第9話:生還、そして変わってしまった世界(後半)
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ジュウウウウッ……!
ドラム缶の上で、肉が悲鳴を上げている。
網の隙間から脂がしたたり落ち、炎に触れてはチリチリと爆ぜる。
立ち昇る煙は、食欲をそそる香ばしさと同時に、鼻の粘膜を刺激するツンとした薬品のような臭いを孕んでいた。
魔獣の肉。
この世界で、まともな人間なら決して口にしない禁忌の食材。
毒素と、過剰な魔力が凝縮された肉塊。
「…………」
ギルは、部屋の隅で膝を抱えたまま、ドラム缶を凝視していた。
その目は、まるで汚物を見るかのように怯え、小刻みに震えている。
喉が鳴る音が聞こえた。空腹のせいか、それとも恐怖のせいか。
「食わないのか?」
俺は聞いた。
答えは分かっていたけれど、聞かずにはいられなかった。
これが、俺たちの最後の分岐点になる気がしたからだ。
「……無理だ」
ギルは首を振った。
青ざめた顔で、口元を手で覆う。
「そんなの……毒だろ。死んじまうよ」
「死なないさ。俺は生きてる」
「お前は……お前はもう……!」
ギルは言葉を飲み込んだ。
『お前はもう人間じゃないからだろ』
そう言いたかったのだろう。
その通りだ。否定するつもりはない。
俺は、焼けた肉に手を伸ばした。
素手だ。
鉄の網は赤熱し、肉の表面は焦げて、脂が沸騰している。
普通なら、触れた瞬間に大火傷を負う熱さ。
けれど。
ジュッ。
俺の指先が肉に触れても、熱さは感じなかった。
むしろ、心地よかった。
俺の体温の方が遥かに低いせいで、熱々の肉が「ほんのり温かいカイロ」程度にしか感じられない。
俺は、分厚いステーキのような肉塊を鷲掴みにした。
指の間から、熱い肉汁が溢れ出し、腕を伝って落ちる。
(いただきます)
心の中で、誰にともなく呟く。
そして、獣のように齧りついた。
ガブリッ!!
「……ッ!」
硬い。
ゴムタイヤを噛んでいるような弾力。
顎の筋肉が悲鳴を上げるほど強く噛み締め、無理やり繊維を引きちぎる。
口の中に、強烈な味が広がった。
血の味。
鉄の味。
そして、舌が痺れるような、パチパチと弾ける刺激。
不味い。
とてつもなく不味い。
けれど、その不快な味が食道を通って胃袋に落ちた瞬間、爆発的な熱量に変わった。
カッ!!
腹の底から、力が湧き上がってくる。
魔力を持たない俺の身体が、魔獣の肉に含まれるエネルギーを貪欲に吸収し、細胞の一つ一つに行き渡らせていく感覚。
(これだ……)
俺は、恍惚とした気分で肉を咀嚼した。
カビたパンなんかじゃない。
生き物の命そのものを奪い、自分の血肉に変える行為。
これこそが「食事」だ。
「うぐっ、むぐっ……!」
俺は貪り続けた。
口の周りを脂と血で汚し、骨まで噛み砕く勢いで食らう。
上品さのかけらもない。
ただ生きるために、他の命を食い尽くす捕食者の姿。
ギルが、息を呑んでそれを見ていた。
その目には、もう友情の色はなかった。
完全なる「他者」を見る目。
同じ部屋にいながら、俺たちは決定的に違う世界の住人になっていた。
二枚目の肉を平らげた時だった。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ…………!!
不意に、部屋の外から低い音が響いてきた。
風の音ではない。
もっと人工的で、神経を逆撫でするような不協和音。
サイレンだ。
街中に設置されたスピーカーが一斉に唸り声を上げている。
「な、なんだ!?」
ギルが弾かれたように立ち上がり、窓に駆け寄る。
錆びついた窓枠越しに、外の様子を覗き込む。
「……嘘だろ」
ギルの背中が強張った。
彼の震える声が、絶望を告げる。
「赤だ……赤いランプが回ってる……」
俺は、肉を噛む手を止めた。
赤の回転灯。
そして、この耳障りなサイレン。
第0層に住む人間なら、誰もが知っている死の合図。
『住民の皆様に、お知らせします』
スピーカーから、ノイズ混じりの無機質な女性の声が流れてきた。
事務的で、感情のない、録音された音声。
『これより、第0層・D区画の「定期清掃」を開始します』
『衛生環境の悪化に伴い、害虫および汚染物質の焼却処分を行います』
『対象エリアの住民は、速やかに焼却されてください』
『抵抗は無意味です。繰り返します。抵抗は無意味です』
定期清掃。
それは、上層の気まぐれで行われる「口減らし」の別名だ。
スラムの人口が増えすぎたり、伝染病が流行ったりした時に、区画ごと焼き払ってリセットする。
俺たちを「人間」ではなく「ゴミ」として処理する、究極の行政サービス。
「ひっ、ひぃぃ……!」
ギルが窓から離れ、へたり込んだ。
「定期清掃だ……! 終わりだ、殺される……!」
「落ち着け」
俺は、最後の肉切れを口に放り込み、ゆっくりと立ち上がった。
不思議なほど、心は静かだった。
腹は満たされている。
身体には力が漲っている。
「逃げるぞ、ギル」
「逃げるって……どこへ!? 外はもう包囲されてる! 出たら撃たれるんだぞ!」
「じゃあ、ここで焼かれるのを待つか?」
俺は冷たく言い放った。
ギルが言葉を詰まらせる。
ドォォォォンッ!!
近くで爆発音がした。
続いて、バリバリという何かが崩れる音と、人々の悲鳴が聞こえてくる。
「きゃぁぁぁぁっ!」
「助けてくれぇ! まだ子供がいるんだ!」
「熱い! 熱いよぉぉ!」
地獄の釜の蓋が開いた音だ。
火炎放射器を持った「掃除屋」たちが、もう仕事を始めている。
「う、わぁぁぁぁぁっ!!」
ギルがパニックを起こし、部屋の隅にあるボロボロのタンスに潜り込もうとする。
無駄だ。
あんな木の箱、炎の前では薪にしかならない。
俺は、壁に立てかけてあった剣を手に取った。
ズシリ。
心地よい重み。
白い包帯が、俺の手を待ちわびていたかのように吸い付く。
剣から伝わってくるのは、恐怖ではなく「期待」だった。
『次はなんだ?』『何を食わせてくれる?』という、無邪気な殺意。
「……行くぞ、ヴァニタス」
俺は剣を背負い、扉に向かった。
「待ってくれ、ニルス!」
ギルが叫んだ。
「行くって……外へ出るのか!? 自殺する気かよ!」
俺は足を止め、振り返った。
暗がりの中で、俺の目は青白く光っていたかもしれない。
「自殺?」
俺は鼻で笑った。
「違うな。……『駆除』しに行くんだ」
「は……?」
ギルがポカンと口を開ける。
意味が理解できないようだ。
無理もない。
ゴミが掃除屋を駆除するなんて、この世界の常識ではあり得ないことだからだ。
「ここにいろ、ギル。燃えるのが嫌なら、風呂桶に水でも溜めて潜ってろ」
「お、お前は……」
「俺は、ちょっと食後の運動をしてくる」
俺はそれだけ言い残し、扉を蹴り開けた。
バンッ!!
外気が流れ込んでくる。
熱い。
さっきまでの湿気た空気とは違う、焦げ臭い熱風。
廊下の向こうが、すでに赤く染まっている。
俺は一歩、踏み出した。
足元の霜が、熱気と混ざって白い蒸気を上げる。
(来るなら来い)
俺の体温は氷点下だ。
火炎放射器ごときじゃ、俺の心臓は溶かせない。
俺は通路を歩き出した。
向かう先は、悲鳴が一番大きい場所。
炎が一番激しく燃え盛っている、地獄の中心地だ。
***
廃アパートの外に出ると、そこは戦場だった。
夜空を焦がす紅蓮の炎。
崩れ落ちる建物。
逃げ惑う人々を、防護服を着た男たちが笑いながら追い回している。
「燃えろ燃えろ! ゴミどもが、いい声で鳴きやがる!」
彼らの手には、巨大なタンクに繋がれた火炎放射器。
そこから吐き出されるオレンジ色の舌が、逃げ遅れた老人や子供を容赦なく飲み込んでいく。
「熱い! 熱いぃぃぃ!」
「やめて! お願い、許して!」
命乞いなど届かない。
彼らにとって、これは仕事であり、同時に娯楽なのだ。
害虫駆除の感覚で、人を焼く。
その光景が、10年前の記憶と重なる。
父さんを焼いたヘリオスの笑顔。
母さんを灰にした炎。
(同じだ……)
俺の中で、冷たい怒りが臨界点を超えた。
こいつらは、ヘリオスの手先だ。
あいつの意思を代行する、末端のクズどもだ。
なら、遠慮はいらない。
「おい、そこのゴミ!」
俺の姿に気づいた掃除屋の一人が、こちらにノズルを向けた。
ガスマスクの奥で、ニヤついた目が光る。
「逃げ遅れか? 運が悪いなボウズ! 今すぐ楽にしてやるよ!」
男がトリガーを引く。
ゴォォォォッ!!
火炎放射器から、猛烈な炎が噴射される。
距離は10メートル。
避ける隙はない。
俺は、逃げなかった。
一歩も下がらず、むしろ炎に向かって歩き出した。
「はぁ? なんだコイツ、頭イカれてんのか?」
男が嘲笑う。
炎が俺の目の前まで迫る。
熱波が前髪を焦がす。
俺は、剣を抜いた。
白い包帯の巻かれた、異形の魔剣。
それを、炎の壁に向かって無造作に突き出す。
「吸え」
短く命じる。
その瞬間。
シュゴォォォォォッ…………!!
物理法則が、反転した。
俺に襲いかかるはずだった炎が、直前で進路をねじ曲げられ、剣の切っ先一点へと吸い込まれていく。
まるで、ブラックホールに飲み込まれる光のように。
巨大な炎の渦が、瞬く間に収束し、消失する。
「は……?」
男の声が裏返った。
何が起きたのか理解できていない。
トリガーを引き続けているのに、炎が出ない。
燃料はあるはずなのに、噴射された瞬間に「消されて」いる。
「な、なんで……火が……消え……?」
「ごちそうさん」
俺は、煙を上げる剣を肩に乗せ、男の目の前に立った。
男が見上げる。
ガスマスク越しでも分かる、恐怖の表情。
「な、なんだお前……化け物……」
「化け物?」
俺は笑った。
頬が引きつり、冷たい息が漏れる。
「そうだな。お前らが作ったんだよ」
俺は剣を振り上げた。
斬るのではない。
質量で叩き潰す。
「次は、お前がエサになれ」
「ひっ、あ、あぁぁぁ……!!」
男が尻餅をつき、後ずさる。
遅い。
ドォォォォンッ!!
俺は剣を振り下ろした。
ガスマスクごと、男の頭部を粉砕する。
グシャリ、という生々しい音と共に、男の身体が地面に沈む。
返り血が飛ぶ。
炎の熱さではなく、生温かい血の感触。
周囲の掃除屋たちが、異変に気づいて動きを止めた。
炎の音が消え、静寂が広がる。
全員の視線が、俺に集中する。
「な、なんだアイツ……!」
「一撃でやりやがったぞ!」
「囲め! 焼き殺せ!」
10人、いや、20人か。
防護服の男たちが、一斉に俺を取り囲む。
四方八方から向けられる火炎放射器の銃口。
絶体絶命。
普通ならそう思うだろう。
けれど、俺の心は踊っていた。
剣が、歓喜の産声を上げている。
さっき吸った炎のエネルギーが、刀身の中で赤く明滅し、早く解放しろと暴れている。
『熱い……熱いぞ……!』
『吐き出せ……ぶっ放せ!』
剣の意思が、俺の殺意とリンクする。
「ああ、いいぜ」
俺は、剣を横に薙ぎ払うように構えた。
包帯の隙間から、赤い蒸気が噴き出す。
「お前らがくれた熱だ。……倍にして返してやるよ」
俺は踏み込んだ。
自分から、敵の群れの中へ。
「さあ、掃除の時間だ」
俺のつぶやきと共に、第0層の夜に、反撃の狼煙が上がった。
それは、誰も見たことのない、冷たくて熱い、復讐の炎だった。
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