事件
文也はリビングのソファーに座っていた。
ぼんやり壁に掛けられている時計の秒針の音を聞いていた。普段は気にならないが、こう静かだとやけに大きくはっきり聞こえる。
帰宅した時、既に敏子と重蔵の姿はリビングには無かった。
かれこれ2時間くらいこうしているだろうか?
病院近くの店で、あいつ等が最後に言ってた話が気になって、寝室に行っても眠れそうに無い事を文也は確信していた。
このままここで朝を待つか?そう決めてみると、やけに時間が過ぎるのがゆっくりでもどかしさを感じていた。
そう言えば、小さい頃よく行っていた商店街。あいつ等の話によると、あれは母さんじゃ無くて、婆さんだったって……婆さん?……
確かにあの頃の俺はしあわせだった。
優しさや愛情に包まれてて、いつも笑ってた。
いつから変わってしまったんだろうって……
ずっと、元の母さんに戻って欲しくて、頑張ってたのに……人違いだったのか……
婆さん?……婆ちゃん、婆ちゃん……
「重蔵!何してんだい!時間が無いよ!」
いきなり敏子のキンキン声が家中に響いた。
文也はソファーの上で目が覚めた。
いつの間にか眠っていた……
「朝飯食ってねーだろうよ」
重蔵は、ダイニングの椅子に座ったま動かない。
「朝飯なんか外で食ったらいいだろうよ!」
敏子がイライラと重蔵を急き立てる。
「店なんかまだ何処もやってねーだろう!だいたいおめーが寝過ごしたんじゃねーか!俺が悪いみたいに言うな!」
敏子のキンキン声に腹を立てたのか、重蔵は頑なに椅子を立とうとしない。
「時間が無いって言ってんだろうが!」
敏子は益々甲高い声で喚いた。
「時間が無いのは、お前だけの問題だ。俺には関係ねー。だいたい毎日毎日連れ回されて、迷惑なんだよ!いい加減勘弁してくれよ」
敏子のヒステリーにも、もろともせず重蔵は机に肘をついて不満を垂れ流した。
敏子は血走った目を見開いて、重蔵を睨み付けている。
珍しく敏子に逆らう重蔵。重蔵なりに日頃の鬱憤が溜まっていたのか、一切引く様子は無く長引く気配に、文也は見兼ねて2人の仲裁に入ろうと、廊下を挟んだダイニングに顔を出した。
「母さん!どうしたの?時間が無いって何かあるの?俺今日休みだから車で送ろうか?」
敏子と重蔵は同時に振り返り、大きく見開いた目を文也に向けた。2人は文也が居る事に、今気付いた様子。
その様子に文也も一瞬たじろいたが、視線を逸らすと、何でも無い振りをした。
「何怠けてんだい!仕事がなきゃアルバイトでも何でも探して働きな!」
敏子は的を重蔵から文也に変えた。
不思議と自分に向けられた敏子のキンキン声に、以前の様な恐怖や絶望感を感じなかった。
遠くで喚いている猿の声の様に、滑稽に聞こえた。
その瞬間文也の中で、何かが解けた。
今迄大切にしていた物が、偽物だった事に悲しみや失望は無い。元々、文也自身にも違和感はあった。
逆に守る必要が無くなった開放感が、文也を後押しした。
「ねぇ!俺にお婆さんって居たの?」
「!……」
文也が発した思いがけない言葉に、敏子の顔は引き攣ったまま、文也を睨み付けている。
「あと……仁絵の爺さんて、母さんの父親なの?」
「‼︎……」
敏子の顔は益々引き攣り、石か?と思う程固まっている。
最早土気色!
「どうなのさ?」
「な、なんなんだい!そんな話誰に?」
敏子はやっとの思いで言葉を返した。
「誰に?誰にって事は本当なんだ!どっちが?
どっちも?どっちも本当なの?」
「お前、お前なんなんだよ!誰に口聞いてるんだい‼︎」
初めて見せる文也の物怖じしない態度に、戸惑いと苛つきを感じながら、敏子は必死に自分を取り戻した。
「お婆さんは……何故死んだの?」
「ふん!お前が1番良く知ってるだろう。最後に一緒に居たんだから」
敏子は意味あり気に笑った。
「何も覚えて無いんだ」
「へー、覚えて無いのかい?よっぽどショックだったんだねぇ。大好きな婆さんが目の前で殺されて」
敏子は堪えきれずに下品に笑った。
「殺された⁈……あんたが殺したのか?」
「あたし?あたしじゃ無いよ!あたしじゃ無いけど、元々大っ嫌いだったからね、あの婆さん!説教ばっかり垂れやがって、死んで清々したよ」
「自分の親だろが⁈」
慣れてはいるがこの情の無い言葉に、何故今迄縋り付いていたのか、文也は自分に呆れて腹が立った。
「はぁー?誰が?冗談よしてくれよ!あんな女、母親なんかじゃ無いよ!ふーん、知らなかったんだ」
敏子は眉間の皺をより深く寄せて、手振りを交えて馬鹿にした目で文也を見上げた。
「妹だよ!母親の」
「妹?」
初めて聞く母親の生い立ちに、文也は戸惑いながらも、感動もしていた。
「母親もあの女の事は、本当煙たがってたよ!ま、この母親ってのが自由奔放な女でかなりの問題有りの人だったけど……あたしを産んでは見たものの育てられなくて、妹のあの女に押し付けたんだ」
文也は黙って敏子の話を聞いた。
「お陰で窮屈な子供時代を過ごしたもんだ。
母親はと言えば、色んな男の所に転がり込んじゃ、捨てられて戻って来るを繰り返してた。そんな母親を、あの女はいっつも説教するんだ。ぶちぶちぶちぶち、ぶちぶちぶちぶちずっーと!そうすると、母親は絶叫して出て行ってしまう。折角帰って来た母親をそうやってあの女は追い出すんだ」
「それで……お婆さんを恨んでるの?」
文也は首を傾げた。
「ふん!あたしは、自由に生きる母親の生き方が好きだったのさ。母親はあたしに、父親の話を沢山聞かせた。有り余る財力、誰もが平伏す権力。望めばこの世の全てが手に入る。金さえ有れば何でも出来るんだって……まー母親の話は大分違ってた。だけど、そんな話を聞くのが楽しかったのさ」
そう言って敏子は鼻で笑った。
「おらー!急がねぇーと、奴が目を覚ますぞ!」
突然重蔵が大声で怒鳴った。
「奴?」
文也は重蔵の大声に驚き振り返った。
敏子が我に返り時計を見ると、その表情は一瞬で青ざめた。
「お前のせいで……」
そう言って敏子は、取るものも取り敢えず玄関に向かって走り出した瞬間、おもむろに立ち上がった重蔵が後ろから敏子に体当たりした。
敏子は引き攣った顔で重蔵を振り返る。
文也は2人の異様な雰囲気に不安を感じた。
ふと、敏子の足元の赤い物に目を惹かれる。点々と赤い何かが何処からか落ちてくる。その点は見る見る増えて行き足元いっぱいになると、やがて1つの大きな水溜りになった。
「母……さん?」
文也が漸く事態を把握した時、敏子はその場に崩れ落ちた。




