9
昼休みの終わり。
教室にはまだざわつきが残っていた。
橘彩音からジュースを貰った。
ただそれだけ。
だが。
男子高校生社会では十分大事件である。
「田中……」
「お前いつの間に……」
「裏切り者……」
「のだぁ?」
レイはジュースを両手で持ちながら首を傾げていた。
前回人生。
こういうイベントは一切なかった。
そもそも女子と接点を作っていなかった。
だが。
今。
人生二周目。
しかも中身五十歳。
「…………」
レイは知っている。
チャンスというのは。
“待ってるだけ”では来ない。
誘わないと何も始まらない。
若い頃のレイは。
断られるのが怖かった。
気まずくなるのが怖かった。
だから誘わなかった。
そして何も起きなかった。
「のだぁ……」
だが。
五十歳まで独身で死んだ男は違う。
多少の気まずさくらい、孤独死に比べたら軽傷である。
「うむ!」
レイは立ち上がった。
「橘さーん♡」
「えっ」
彩音が振り向く。
周囲の女子たちもニヤニヤし始める。
「田中君また来た」
「最近ほんと積極的だね」
「のだっ♡」
レイは妙に堂々としていた。
「今週の土曜日空いてたら一緒に勉強しないのだぁ?」
「…………えっ?」
教室、静かになる。
男子たちの空気が変わった。
「おい」
「マジかよ」
「攻めるなぁ……」
だが。
レイは止まらない。
「社会程度なら吾輩も余裕なのだぁ♡」
「数学から逃げるな」
即座にツッコまれた。
「のだぁ!?」
彩音がちょっと笑う。
「田中君、数学壊滅的だったじゃん」
「社会は得意なのだっ♡」
これは本当だった。
五十歳まで生きたレイは、歴史や地理の話になると妙に強い。
なぜなら。
中年になってからYouTubeや本で延々見ていたからである。
「うむ!」
レイは真顔で続けた。
「世界史は面白いのだぁ。人類ずっと揉めてるのだぁ♡」
「何その感想」
「あとソ連はもうすぐ大変なのだぁ」
「田中君また変なこと言ってる」
女子たちが笑う。
だが。
彩音は少し考えていた。
「勉強会かぁ……」
「のだっ♡」
「どこでやるの?」
「のだぁ?」
レイ、固まる。
そこまで考えてなかった。
五十歳独身男性、デート計画能力が低い。
「…………」
「…………」
沈黙。
女子たちの視線。
男子たちのニヤニヤ。
「の、のだぁ……」
レイは脳をフル回転させた。
一九九二年。
高校生。
自然。
不自然じゃない場所。
「図書館なのだっ♡」
「おぉ〜」
周囲が妙に感心する。
実際。
かなり無難だった。
「へぇ、ちゃんと勉強する気あるんだ」
「うむ!」
レイは真顔で頷いた。
「吾輩、今回は人生を真面目にやるのだぁ」
「また重い」
彩音は少し笑った。
「……別にいいよ」
「のだっ♡」
「私も数学苦手だし」
「のだぁ?」
レイ、目を丸くする。
「お主でも苦手あるのだぁ?」
「そりゃあるよ」
「完璧美少女かと思ってたのだぁ」
「完璧美少女って何」
彩音は笑っていた。
その笑顔を見て。
レイはちょっとぼーっとした。
「のだぁ……」
可愛い。
やっぱり可愛い。
前回人生の自分が引きずるだけある。
「じゃあ土曜ね」
「のだっ♡」
「昼くらいから?」
「うむっ♡」
「遅刻しないでよ?」
「のだぁ!」
その瞬間。
後ろから声。
「田中ぃ……」
男子たちだった。
「お前急に青春始めすぎだろ……」
「許せねぇ……」
「爆発しろ……」
「のだっ♡」
レイはドヤ顔だった。
「青春は行動力なのだぁ♡」
「うぜぇぇぇぇ!!」
教室が笑いに包まれる。
その中で。
西園寺誠がニヤニヤしながら言った。
「でもお前、橘さんと二人で勉強しても絶対集中できねぇだろ」
「のだぁ?」
「絶対顔見てニヤニヤして終わる」
「…………」
レイ、少し黙る。
そして。
「否定できないのだぁ」
「ダメじゃねぇか!!」
再び爆笑。
彩音も顔を赤くして笑っていた。
「田中君ほんと変」
「うむっ♡」
レイは嬉しそうだった。
五十歳まで生きて。
ようやく理解した。
恋愛って。
完璧な会話をするゲームじゃない。
多少変でも。
不器用でも。
ちゃんと話しかける人間の方が、案外強い。
「のだぁ……」
その時。
予鈴が鳴った。
皆が席へ戻る。
ざわざわ。
椅子の音。
窓から入る秋風。
「…………」
レイは静かに席へ座った。
そして。
机の下で拳を握る。
(人生二周目……)
前回の自分では絶対できなかった。
マドンナを勉強に誘うなんて。
怖くて無理だった。
「のだっ♡」
レイは小さく笑った。
青春。
案外。
ちょっと勇気出すだけで、景色が変わるのかもしれなかった。




