第19話:呼吸する森、あるいは肺を焼く過剰な酸素(前半)
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爆破したゲートの残骸から、まだ白い煙が立ち昇っている。
俺は、その煙の境界線に立っていた。
背後には、鉄と油の臭いが染み付いた灰色の回廊。
そして目の前には、暴力的なまでに鮮やかな光の世界が広がっている。
「……行くぞ」
俺は、短い言葉を喉の奥から絞り出した。
その声は、自分でも驚くほど乾いていて、どこか頼りなく響いた。
一歩。
俺は、右足を前に踏み出した。
重いブーツの底が、新しい床を踏みしめる。
その感触は、第1層の硬い鉄板とも、第0層の脆もろい瓦礫とも違っていた。
何かが、靴底に吸い付くような、湿り気を帯びた弾力。
そして、境界線を越えた瞬間。
「……ぐ、っ!?」
肺が、焼けた。
熱い。
いや、痛い。
まるで、沸騰した鉛を気化させて吸い込んだような、重く、鋭い痛みが気管を駆け抜け、肺胞の一つ一つを焼き焦がしていく感覚。
俺は思わず足を止め、喉元を鷲掴わしづかみにした。
(毒か……!?)
本能が、警鐘を鳴らす。
即座に息を止めようとした。
だが、できない。
酸素を求める体が、意思に反して痙攣けいれんし、次の空気を貪むさぼろうとする。
ヒュッ、ハッ、ヒュッ……。
呼吸が、浅く、速くなる。
吸い込んでいるのは空気のはずだ。
第1層のような、焦げ臭い硫黄の臭いはしない。
むしろ、甘い。
腐る寸前の果実と、雨上がりの土を煮詰めたような、濃厚でむせ返るような甘い匂い。
それが、鼻腔の粘膜にねっとりと張り付き、脳髄を直接刺激する。
「ニルス!?」
隣で、キナの声がした。
彼女の声が、妙に遠い。
水の中で聞いているように、くぐもって聞こえる。
視界が、チカチカと明滅を始めた。
白い光の粒子が、視神経の上で踊っている。
(なんだ、これは……)
目眩めまいがする。
地面がぐにゃりと歪み、平衡感覚が失われていく。
立っていられない。
膝の力が抜け、俺はその場に片膝をついた。
ガシャン。
膝の防具が床を叩く音が、頭蓋骨の中で反響してガンガンと響く。
「おい、しっかりして! どうしたの!?」
キナが駆け寄ってくる気配。
彼女の手が、俺の肩に触れる。
温かい。
いや、熱い。
今の俺にとって、彼女の体温は火傷しそうなほど熱く感じられた。
「……息が、苦しい」
俺は、喘あえぐように言った。
「空気が……濃すぎる……」
第1層の汚れた空気。
灰とスモッグが混じり、酸素なんてほとんどなかったあの場所。
俺の体は、あの劣悪な環境にこそ適応してしまっていたのだ。
だから、ここは毒だ。
清浄すぎる空気は、汚れきった俺の肺には、劇薬でしかない。
「濃い?」
キナが、手元の端末を操作する音が聞こえた。
ピピピ、ピピピ……という電子音が、やけに鋭く耳に刺さる。
「……嘘でしょ」
キナの声が、裏返った。
それは恐怖の色ではない。
隠しきれない興奮と、歓喜の色を帯びていた。
「すごい……! 見て、この数値!」
彼女は、俺の苦しみなど目に入っていないかのように、端末の画面を俺の目の前に突き出した。
「酸素濃度が、基準値の2倍……いいえ、3倍を超えてるわ! それに、このマナの大気充填率じゅうてんりつ……! まるで、空気そのものが魔力のスープみたい!」
キナは、顔を輝かせていた。
ゴーグルの奥の瞳が、知識欲にギラギラと光っている。
「ここなら、どんな高燃費の魔道具だって使い放題よ! 燃料の心配なんていらない。呼吸するだけで魔力が回復するんだから!」
彼女は立ち上がり、両手を広げて深呼吸をした。
「はぁ〜……! 最高! 肺の中が洗われるみたい!」
彼女にとっては、天国なのだろう。
魔力を持つ人間にとって、ここは約束された楽園なのかもしれない。
だが、俺には地獄だった。
魔力を持たない俺の体は、この空間に満ちる濃密な魔素マナを取り込むことができない。
ただ、過剰な酸素だけが血液に溶け込み、心臓を早鐘のように叩き続けている。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……。
心拍数が上がっていく。
血管が膨張し、こめかみがズキズキと脈打つ。
酸素酔いだ。
多幸感と吐き気が、波のように交互に押し寄せてくる。
(……気持ち悪い)
俺は、胃の底からせり上がってくる不快感を、唾と一緒に飲み込んだ。
目の前の景色が、やけに鮮やかに見える。
植物の緑が、目に痛いほど濃い。
葉の表面を、青白い光の筋が脈動しているのが見える。
あれは、魔力の光か?
それとも、俺の目がイカれてしまったのか?
頭上の空には、眩まぶしい太陽が輝いている。
だが、その端の方に、うっすらと格子状の線が見えた。
作り物の空。
ホログラムの檻おり。
ここは、おかしい。
何もかもが過剰で、何もかもが人工的で、歪いびつだ。
「……っ」
俺は、震える手で膝をつき、立ち上がろうとした。
その時だった。
ペタリ。
頬に、何かが張り付いた。
冷たい感触。
雨か?
いや、空は晴れている。
俺は、手の甲で頬を拭った。
濡れている。
透明な水滴。
汗か?
いや、違う。
今の俺は、寒気を感じるほどに体温が下がっているはずだ。
魔剣が、俺の生命維持に必要な熱すらも奪い続けているからだ。
(……なんだ?)
違和感が、背筋を這い上がってくる。
二の腕が、冷たい。
太ももが、湿っぽい。
背中を、何かが伝い落ちる感覚。
俺は、自分の体を見下ろした。
ボロボロのコート。
その表面に、無数の小さな水滴が生まれていた。
まるで、早朝の草花に降りる朝露のように。
びっしりと。
「……ニルス?」
キナが、俺の異変に気づいたようだ。
彼女の興奮した声が止まる。
「あんた、どうしたの? ……なんか、すごく濡れてるけど」
「……わからん」
俺は、自分の両手を目の前にかざした。
指先を見る。
皮膚の表面に、空気中の水分が吸い寄せられるように集まってくるのが見えた。
目に見えない水蒸気が、俺の指に触れた瞬間に、液体の水へと姿を変える。
スゥッ……ポタッ。
指先から、大粒の水滴が滴り落ちた。
一滴だけではない。
次から次へと。
ポタ、ポタ、ポタ、ポタ……。
「うわっ、なにこれ!?」
キナが悲鳴に近い声を上げた。
俺の足元に、あっという間に水溜まりができ始めていたからだ。
俺は、理解した。
いや、理解させられた。
これは、汗ではない。
この森の「湿気」だ。
俺の体は今、魔剣の影響で極限まで冷え切っている。
対して、この第2層の空気は、熱帯雨林のように蒸し暑く、水分を限界まで含んでいる。
冷たい氷の入ったグラスを、真夏の屋外に置いたらどうなるか。
表面に、水滴がつく。
「結露」だ。
今、俺の体そのものが、巨大な保冷剤となって、周囲の空気を冷やし、水分を強制的に凝固させているのだ。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
なんてざまだ。
ただ立っているだけで、俺の存在そのものが、この環境と不協和音を奏でている。
俺は、右手を強く握りしめた。
水が滴り落ちる拳。
その中にある、硬い感覚を思い出す。
レオの石。
あいつは、もっと冷たくて、暗い場所にいる。
「……違う」
俺は、首を振った。
飛び散った水滴が、人工太陽の光を反射してキラキラと光る。
「これは、汗じゃない」
俺は、自分の手を見つめて言った。
自分に言い聞かせるように。
「俺の体が……このふざけた空気を、『絞り出して』るんだ」
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