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そのころ坂本真矢はタクシーに乗り込み、世田谷区は成城へ向かっていた。
成城と言えば、古くからの高級住宅街である。いまもその雰囲気は変わっておらず、ひとたび街に入ると、現実にも虚構にも文字通り閑静な住宅街が広がる。新宿や渋谷というような繁華街と違い、強制の拡張現実広告が視界に飛び込んでくることもない。
タクシーも、国産の義脳を使ったハイヤーだ。まったくこの街は何をするにも金がかかる。
坂本は、そんな自分には似合わない街に居心地の悪さを感じながら、電脳の中では通信を続けていた。相手はもちろん彼女の部下たちだ。
《ごめんねー、勝手に飛び出しちゃってさ。ちょっちプライベートなことでさ》
《プライベートって、なにがあったんですか?》
呉石は追求してきた。
坂本は少しガッカリしたように肩を落とす。
《だからそれがプライヴェートなことなのよー。昔の知り合いから仕事を頼まれちゃってね。それが警察庁経由の正式な依頼じゃなくって、個人的な頼まれごとなのよ。まあ、事件性は無きにしもあらずなんだけどさ。でも早いうちから警察企業を動かすのもどうか、ってのがクライアントの意向でね。てなわけで、私はちょっち抜けるから。みんなは通常業務でよろしくね》
《あ、ちょっと! 部長!》
呉石が何か言おうとしていたが、彼女は迷わず通話を切った。
それから何度か着信があったが、彼女はそれをすべて無視した。これから訪れる場所は、一之瀬の社員には関係ないからだ。
やがてタクシーは、クリーム色の塀に囲われた豪邸の前に停車した。邸には、AR表示で「桜井」と表札が出ている。
坂本は支払いを済ませるとタクシーを降り、桜井邸へと向かった。センサーが反応し、義脳がセキュリティを起動。しかしまもなく、門に備えられたカメラが坂本を認識。彼女が来客であると判断すると、重厚な鉄の門を開かせた。
坂本は、桜井邸へと一歩踏み出した。
「お久しぶりです。お変わりないですか?」
セキュリティに導かれて玄関まで来たところで、坂本を出迎えたのは一人の女性だった。
桜井家の奥方、桜井春香。坂本と彼女は、十年前に知り合った。それも、最悪の形で。
坂本がここに来るのは十年ぶりのことだ。十年前、桜井家は『ある事件』に巻き込まれ、最悪の状況に陥った。にもかかわらず、当時桜井は笑顔で坂本を出迎えた。そして今日もまた、桜井春香は最悪な状況にあるにも関わらず、笑顔で迎え入れた。十年前と同じ。桜井は、状況が悪ければ悪いほど、虚勢を張って笑顔になる。
代々続く資産家の家庭に生まれた、いかにも貴婦人という雰囲気を持った桜井婦人。黒くたおやかな髪と切れ長の細い目が特徴的な彼女は、昼行灯の警官を広大な屋敷へと招き入れた。
「どうもどうも」と坂本は下足を脱ぎながら、「ほら、私は十年前と全然変わってないでしょ? これも抗齢処置技術発達の賜物ですねー。それより、そちらはかなり問題があるみたいですけど。単刀直入ですが、うかがってもよろしいでしょうか?」
「ええ、大丈夫です。どうぞこちらへ」
言って、彼女は坂本を部屋の奥へと招き入れた。豪邸の奥からは、消毒剤のツンとした匂いが漂ってきていた。
三階まである桜井邸だが、その一階にはリビングとキッチン、それからバスルームと洋間が三つほどある。坂本が案内されたのは、奥にある洋間だった。
そこはもともと客間だった。しかし、今ではまったく違う部屋になっている。鼻につく消毒剤の匂い。漂うのは、薬とアロマが混ざり合う、過保護の香りだ。真綿で締め付けられるような匂い。
洋間には、全自動の寝台が置かれていた。その上には高校生ぐらいの少女が仰向けになって眠っている。彼女はタオルケットだけ羽織って、静かに寝息を立てていた。
しかし、彼女がふつうの少女と違った。その手足を見れば分かる。
一見して、境目無く続いているように見える脚。その健脚は、しかしよく見ると生身の脚には見られないディティールがあった。くるぶしや、太股、ふくらはぎにプックリと浮いた痕。人工筋肉が入れ込まれ、さらに太股のなかほどでネジ止めされたような痕も見える。言うまでもない、彼女は義足だ。
そしてもう一点、彼女の外見で目を奪われるものがあった。腕だ。生身の両腕には、爪か何かでかきむしったような赤い痕があり、ところどころ出血の痕もあった。
「一ヶ月ほど前からです」桜井婦人が言った。「娘が――咲が、自傷行為を始めたんです。何度か病院にも行かせました。だけど、電脳に異常は見られないとのことで……。咲は、自分のカラダが他人のように思えると言うんです。でも……」
「咲ちゃんが脚を失ったのは、十年前でしたよね。たしか、義足を着ける際に、一緒に電脳化でしたね。拒絶反応も低くて、いまでは驚くほど安定しているって聞いてたんですけど」
「はい。その通りです。咲は、昨年の高校陸上義足部門でインターハイに出場するほど適正がありました。大学でも陸上を続けて、四年後のヨハネスブルグ・オリンピックに出るのが夢だって。そういつも言ってました。でも……。
実は、咲が拒絶反応を起こしたのは、義足じゃないんです。生身のカラダのほうなんです。咲は、自分の生身の部分が、自分のカラダのように思えないと言い始めたんです。いまはこうして、電脳に鎮静剤を投与して拘束することで、症状を抑えています。ですが薬が切れると……咲は、自分を殺そうとし始めるんです」
「原因に心当たりは?」
「わかりません。ですが坂本さん、私にはこれが十年前の再現にしか思えないんです。まだ覚えてますよね、あの事件」
「……ディスオーダー、ですか」
坂本は低くつぶやき、拘束された少女を見下ろした。
安らかに眠るショートカットの少女。そのつぶらな瞳は、とても穏やかな夢を見ているように見える。しかし腕を見れば、そんな幻想はすぐに醒めた。




