第19話:呼吸する森、あるいは肺を焼く過剰な酸素(後半)
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「行くぞ、キナ」
俺は、重い足を持ち上げた。
靴の中まで水が浸みて、グジュリ、と不快な音がする。
「こんな水遊び、すぐに乾かしてやる」
強がりを言って、俺は前を向いた。
濡れた髪の隙間から、目の前に広がる景色を睨みつける。
そこは、巨大な吹き抜けの空間だった。
足元には、真っ白な塗料で塗られた連絡橋が、遥か彼方の対岸まで一直線に伸びている。
そして、その橋の下には。
「……森、か?」
俺は、手すりから身を乗り出して見下ろした。
緑色の海。
鬱蒼とした木々が、地表を埋め尽くしている。
だが、それは俺が図鑑で見たことのある「森」とは、決定的に何かが違っていた。
違和感の正体は、すぐにわかった。
木々が、土から生えていないのだ。
巨大な鉄の配管。
直径数メートルから、太いものは数十メートルもある黒いパイプが、地面を這い回り、複雑に絡み合っている。
その鉄の表面に、植物の根が食い込んでいた。
まるで、獲物に寄生する虫のように。
太い根が、金属の継ぎ目や亀裂を無理やり押し広げ、パイプの内部へと侵入している。
そして、そこから汚水やガスを吸い上げているのだろう。
幹はドス黒く変色し、葉脈は血管のように赤く、不気味に脈動していた。
機械と植物の、醜悪な融合。
それが、第2層「肺の森」の正体だった。
「……趣味が悪いわね」
隣で、キナが顔をしかめた。
彼女もまた、その異様な生態系に気付いたようだ。
「あれは共生じゃないわ。……搾取よ。植物を使って、下層の汚れを無理やり濾過させてる」
キナの言葉には、技術者としての嫌悪感が滲んでいた。
美しくない。
効率のためだけに、生命をフィルターとして使い潰す、バベルの傲慢さ。
「……行くぞ」
俺は、視線を切った。
見ているだけで、胸が悪くなる。
それに、立ち止まっていると、結露で増え続ける水滴が体温を奪い続け、意識が遠のきそうになる。
俺たちは、連絡橋の上を歩き出した。
ザッ、ザッ、ザッ……。
俺の足音は湿って重く、キナの足音は乾いて軽い。
不揃いなリズムが、静まり返った空間に響く。
頭上には、偽物の青空と、人工太陽。
その強烈な光が、俺の濡れたコートを照らし、蒸発させようとする。
だが、それ以上に俺の体が冷えているせいで、水滴は乾くどころか増える一方だ。
ポタ、ポタ、ポタ……。
歩くたびに、俺の通った跡に点々とシミができる。
まるで、傷負いの獣が血を垂れ流して歩いているようだ。
(遠いな……)
俺は、顔を上げた。
視線の先。
森の中央を突き抜けて、天高く聳え立つ巨大な「柱」が見える。
バベルの本体。
この塔の中心軸だ。
第2層はドーナツ状の構造をしており、俺たちは今、その外周部にいる。
次の階層へ行くには、あの中心の柱までたどり着き、そこにある昇降機に乗らなければならない。
距離にして、数キロメートル。
平地なら、どうということはない距離だ。
だが、この密林を抜けるとなると、話は別だ。
めまいがした。
酸素酔いのせいだけではない。
世界が、あまりにも広くて、高い。
第0層という狭い箱の中で生きてきた俺にとって、この圧倒的なスケール感は、それだけで心をへし折る凶器になり得た。
あそこまで、行けるのか?
この、溺れるような空気の中で。
体温を奪われ続けながら。
「……ニルス」
不意に、キナが足を止めた。
彼女の声が、震えている。
「なに、あれ……」
キナが指差したのは、前方ではなかった。
俺たちの、背後だ。
俺は、重い首を回して振り返った。
そこには、俺たちがくぐり抜けてきた、第1層との境界である巨大なゲートがあった。
分厚い合金の扉。
高さ10メートルを超える、鉄の壁。
その扉が。
ズズズズズズズ…………。
動いていた。
腹の底に響く、低い地鳴りのような音。
巨大な蝶番が軋み、油圧シリンダーが唸りを上げる。
「……閉まるぞ」
俺は、呆然と呟いた。
ゆっくりと。
しかし、拒絶の意志を持って。
開いていた隙間が、徐々に狭まっていく。
そこから吹き込んでいた、第1層の汚れた風――俺にとっての「呼吸できる空気」が、遮断されていく。
(待ってくれ)
心の中で、叫び声が上がった。
閉めるな。
まだ、心の準備ができていない。
退路を断たないでくれ。
本能が、あの薄暗い工場へ帰りたがっている。
あそこなら、息ができる。
あそこなら、寒くない。
あそこなら、知っている地獄だ。
俺の足が、無意識に一歩、後ろへ下がった。
「ニルス!」
キナが、俺の袖を掴んだ。
その強い力に、ハッと我に返る。
「見ちゃダメ! ……もう、戻れないのよ!」
キナの声は悲鳴に近かった。
彼女もまた、怖いのだ。
技術者としての好奇心で覆い隠してはいるが、その下には、か弱い少女の震えがある。
彼女の指先が、俺の腕に食い込んでいるのが分かった。
俺は、歯を食いしばった。
そうだ。
俺が震えてどうする。
俺が後ろを向いてどうする。
「……ああ」
俺は、踏み止まった。
そして、その光景を網膜に焼き付けることにした。
ズゴォォォォォォォォン!!!!
轟音。
巨大な金属同士がぶつかり合い、噛み合う音。
その衝撃波が、空気を伝って俺の肌を叩いた。
完全に、閉じた。
一筋の隙間もなく。
第1層の赤い光も、焦げた臭いも、全てが厚い鉄の向こう側へと消え失せた。
残されたのは、静寂。
そして、濃すぎる酸素の甘い匂いだけ。
シン……。
耳が痛くなるほどの静けさが、俺たちを包み込んだ。
換気ファンの音も、工場の稼働音もしない。
ただ、自分の心臓の音と、濡れた服から水滴が落ちる音だけが聞こえる。
「……ふぅ」
俺は、肺の中に溜まっていた息を、全て吐き出した。
白い呼気が、長く伸びて消える。
これでいい。
もう、迷う余地はない。
退路は断たれた。
俺たちは、この巨大な密閉されたフラスコの中に、たった二人きりで閉じ込められたのだ。
「……行くぞ」
俺は、キナの手を握った。
彼女の手は小さく、温かかった。
俺の手は冷たく、濡れていた。
それでも、彼女は振り払わなかった。
俺たちは、連絡橋の残りを歩ききった。
橋の突き当たりには、森へと降りるためのスロープが伸びている。
人工的な床は、ここまでだ。
この先は、自然――いや、狂った自然の領域だ。
俺は、スロープを降りた。
最初の一歩を、森の地面に踏み出す。
グニュリ。
嫌な感触。
土ではない。
腐った落ち葉と、苔と、何かの粘液が混ざり合った、ぬかるんだ沼のような感触。
靴底が沈み込む。
足首まで、冷たい泥に包まれる。
「うっ……」
キナが、鼻をつまんだ。
匂いが、変わった。
遠くで嗅いだ時は「甘い」と感じた匂いが、近づくと「腐敗臭」に近いものへと変質していた。
生き物の死骸と、植物の発酵した匂い。
命が生まれ、死に、溶けていく場所の匂いだ。
俺は、周囲を見渡した。
暗い。
上空の人工太陽の光は、頭上を覆う巨大な葉に遮られ、地表までは届かない。
薄暗い緑色の闇が、視界の奥まで続いている。
巨大なシダ植物。
人が入れるほど大きな壺のような花。
そして、それらが根を張る、錆びついたパイプの山。
静かだ。
あまりにも静かすぎる。
鳥のさえずりも、虫の鳴き声もしない。
風の音さえ、木々に吸い込まれて消えていく。
「……ねえ、ニルス」
キナが、俺の背中に隠れるようにして囁いた。
「さっきから……なんか、変じゃない?」
「ああ」
俺は、魔剣の柄に手をかけた。
冷えた指先が、さらに冷たい柄の感触を確かめる。
「静かすぎる」
生き物の気配がないわけではない。
むしろ、逆だ。
気配が、「ありすぎる」。
俺の肌が、チリチリと粟立つ。
これは、酸素酔いのせいじゃない。
もっと原始的な、生物としての警報だ。
見られている。
一方向からじゃない。
右から。
左から。
頭上の枝から。
足元の茂みから。
無数の「視線」が、俺たちの背中を、喉笛を、心臓を、じっと品定めしている。
俺は、目を凝らした。
暗がりの奥。
葉の陰。
カチリ。
小さな音がした。
枯れ枝を踏んだ音ではない。
硬い甲殻同士が擦れ合うような、あるいは、セーフティを外した銃のような、無機質で殺意に満ちた音。
そして。
ギロリ。
暗闇の中で、赤い光が灯った。
一つではない。
二つ、四つ、八つ……。
無数の赤い点が、ホタルのように明滅し、そして一斉にこちらを向いた。
「……っ!」
キナが息を呑む気配。
魔力の光じゃない。
あれは、「眼光」だ。
飢えた獣たちが、新鮮な肉の匂いを嗅ぎつけて、涎を垂らしている目だ。
俺は、理解した。
ここは、通り抜けるための「道」じゃない。
ここは、「胃袋」だ。
第1層が機械的な焼却炉だったとするなら、ここは生物的な消化器官だ。
入ってきた異物を、溶かし、喰らい、養分にするための場所。
「……歓迎されてるな」
俺は、皮肉を込めて呟いた。
口の中がカラカラに乾く。
なのに、体の表面からは、止めどなく水が溢れ出し続けている。
俺という存在が、この森にとって格好の「水源」であり、「熱源(冷却材)」であり、そして「餌」であることを、奴らは本能で理解しているのだ。
「離れるなよ、キナ」
俺は、魔剣を引き抜いた。
白い刀身が、暗闇の中で微かに光る。
その光に反応して、周囲の赤い眼光が、ザワリと揺れた。
食事の時間が始まる。
俺たちが「食べる側」に回れるか、それとも「食べられる側」になるか。
その生存競争のゴングが、今、音もなく鳴らされた。
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