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十年前。
坂本真矢は、まだ一ノ瀬警備保障の社員ではなかった。そのころの彼女は、政府関係機関のエージェントであり、武装企業とは無縁の立場にあった。
当時の彼女に与えられていた仕事は、ある薬物の捜索。およびその輸入ルートの特定、排除だった。そしてその薬物こそが、『ディスオーダー』と呼ばれるものだった。
無秩序。
それは、当時世界各国の戦場で跋扈していた電脳薬物だった。
その効能は、人間の身体感覚を逆転させるというもの。特に、生身と義体の感覚需要システムを反転させることで、脳に義体を生身のように錯覚させる。そのような錯誤によって、軍用義体と電脳との親和性、または外装義体との親和性を劇的に、短時間で向上させる。短期間で義体化兵を訓練することが出来るのだ。
そのクスリに、世界中の武装組織、テロリストが飛びついた。
そして、もちろん日本警察もディスオーダーをにらんでいた。テロリストがそれを持てば、容易に兵士を増産することが出来るのだ。それだけで十分な脅威になる。
当時坂本がディスオーダーを追っていた理由は、もはや言うまでもない。
公安外事課外事技術調査室――ヤマ機関が、ディスオーダーの日本への流出を察知したからだった。
いまや政府警察組織の多くが形骸化してしまっているが、例外の一つとして公安警察、とくに外事警察がある。国家機密に関わる、いわばスパイ組織である外事は、さすがに完全に民間委託することは出来ないと政府も考えていた。
十年前、坂本はヤマ機関が傍受した情報をもとに、その調査に当たっていた。彼らが得た情報によれば、予測されるディスオーダーの進入経路は二つ。
一つ。香港マフィアを通じて、さらにヤクザを通じ、国内の過激派組織へと渡った。
二つ。ルートは同じながら、その行き先として武装組織の兵士育成用ではなく、バイオテロ目的で頒布された場合。
この二つだった。
もしどちらかが現実に起きているのならば、より面倒なのは後者である。ディスオーダーは、その製造主が価格保持の為に高度なプロテクトを何重にもかけ、コピー・アップロードの一切が不可能なように出来ているという。電脳ドラッグとは、一種の電気信号である。そのプログラムコードさえわかってしまえば、材料さえ有れば誰でも作れてしまう。遠い異国の死の商人は、そこまで考えていた。
しかし、ヤマ機関が言うには、そのプロテクトが外されたかもしれないと言うのだ。であれば、一般的な電脳薬品に擬装して、正規ルートに混入させるようなこともやぶさかではない。事実上のバイオテロである。
そして坂本は、ある情報を一つ得ていた。
都内にある総合病院で、ディスオーダーのような病状に陥った患者がいる、という話だった。
練馬区にある彩山堂大学付属病院。そこに重病患者として搬送された後、植物状態にまでなった少女がいた。
少女の名は、妹尾ヒカリ。十五歳で電脳化手術を受けたばかりの彼女は、手術より一月後、肉体と精神の不一致を訴え始めた。両親はすぐに病院へ連れて行き診察を受けさせたが、原因は分からず。そこで大学病院まで紹介状を書いてもらい、検査入院という運びになった。
悲劇が起きたのは、入院から一月後のことだった。ある夜、見回りに当たっていた看護師の一人がうめき声のようなものを聞いて、ヒカリの病室に入った。
そのとき看護師が目にしたのは、杭のような尖った木で、自身の両足を貫くヒカリの姿だった。杭は太ももを貫通し、両足の筋肉を駄目にしていた。それもすべて、心身の不一致が引き起こした自傷行為だった。
すぐに彼女は緊急手術を施されたが、両足は戻らなかった。義足を使えばカラダはもとに戻るが、親に義体を買い与えるような金はなく。しかも彼女が発狂した原因も分からず。すべては有耶無耶にされた。
そしてある日、ついにヒカリは病室から飛び降りた。二階からだったから良かったものの、彼女はカラダをひどく痛めた。以来、医師のはからいで彼女の運動神経はカットアウトされ、不随意筋を残してすべての筋肉が休眠。植物人間となったという。それも、すべて彼女のためだった。
坂本が病室に訪れると、そこには両手両足を縛られた少女が横たわっていた。真っ白い寝台とは相反する、漆黒のベルトにヒカリのカラダは押さえつけられている。彼女の両足は、膝から下が無かった。
「今は麻酔が効いています。向こう四十八時間は目覚めることはありません」
そう言ったのは、担当医の桜井瞭吾だった。
桜井春香の夫であり、桜井咲の父親でもある。桜井一家と坂本が出会ったのは、まさしくこの事件からだった。
桜井は白衣を翻しながら、ヒカリの額に触れた。熱も無いようで、カラダ自体に問題は無いらしい。
「彼女がこうなったのは、いつからです?」と坂本。
「わかりません。いかんせん、電脳にそれらしい異常は見あたりませんでした。ただ、肉体に対して強い拒絶反応を起こしているみたいなんです。まるで義肢に対する幻肢痛のように」
「そのような副作用が出るような薬を使用したことは?」
「まさか。私はあくまでも、彼女の病状を押さえつけるために電脳の調整を行っただけです。クスリはいくつか投与しましたが、どれも整脳剤です」
「使用した薬品のリストと、院内にあるその薬の在庫を見せてもらえませんか?」
「かまいませんが……薬に問題があったと? うちの医療ミスだとでも? 坂本さん、あなたは警察の方ですよね」
「ええ、そうです。すべて、見させてください」
「理由が無いことにはムリです。令状はあるんですか?」
「後日、取得します。いまからでもかまいませんが」
言って、坂本はすぐに裁判所の審議官の補助義脳にアクセスした。捜査内容を述べずとも、勝手に令状の書式が送られてきた。彼女の捜査は、すべて警察庁、ひいては国家公安委員会より保証されていた。国の危急存亡に関わる重大事項として。
坂本はすぐにその令状データを拡張現実表示し、桜井医師にも見えるように示した。しかし、そこにはディスオーダーについては書かれていない。ディスオーダーの存在は、最重要機密である。
「これでよろしいでしょうか」
「わかりましたよ。カルテデータを送ります。あとは一階の薬剤師に聞けば、在庫はすべて見せてもらえるはずです」
「ありがとうございます」
坂本は一言礼を言うと、送付されてきたカルテデータをコピー。妹尾ヒカリに投与された薬一覧を問い合わせ、メモした。
犯人が逮捕されたのは、それから一ヶ月後のことだった。
坂本が睨んだ彩山堂病院はクロであり、付属薬局にあった整脳剤の在庫からディスオーダーを含んだ薬品が発見された。
薬が見つかってから、すぐに混入させたと思しき薬剤師が自供した。鹿島というその薬剤師は、学生時代に交友関係にあったネオ・ラッダイトの構成員に脅迫され、犯行に及んだとのことだった。
それから警察庁は、ネオ・ラッダイトの構成員を芋蔓式に逮捕。一連の事件は、政府警察のお手柄として片づけられた。
しかし、もちろん犠牲なしでの解決が出来たはずが無かった。ディスオーダーを投与された者は、約五十人。そのうち、強烈な心身の不一致から障害を負ったのが十人。電脳疾患の末、志望したのが一名。死んだのは、妹尾ヒカリだった。
ヒカリは、犯人逮捕の一週間前に、中庭に飛び降りて死んでいるのが発見された。誰が彼女の拘束を解いたのか、あるいは彼女がムリに拘束具を解いたのか。それはわからない。しかし、死者が出たことに代わりは無かった。
大半の患者は、ワクチン投与が間に合い、大事は至らなかった。しかしそれでも、六人のヒトの人生が、この事件によって無茶苦茶にされた。
彩山堂病院は、鹿島を解雇。当時の院長も、責任を取って辞職した。それでも、世間からの非難がやむことは無かった。民衆が次のスキャンダルに目を向ける、そのときまで。




