刑事
文也は震える手で警察に電話した。
スマホを強く耳に当て、コールを待っている間
『あいつが母さんを刺すなんて』
その言葉が、何度も文也の頭の中をグルグル走り回っている。
何度目かのコールの後、落ち着いた男性の声が聞こえて来た。
「はい!どうしました?事件ですか?事故ですか?」
「母が……母が刺されました」
「あなたは、刺された方の息子さんですか?お母さんは、誰に刺されたんですか?」
男性は終始落ち着いた声で、淡々と質問して来る。
その声に文也は少しずつ、落ち着きを取り戻していた。
「内縁の夫にです」
「救急車は呼ばれましたか?」
文也はその時初めて救急車を呼ぶ事を思い出した。
「あっ、救急車!」
「大丈夫ですよ。こちらで手配します」
その言葉を聞いて、文也はその場にへたり込んだ。
重蔵は血の付いた包丁を持ったまま、みるみる広がる血の床に倒れてる敏子を見下ろしていた。
敏子は微かにピクピクと痙攣している。
遠くで聞こえるパトカーのサイレンが、徐々に大きくなる。
その後ろから、救急車のサイレンも聞こえて来た。
一気に家の外が騒がしくなった。
文也は立ち上がり玄関の鍵を開けた。
扉を開けた文也は、パトカーの多さに絶句した。
重蔵は敏子の血で真っ赤に濡れているシャツのまま、手錠を掛けられパトカーに乗せられて行った。
文也は敏子に付き添い、救急車に乗り込んだ。
病院に着くなり敏子は手術室に入れられた。
文也は1人手術室の前の椅子に座り、時間の過ぎるのを待った。
敏子が目の前で刺された事は、文也にとって衝撃ではあったが、しかし、無事を祈る気持ちにはなっていなかった。
以前の様に、守らなきゃならない使命感は、もう湧いて来ないみたいだ。
ぼんやり敏子の入った手術室を眺めていると、重蔵の言った『奴が目を覚ますぞ!』と言う言葉を思い出していた。
どう言う意味だろう……奴って?
母さん、何であんなに慌ててたんだ?
「疲れたなぁ……」
溜息と共に漏れた。
一瞬、瞼が重くなる。
「石上文也さんですか?」
ギョッとして声の方へ振り向いた。
ワックスでカチカチに固めた頭の、40代位の男性が、警察手帳を翳しながら近寄って来た。その後ろには、対照的にサラサラっとした髪の、20代そこそこに見える男性が、お辞儀をしながら付いて来る。
「今回の件の事で……状況を詳しく教えて頂きたいんですがね」
40代のベテランらしき男は手帳をしまいながら、終始ニコニコしているが、文也はその笑顔の裏に逆の意味が有るのを感じていた。
「いやね。調べてみたら、3回目だって話しじゃないですか。前にも2人亡くなってますよねぇ、あの家で」
言葉は丁寧だがどこか嫌味っぽく、長年の垢が染み付いているのか、あからさまに疑いの目を向けているのが分かる。
「確かに、以前病気で亡くなった者がいますが……その前の件は、わたしは、まだあの家には居ませんし……事故だったと聞いてます」
「そうそう!その病気で亡くなった方、あなたの前の奥さんでしたよねー。随分と年上の……」
そう言ったベテラン刑事の顔は、笑顔と言うよりニヤついていた。
文也にはこのベテラン刑事の、仁絵の件を蒸し返そうとしている言葉の意図が読み取れた。
「今回の事聞きたかったんじゃないんですか?」
腹立たしさで思わずつっけんどうになる。
「ああ、すいません。思わず話が横に逸れちゃいました。勿論今回の状況の説明なんですがね。これから警察署の方でお願い出来ますか?」
文也の反応にも、ニヤ付きを辞めないベテラン刑事。
若手の刑事は、ただ無表情のままベテラン刑事の後ろに立っている。
「はぁー!母は今、生死の堺を彷徨ってるんですよ!」
抑えきれずに文也は大声を上げた。
「静かにして下さいよ。病院に迷惑になりますから」
ベテラン刑事はニヤケながら、シーと人差し指を口の前に立てた。
その仕草に、文也は余計苛ついた。
「任意ですからね。断って頂いても良いんですよ。ただね……話せない理由を、こちらも調べないといけなくなってしまうんですよ……どうします?」
ベテラン刑事の目は、完全に文也を見下している。
嫌な奴!嫌な奴!!なんなんだこいつ!
最初から喧嘩腰で、疑う気満々じゃないか!
「日下さん!いい加減にして下さい!さっきから失礼じゃないですか」
突然、若手刑事の苛立ちを抑えつつ、冷静に繕った声が遮った。
この日下の失礼な態度に、自分の他にも苛立ちを感じた人間がいたとは、文也は思いも寄らず驚いた。
単純だが、若手刑事に親近感が湧いた。
「久我警部!……へへ……」
日下は叱られた子供みたいに、カチカチの頭を撫でながら、上目遣いに久我を見た。
「さん?警部?……ぷっ!」
文也は思わず吹き出した。
日下は文也を振り返り睨み付けた。
ははん……なーんだ!こっちの若手の方が上司か?
久我は日下を制して文也の目の前に立った。
「失礼しました。是非ご協力お願いしたいのですが…御心配でしょうから、今日のところはこちらで少しお伺い出来れば……詳しい事はまた明日にでも、署の方にいらして頂く事になるかと……」
静かに落ち着いた声で話すと、丁寧に頭を下げた。
その態度に文也も恐縮し、思わず頭を下げた。
「では、事件が起こる前の状況を教えて頂けますか?」
文也は久我を前に、素直に話し始めた。
昨夜はリビングで、いつの間にか寝てしまってて……
朝の8時過ぎ頃に、母の喚き声で目が覚めたんです。
寝坊したとかで、ヒステリックに重蔵さんをせっついてました。
だけど、なんだか母の焦りとは裏腹に、重蔵さんはダイニングの椅子に座ったまま動こうとしなかった。
母のヒステリーは日常茶飯事だけど、重蔵さんが母に逆らうなんて事今迄1度も無かったから…今朝は特別機嫌が悪かったのか?日頃の鬱憤が噴出してしまったのか?何があったか分からないが、重蔵さんの様子は、いつもと違ってた。
自分は仲裁のつもりで声を掛けたけど、返って母を刺激したみたいて、母の苛立ちは治るどころか、余計に拍車を掛けてしまった。そして、怒りの矛先を俺に向けて来た。
母が俺を罵倒し始めた時、突然重蔵さんが大声で叫んだんだ。
『急がないと奴が目を覚ますぞ!』って……
その声に母は血相を変え、取るものも取り敢えず1人で玄関に向かって走り出した。
それを重蔵さんが追い掛け、後ろから刺した……
暫く俺は、何が起きてるのか分からなくて、呆然としてるしかなかった。
「ああん!その奴ってのは誰なんだ!」
日下は眉間に皺を寄せ、文也を睨み付けながらぶっきら棒に尋ねた。
「知らないね!言った本人に聞いてくれ!」
文也は負けじと日下に嫌悪を向けた。
「日下さん!少し黙ってて頂けますか?」
常に威圧的な態度で攻める日下の古臭いやり方に、賛同出来ない久我は苛立ちを見せた。
「チッ!」
日下は不貞腐れて横を向いた。
文也は、日下の態度を横目に『子供か!』と声に出さずに罵倒した。
一体この親爺は、俺を威嚇して何の手柄を取るつもりでいるんだ?
俺を疑ってるのか?……それとも仁絵の話しを蒸し返そうってのか?
うざい奴!
その時、久我の携帯が鳴った。
久我は『失礼!』と言って、その場を離れた所で電話に出た。
久我が留守の間、日下は腹の虫が収まらないのか、心の声を口に出していた。
「まったく!実績もねー若僧が!偉っそうに何様のつもりだ。ちっとばかり頭が良くて良い大学出たからって、実績積んでる人間に叶うとでも思ってんのか!甘いんだよ」
日下の愚痴は小声ではあるが、少し離れた文也にも充分聞こえていた。
そして、得意気に話す日下のすぐ後には、早々に電話を切ったらしい久我が、能面の様な顔で立っていた。




