第9話:生還、そして変わってしまった世界(前半)
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亀裂の縁に手をかけた瞬間、鼻腔を殴りつけたのは「腐敗」だった。
「うっ……」
俺は思わず、登る手を止めて口元を覆った。
臭い。
あまりにも、臭すぎる。
それは、生ゴミが発酵した酸っぱい臭いであり、垂れ流された排泄物のアンモニア臭であり、そして、絶望した人間たちが吐き出す淀んだ息の臭いだった。
(こんなに……酷かったか?)
俺は困惑しながら、最後の岩場をよじ登った。
昨日まで、いや、ほんの数時間前まで、俺はこの空気を肺いっぱいに吸って生きてきたはずだ。
これが日常で、これが当たり前だった。
けれど、深層のあの冷たく澄んだ空気を知ってしまった今の俺には、この第0層の大気は「毒ガス」にしか思えなかった。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
咳き込むたびに、喉の奥に汚泥がこびりつくような不快感が走る。
俺は這い上がり、地面に転がった。
そこは、いつもの路地裏だった。
薄汚れたレンガの壁。
誰かが捨てた空き缶。
壁に描かれた卑猥な落書き。
何も変わっていない。
景色は、何一つ変わっていないはずなのに。
俺の目には、すべてが色褪せて、灰色に塗りつぶされているように見えた。
(狭い……)
それが、最初の感想だった。
あんなに広く感じていた街が、今はまるでミニチュアの箱庭みたいに窮屈だ。
空を見上げても、低い天井が蓋をしていて、圧迫感で押しつぶされそうになる。
「……帰って、きたのか」
俺は呟いた。
安堵はなかった。
あるのは、サイズの合わなくなった古い服を、無理やり着せられているような違和感だけ。
俺はゆっくりと立ち上がった。
右肩には、まだ湿っている白い包帯の魔剣。
左肩には、戦利品であるアビス・ワームの肉塊。
それらがズシリと重く、俺が「あっち側」の住人になってしまったことを主張している。
歩き出す。
一歩、足を踏み出すたびに、奇妙な音がした。
パキッ。
水たまりを踏んだわけではない。
ただの湿った泥の上を歩いただけだ。
なのに、俺の靴底が地面に触れた瞬間、そこに含まれていた水分が一瞬で凍結し、霜柱を作って砕けたのだ。
俺は足を止めて、地面を見た。
俺の足跡だけが、白く凍りついている。
周囲の空気中の水分が、俺の体から漏れ出す冷気に触れて、キラキラとしたダイヤモンドダストになって舞っている。
(……制御できない)
剣が吸い上げている熱量が、周囲の環境にまで影響を及ぼしている。
俺は今、歩く冷蔵庫だ。
俺が存在するだけで、この生温かい第0層の気温が下がっていく。
「……行くか」
俺は、誰に見られることもなく、路地の影を縫うようにして歩いた。
目指すのは、あの廃屋だ。
俺と、レオと、そしてもう一人の親友、ギルが暮らしていた場所。
ギルはまだ、何も知らないはずだ。
俺がレオを連れて逃げたことも。
レオが石になって死んだことも。
そして、俺が弟を砕いて、売って、化け物になって帰ってきたことも。
(なんて言えばいい?)
一歩進むごとに、足取りが重くなる。
『ただいま』?
言えるわけがない。
俺はもう、あの頃のニルスじゃない。
『レオは死んだ』?
それを聞いたギルは、どんな顔をするだろう。
泣くだろうか。怒るだろうか。
それとも、俺と同じように「仕方ない」と諦めるだろうか。
想像するだけで、胸の奥がキリキリと痛んだ。
いや、痛いのかどうかも分からない。
心臓のあたりはずっと凍りついていて、感覚が麻痺しているから。
廃屋が見えてきた。
トタン板と廃材を継ぎ接ぎして作った、ボロボロの小屋。
隙間風だらけで、冬は凍えるほど寒くて、夏は蒸し風呂になる、俺たちの城。
扉の前で、俺は立ち止まった。
中から、物音が聞こえる。
誰かが、狭い部屋の中を行ったり来たりしている足音。
ギルだ。
あいつ、心配して待ってるんだ。
俺は、ドアノブに手を伸ばした。
錆ついた鉄のノブ。
指先が触れそうになって、止まる。
(怖い)
アビス・ワームと戦った時でさえ、震えなかった手が。
今は小刻みに震えている。
この扉を開ければ、俺は「現実」と向き合わなきゃならない。
レオがいないという現実。
俺が人殺しだという現実。
そして、ギルとの関係が、もう元には戻らないという予感。
「……ふぅ」
俺は深く息を吐いた。
白い息が、扉の隙間から中へと吸い込まれていく。
覚悟を決めろ。
逃げても、何も変わらない。
俺はもう、戦うと決めたんだ。
俺は、冷え切った手でノブを握りしめた。
カチリ、と音がして、ノブが凍りつく。
そのまま、ゆっくりと回した。
ギィィィィ…………。
蝶番が悲鳴を上げ、扉が開く。
薄暗い室内。
夕暮れの光が、埃っぽい空気を斜めに切り取っている。
その部屋の中央に、ギルがいた。
背の高い、猫背の少年。
ボサボサの黒髪を掻きむしりながら、落ち着きなく歩き回っていた彼は、扉の音に弾かれたように顔を上げた。
俺と、目が合う。
時間は、そこで止まったようだった。
1秒。
2秒。
3秒。
ギルの目が、大きく見開かれる。
不安と、焦燥と、そして安堵がない交ぜになった瞳。
それが、俺の姿を捉えて揺れる。
「……ニルス?」
ギルの口から、信じられないものを見るような声が漏れた。
無理もない。
今の俺は、酷い有様だ。
服はボロボロで泥だらけ。
全身に緑色の返り血(ワームの体液)を浴びて、異様な悪臭を放っている。
右腕には包帯ぐるぐる巻きの剣。
肩には、血の滴る肉塊。
どう見ても、ただの水汲みから帰ってきた姿じゃない。
「お前……」
ギルが、一歩踏み出した。
「お前、今までどこ行ってたんだよ! 探したんだぞ!」
怒鳴り声。
でも、その裏には泣き出しそうな響きがあった。
「みんなが……アパートの連中が、お前とレオが白化して逃げたって……石投げて追い出したって……」
ギルの声が震える。
あいつも、聞いていたんだ。
あの騒ぎを。
「嘘だよな? 白化なんて、嘘だろ? だって、昨日まで元気だったじゃないか!」
ギルが、俺の後ろを覗き込む。
扉の外。
廊下の暗がり。
「……レオは?」
その問いかけが、俺の心臓に突き刺さった氷の杭を、さらに深く打ち込む。
「レオはどこだ? 一緒じゃないのか? 隠れてるのか?」
「…………」
俺は、答えられなかった。
喉が張り付いて、言葉が出てこない。
ただ、首を横に振ることしかできなかった。
ギルの表情が、強張る。
理解したくない現実を、俺の沈黙から悟ってしまった顔。
「……嘘だろ」
ギルが、よろめくように近づいてくる。
「嘘だと言ってくれよ、ニルス。あいつはまだ小さいんだぞ。これからなんだぞ。そんな……そんなこと、あるわけないだろ!」
ギルが、俺の目の前まで来た。
手を伸ばしてくる。
俺の胸ぐらを掴んで、揺さぶろうとしている。
あるいは、抱きついて泣こうとしているのかもしれない。
俺は、その手を見た。
あかぎれだらけの、薄汚れた、でも温かい人間の手。
かつては、俺も持っていた温もり。
(触るな)
俺の本能が、叫んだ。
拒絶じゃない。
警告だ。
今の俺に触れたら、お前は傷つく。
今の俺は、刃物よりも鋭い「氷」だ。
その温かい手を、俺の冷気が壊してしまう。
「やめろ、ギル」
俺は、掠れた声で止めた。
一歩、後ずさる。
「近寄るな」
けれど、ギルには聞こえなかったようだ。
感情が溢れ出して、止まらなくなっている。
「なんでだよ! なんでお前だけ帰ってきたんだよ! レオはどうしたんだよぉッ!」
ギルが、涙を流しながら手を伸ばした。
その指先が、俺の左肩――ワームの肉を担いでいない方の肩に触れようとする。
「俺に、触るなッ!!」
俺は叫んだ。
しかし、遅かった。
バシッ。
ギルの手が、俺の肩を掴んだ。
その瞬間。
ジューッ!!
肉が焼けるような音がした。
熱したフライパンに水を垂らした音じゃない。
濡れた手が、ドライアイスに張り付いた時の、あの凍結音だ。
「――ッ!?」
ギルの動きが止まった。
彼の目が、極限まで見開かれる。
「あ……が……?」
ギルは、自分の手を離そうとした。
離れない。
掌の皮膚が、瞬時に凍りついて、俺の服に張り付いてしまっている。
冷気が、接触点からギルの腕へと逆流する。
血管の中を、氷の針が駆け上がる。
「つ、冷た……痛い、痛いッ!!」
ギルが悲鳴を上げた。
恐怖の悲鳴。
訳の分からない激痛に対する、パニックの絶叫。
「放せ! 放してくれぇッ!」
「無理やり引くな! 皮が剥けるぞ!」
俺は慌てて、右手の剣を背中に回し、体温を少しでも下げるように意識を集中した。
冷気を抑えろ。
吸うな。
こいつは敵じゃない。
こいつの熱を奪うな。
しかし、剣は言うことを聞かない。
『熱だ』『熱をよこせ』と、飢えた獣のようにギルの体温を貪ろうとする。
「くそっ……この馬鹿剣が!」
俺は、ギルの手首を右手で掴んだ。
俺の手も冷たいが、肩よりはマシだ。
無理やり引き剥がすしかない。
「ごめん、ギル。ちょっと痛いぞ」
「ひぃッ!?」
ベリッ!!
嫌な音がした。
ガムテープを勢いよく剥がすような音。
ギルの手が、俺の肩から離れた。
勢いで、ギルは尻餅をつく。
「あ、あぁ……」
ギルは、自分の手を押さえてうずくまった。
掌の皮が剥け、赤黒い肉が見えている。
そこから血が滲んでいるが、その血さえもシャーベット状に凍りついていた。
「手、が……俺の手が……」
ギルは、ガタガタと震えながら、自分の手を見つめていた。
そして、恐る恐る顔を上げ、俺を見た。
その目。
そこにあったのは、もう「親友を見る目」ではなかった。
恐怖。
畏怖。
そして、得体の知れない化け物に対する、生理的な嫌悪。
さっき、アパートの住人たちが、石化したレオに向けた目と同じ。
「異物」を見る目だ。
「お前……」
ギルの唇が、青ざめて震えている。
歯の根が合わず、カチカチと音を立てる。
「なんだよ、それ……」
「人間じゃ、ない……冷たすぎる……」
「お前、本当に……ニルス、なのか?」
その問いかけが、俺の胸に冷たい風穴を開けた。
本当にニルスなのか?
ああ、いい質問だ。
俺も、自分自身にそう問いかけたい気分だよ。
姿形はニルスだ。
記憶もある。
でも、中身は?
弟を殺して、その命を対価に悪魔と契約して、体温を失ったこの身体は、果たして「人間」と呼べるのか?
俺は、否定できなかった。
ギルの恐怖は、正しい。
俺はもう、お前たちの隣人じゃない。
同じ焚き火で暖を取り、同じスープを分け合うことはできない。
俺がそばにいれば、お前は凍える。
俺が触れれば、お前は傷つく。
(ああ、そうか)
俺は、理解してしまった。
唐突に、そして静かに、ストンと腑に落ちた。
俺の帰る場所なんて、もうどこにもないんだ。
この部屋も。
この街も。
ギルという友人も。
すべては「過去」のものになってしまった。
俺は、一線を越えたのだ。
深層の泥に沈んだ瞬間に、俺の日常は死んだのだ。
「……ごめんな、ギル」
俺は、静かに言った。
弁解はしなかった。
「魔剣のせいだ」とか「ワームと戦ったからだ」とか、そんな説明をしたところで、この恐怖は消えない。
「ちょっと、外で涼んできたんだ」
下手な冗談を口にした。
ギルは笑わなかった。
ただ、床を這うようにして後ずさり、部屋の隅へと逃げていく。
「ひっ……来るな……来ないでくれ……」
「行かないよ」
俺は、その場から動かなかった。
動けなかった。
これ以上近づけば、決定的な何かが壊れてしまう気がしたから。
沈黙が落ちた。
部屋の中なのに、外よりも寒い。
俺の足元から広がる霜が、床板を白く染めていく音だけが、ピキピキと響いていた。
俺は、左肩の肉塊を床に下ろした。
ドサッ、と重い音がする。
「腹、減ってるだろ?」
俺は言った。
努めて、いつもの声で。
「肉だ。ちょっと硬いけど、焼けば食える」
「……え?」
ギルが、怯えた目で肉を見る。
赤黒く、緑色の体液が混じった、気味の悪い肉塊。
普通の動物の肉じゃないことは、一目で分かる。
「なんの、肉だよ……それ」
「アビス・ワーム。……下水道のネズミよりは、栄養あるはずだ」
「ワーム……? 化け物じゃないか……」
ギルが口元を押さえる。
吐き気を催しているようだ。
当然だ。
魔獣の肉なんて、毒だと思われている。
まともな人間が食うものじゃない。
「食えるよ」
俺は、肉の塊を蹴った。
「俺は、食ってきた。……食わなきゃ、生きて帰れなかった」
「お前……それを食って、そんな身体に……?」
ギルの目に、憐れみが混じった。
魔獣の肉を食って、呪われて、こんな氷の身体になってしまったと解釈したらしい。
半分正解で、半分間違いだ。
でも、訂正する気はなかった。
「……火、貸してくれよ」
俺は、部屋の中央にあるドラム缶を指差した。
中には、わずかばかりの廃材が燃え残っている。
「俺がやると、消えちまうんだ」
俺の手では、マッチを擦ることすらできない。
火を近づければ、熱を奪って消してしまう。
今の俺は、火にとっての天敵だ。
ギルは、震えながら立ち上がった。
俺から距離を取りつつ、ドラム缶に近づく。
そして、ポケットからマッチを取り出し、震える手で火をつけた。
ボッ。
小さな炎が灯る。
オレンジ色の、温かい光。
それが、今の俺には眩しく、そして遠いものに見えた。
「……ありがとな」
俺は、ナイフを取り出した。
肉を切り分ける。
分厚いステーキのような塊を、ドラム缶の上の網に乗せる。
ジュウウウウッ……!
脂が落ちて、火が爆ぜる。
香ばしい匂いと、鼻をつくような魔力の刺激臭が混ざり合い、狭い部屋に充満する。
俺たちの「最後の晩餐」が始まった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
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