それらを必死に覆そうとしてきた彼女のプライドが、湿った空気の中で錆ついていく恐怖。
俺は、何も言わずに彼女を見つめた。
かける言葉が見つからなかった。
「大丈夫だ」なんて無責任なことは言えない。
この森で、武器を失うことは「死」を意味するからだ。
「……機械に頼るな」
俺は、あえて冷たく言った。
キナが、ハッとした顔で俺を見る。
「鼻を使え、キナ」
俺は、自分の鼻を指差した。
「目は騙される。機械も壊れる。……でも、匂いは嘘をつかない」
俺は、森の奥を睨んだ。
「錆の臭い、腐った肉の臭い、そして……甘い花の香り」
俺は、あごで前方をしゃくった。
「ほら。……あそこだ」
キナが、俺の視線を追う。
薄暗い茂みの向こう。
巨大な配管の陰に、ぼんやりと発光する「何か」があった。
それは、花だった。
人の背丈ほどもある、巨大な蕾。
花弁は透き通るようなピンク色で、内側から蛍のように淡い光を放っている。
暗く、汚れたこの森の中で、そこだけが別世界のように幻想的で、美しかった。
「……なに、あれ」
キナが、息を呑んだ。
その美しさに、一瞬だけ恐怖を忘れたようだった。
「すごい……。図鑑にも載ってないわ。新種かしら?」
彼女の瞳に、技術者としての好奇心の光が戻る。
未知への探求心。
それは彼女の強さであり、同時に、最大の弱点でもあった。
「魔力反応は……ダメね、機械が動かない」
キナは舌打ちをしたが、その足は無意識のうちに、花の方へと引き寄せられていた。
「せめて、サンプルだけでも……」
彼女は、腰のポーチからピンセットとガラス瓶を取り出した。
ふらふらと、吸い寄せられるように歩き出す。
俺は、その背中を見ながら、眉をひそめた。
綺麗だ。
確かに、綺麗すぎる。
だが。
俺の野生の勘が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
(おかしい)
違和感。
この森は、生存競争の極地だ。
すべての生物が、他者を喰らい、出し抜こうとしている地獄だ。
そんな場所で、なぜあんなに無防備に、目立つ光を放っている?
「私、ここにいるよ」と、わざわざ宣伝するように。
そして、匂い。
あの花から漂ってくる、強烈に甘い香り。
それは、第1層で嗅いだ「興奮剤」の臭いにどこか似ていた。
脳を麻痺させ、判断力を奪う、誘惑の香り。
俺は、目を凝らした。
花弁の表面。
美しいピンク色の皮膜の下に、網の目のように走る「筋」が見えた。
それは植物の葉脈というよりは、動物の血管に近い。
ドクン、ドクンと、赤く脈打っている。
そして、根元。
花が生えている地面には、大量の「骨」が散らばっていた。
動物の骨だけじゃない。
あれは……人間の頭蓋骨か?
「……待て」
俺は、声をかけた。
だが、キナは聞こえていないようだった。
花の魔力か、あるいは香りのせいか。
彼女は夢遊病者のように、手を伸ばしながら花へ近づいていく。
「綺麗な色……。ねえ、これを持って帰れば、新しい動力源になるかも……」
キナの指先が、発光する花弁に触れようとする。
あと、数センチ。
その時。
ギチリ。
花の根元で、筋肉が収縮するような音がした。
蕾の先端が、微かに震える。
花が開こうとしているのではない。
「口」を開けようとしているのだ。
俺の背筋に、氷柱のような悪寒が走った。
あれは、花じゃない。
内臓だ。
剥き出しの、捕食器官だ。
「動くなッ!!」
俺は叫んだ。
思考するよりも早く、体が動いていた。
バシャッ!!
足元の泥を蹴り飛ばし、俺はキナに向かって飛び込んだ。
「え?」
キナが、驚いた顔でこちらを振り向く。
その背後で。
バクリ。
美しい花弁が、裂けるように開いた。
中から現れたのは、蜜でも、花粉でもない。
びっしりと生え揃った、鋭利な牙の列。
そして、その奥から、鞭のような無数の触手が、弾丸のような速度で射出された。
「ヒュンッ!!」
風切り音。
触手が、キナの首を狙ってしなる。
「……っ!!」
俺は、キナの襟首を掴み、力任せに後ろへ引き倒した。
ズドンッ!!
俺たちは、泥の中に転がった。
その直上を、触手が通過する。
キナの前髪が、数本、切り飛ばされて宙に舞った。
「ひっ……!?」
キナが、短い悲鳴を上げる。
俺は、彼女を抱え込んだまま、泥の上を転がって距離を取った。
そして、すぐに立ち上がり、腰のサバイバルナイフを引き抜く。
「下がってろ、キナ!」
俺は、目の前の「それ」を睨みつけた。
もう、花には見えなかった。
擬態を解いたそれは、緑色の怪物だった。
巨大な口からは、粘液がポタポタと垂れ落ち、触手が蛇のように空中で鎌首をもたげている。
「ギチチチチチチ……!!」
植物とは思えない、昆虫が羽を擦り合わせるような威嚇音が響く。
「……勉強になったな、キナ」
俺は、ナイフを逆手に持ち替え、重心を低くした。
口の中が、鉄の味で満たされる。
「綺麗なものには毒がある。……第0層の常識だろ?」
俺は、地面を蹴った。
魔法は使えない。
機械も動かない。
頼れるのは、この体一つと、研ぎ澄まされた殺意だけだ。
緑色の地獄。
その最初の洗礼が、今、襲いかかってくる。
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