17 撫でられたレイ
夕方。
図書館の外。
空は薄くオレンジ色になっていた。
秋の風。
少し冷たい空気。
「…………」
レイはふらふらだった。
「のだぁ……」
脳が死んでいる。
数学。
難しい。
恐ろしい。
「吾輩、よく生還できたのだぁ……」
「大げさ」
橘彩音が笑った。
だが。
実際かなり頑張っていた。
途中から半分くらい精神力で解いていた。
「のだぁ……」
そして。
今日一日。
レイはずっと幸せだった。
橘と喋った。
一緒に勉強した。
笑った。
手を繋いだ。
青春イベントが過剰摂取レベルで発生した。
「…………」
五十歳まで孤独気味だった男には、刺激が強すぎる。
「田中君」
「のだ?」
「ちゃんと復習しなよ?」
「うむぅ……」
「絶対わかってない顔してる」
「お主が隣にいるせいで脳が半分止まってたのだぁ……」
「もう」
彩音は苦笑した。
だが。
少し嬉しそうでもある。
最初は変な男子だった。
でも。
今は違う。
レイといると妙に楽しいのだ。
「…………」
駅前。
人通り。
夕焼け。
帰宅する学生たち。
「のだぁ……」
レイは歩きながらぼーっとしていた。
幸せすぎて。
逆に怖い。
前回人生。
こんな日、一度もなかった。
「…………」
その時。
彩音がふと立ち止まった。
「田中君」
「のだ?」
「今日さ」
「うむ?」
「頑張ってたね」
「!!!!」
レイ、停止。
「数学」
「のだぁ……」
「途中から半分死んでたけど」
「恐ろしかったのだぁ……」
「でも逃げなかったじゃん」
「…………」
レイは少し黙った。
前回人生。
レイは。
わからないと、すぐ逃げた。
嫌になる。
距離を取る。
放置。
その繰り返し。
「のだぁ……」
でも今日は。
ちゃんと座っていた。
途中で投げなかった。
それは。
橘がいたからだ。
「うむ……」
その時だった。
彩音が少し笑って。
レイの頭に手を置いた。
「偉い偉い」
「…………」
静止。
レイの脳が止まる。
「…………」
頭。
撫でられている。
マドンナに。
「…………」
レイの目が潤み始めた。
「えっ」
「の、のだぁ……」
「ちょ、田中君?」
レイの肩が震え始める。
「のだぁぁぁぁぁ……」
「え、ちょっと!?」
次の瞬間。
「うぇええええええええん!!!」
「えぇぇぇぇぇ!?!?」
レイ、号泣。
そのまま。
勢いよく彩音を抱きしめた。
「のだぁああああああ!!!」
「ちょ、ちょっと!!」
彩音、真っ赤。
周囲の通行人まで見る。
「田中君!?ここ外!!」
「うわぁあああああん!!」
レイは泣いていた。
本気で。
「撫でられたのだぁぁぁぁぁ!!」
「う、うん!?」
「優しいのだぁぁぁ!!」
「落ち着いて!?」
だが。
レイは止まらない。
五十歳まで生きた男。
しかも孤独気味。
“優しく撫でられる”という行為が、あまりにも刺さる。
「のだぁぁぁ……」
レイは彩音の肩に顔を埋めながら泣いていた。
「吾輩、頑張るのだぁ……」
「…………」
「ちゃんと生きるのだぁ……」
声が震えていた。
彩音は最初、完全にパニックだった。
だが。
少しずつ。
気づき始める。
「…………」
この人。
時々。
妙に寂しそうなのだ。
普段は騒がしい。
変。
距離感バグってる。
でも。
時々だけ。
ものすごく孤独そうな顔をする。
「…………」
彩音は少し迷って。
そっと。
レイの背中を軽く叩いた。
「……大丈夫?」
「のだぁぁぁ……」
「そんな泣くこと?」
「嬉しいのだぁぁぁ……」
レイは本音だった。
前回人生。
誰かにこうやって優しくされること。
本当に減っていた。
「のだぁ……」
しかも。
高校時代の憧れの女子。
そんな相手に。
今。
抱きしめて泣いている。
「青春なのだぁぁぁ……」
「重いよその青春」
彩音は苦笑した。
でも。
少しだけ。
胸が締め付けられた。
「…………」
レイは変だ。
でも。
時々。
放っておけない。
「田中君」
「のだぁ?」
「……そろそろ離れて?」
「のだぁ……」
レイはしょんぼりしながら離れた。
目が真っ赤。
涙ぐしゃぐしゃ。
「…………」
彩音は思わず笑ってしまった。
「泣きすぎ」
「のだぁ……」
「でも」
「?」
「今日、楽しかった」
「!!!!」
レイ、停止。
「のだぁぁぁぁぁ!!!」
「また泣く!?」
「うぇえええええん!!!」
「ちょっともう!!」
夕焼けの駅前。
女子高生に抱きついて泣く男子高校生。
かなり目立っていた。
だが。
彩音はもう、完全には振り払えなかった。
なぜなら。
レイが本当に嬉しそうだったからだ。




