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一之瀬のオフィスビルまで戻ってくると、さすがに恭介の身に起きていた異変も収まってきた。しかし、それでも胸の奥に何かがつかえるような気持ち悪さはあった。喉奥に出掛かった言霊だろうか。それが詰まったまま、なかなか外へ出てこない。魚の骨でもつっかえたみたいな違和感が、さきほどからずっと続いていた。
こんな状況では仕事もやっていられないと、恭介はビルの屋上に出て外の空気を吸うことにした。といっても、外の空気も別段きれいなものでは無かった。
一之瀬のオフィスビルは、あくまでも二階と地下を間借りしているという形にある。もともとこのビルは、一之瀬社の社長が持ちビルだったというが、いまは他の不動産会社に権利は委譲されている。一階は保険会社のオフィスだし、三階はテナント募集中。四階はどこかの商社の倉庫になっているらしい。
そして四階をあがっていくと、屋上にたどり着く。屋上階は誰も持ち物でもないが、しかし誰もすすんでくるような場所でもない。そのせいで、コンクリート打ちっ放しの床には、ところどころ雑草が生い茂っていた。コンクリの隙間からめげずに草葉を伸ばそうとする姿は、健気ともいえるし、図々しいとも言える。
恭介は欄干に両手をついて、給湯室で入れてきたコーヒーを飲んだ。インスタントだが、豆の量が少なかったのだろう。ミルクの味しかしなかった。彼はそのまずいコーヒーを飲みながら、ぼんやりと空を見上げた。
先ほどから続いている痺れや違和感といった症状の原因。それは、恭介自身が一番よく知っていた。兄の存在という、心的外傷だ。
〈Recall : Kyosuke Kuroda〉
いまだに恭介は、小学生のときに兄に言われた一言を覚えている。当時響也は、私立進学校の付属中学の三年生で、すでにその後は高校から東大法学部、警察庁という道筋が決まっていた。
一方でそのころ、恭介は小学校卒業を控え、電脳化手術の解禁年齢にさしかかっていた。そして彼はその年、自分が障害者であるのだと知ったのだ。電脳化手術に対して肉体が強い拒否反応を起こす、先天性電脳施術拒否症候群であるのだ、と。
それが判明したとき、一家が総出で大慌てになったことを恭介は覚えている。当時、官房審議官であった祖父は、医師に何度も迫ったという。
「どうにかして治せんのか?」
しかし、医師は黙って首を横に振っただけだった。
父も母も、どこか憐れむような目で恭介を見ていた。祖父は憐れみを越えて怒りにまでなっていた。どうして? なぜよりにもよって自分の孫が?
しかし、そんな怒りをどこにぶつけようとも、現実は変わりはしない。恭介は先天的な難病であり、それは今後彼の人生に障害となって押し寄せる。警察官僚でも、現在の法整備前の人間なら電脳化をしていない人間もいるが、しかし今の捜査の現場は電脳化による情報共有が前提条件とされている。犯罪者がそこまで高度に発達しているのだから、警察もそうせざるを得ないのだ。
だが、この子にはそれができない。黒田家の息子であるのに……。
言いようもない憐憫だけがこみ上げるなか、しかし黒田響也だけは違っていた。彼だけは、同じ血縁者であるにも関わらず、妙に冷静な態度をとったままでいたのだ。
病が発覚した翌々日のことだった。恭介は再三に渡る検査を命じられ、学校はすでに三日近く休んでいた。
何度検査しようと、結果は同じ。医師は、無理に電脳化をすれば命が危ういと警告した。しかし、祖父は譲らなかった。
「この子は、私の孫だ。今後日本の将来を担う子供なんだぞ。何かの間違いのはずだ!」
医師との口論は日暮れまで続いたという。
しかし結局は、祖父のほうが先に折れた。正確に言えば、頭に血が上りすぎたせいで、祖父のほうが体調を崩したのだ。恭介が病院にきていたはずなのに、いつのまにか祖父が入院することになっていた。
そうして恭介は検査を終えたあと、祖父の部下が用意したクルマに乗せられて自宅まで帰った。父母は、祖父の看病があるからと病院に残った。すなわち、そのとき自宅にいたのは、響也と恭介だけだったのだ。
恭介が自宅に帰ると、響也は庭の縁側で本を読んでいた。彼が読んでいたのは、岩波文庫のフォークナー短編集だった。響也は庭木の合間から流れてくる風にあたりながら、クリーム色の紙をペラペラと繰っていた。紙媒体は衰退しつつあるメディアだったが、一部マニアのためにまだ需要はあった。響也はリスクとベネフィットを秤にかけて、より良いモノのみを選択する合理主義者だったが、この点ではロマンチストだった。それはおそらく、祖父譲りだろう。
庭は祖父の趣味だった。官房審議官まで上り詰めた祖父だが、いまはもう庭の手入れという趣味にしか興味を失っている。上り詰めるまで上り詰めたら、あとはもうやることもないのだろう。彼は専属の庭師を雇っては、やたらめったら木を植えたり切ったりしていた。見た目は美しい日本庭園だったが、そこかしこに増改築のあとが見えた。
「おかえり」
とそんな庭の縁側から、冷めた口調で響也が言った。
「……ただいま」
恭介は小声で言って、庭を抜けようとした。玄関は、庭を進んだ先にある。
病が発覚してから数日間、恭介と響也はまったく言葉を交わしていなかった。恭介が意図的に響也を避けていたのだ。どうして? 怖かったからだ。兄が何を言い出すのか、怖くてたまらなかった。
しかし、そのときは否応無くおとずれた。
「恭介」と、響也は文庫本に栞を挟んでから、パタリと閉じた。「検査の結果はどうだった」
「……だめだった」
「というと?」
「……僕はビョーキなんだ。電脳化手術はできない。……すぐに障害者認定もできるらしい。そうなったら、兄さんみたいに警察庁を目指すことはできないよ……」
「そうか」
冷めた一言だった。本当に。感情が何一つこもっていない、まるで条件反射的に答えられた言葉だった。だから恭介も思わず拍子抜けしてしまった。
響也は縁側から腰を上げて、本をズボンの尻ポケットに差し込んだ。
「恭介、一ついいか」
「……なに?」
「俺のなかで一つわかったことがある。それは、拒絶症の人間なんて、生きている価値もないってことだ。特にこの現代においてはな。ふつうの人間が当たり前に出来ることが、お前には出来ないんだ。お前は、あらゆることのスタートラインにすら立てていない。いくら努力しても無駄だ。いまのお前には、なんら存在価値もないんだ。それを肝に銘じておけ」
響也はそう言うと、呆然とする恭介をさしおいて玄関へと歩いていった。平然と。表情一つ変えることなく。
――生きている価値もない。
その言葉が、恭介の胸にずしりとのしかかった。
以来恭介は、兄と一言も話さなくなった。彼自身、兄を拒絶するようになったし、響也も響也でまるで弟などいないように振る舞うようになった。
それからだ。恭介は、兄のことを思い出すたびに震えが止まらなくなる。怖くてたまらない。自分のことを、存在の根本から否定されたみたいで……暗に死んだほうがマシであると言われているみたいで……。




