16
図書館。
二階閲覧室。
静かだった。
紙の匂い。
ページをめくる音。
窓から入る秋の光。
一九九二年。
まだスマホもない時代なので、図書館にはちゃんと学生がいた。
「…………」
そして。
その一角。
田中レイは死にかけていた。
「のだぁ……」
数学。
数式。
関数。
意味不明。
「なんで数字にアルファベット混ぜるのだぁ……」
「それ言ったら終わりだから」
橘彩音が苦笑していた。
ノートを広げ。
鉛筆を持ち。
普通に勉強している。
可愛い。
めちゃくちゃ可愛い。
「のだぁ……」
レイはぼーっと見ていた。
「田中君」
「のだ?」
「手止まってる」
「お主が可愛いからなのだぁ……」
「しっ!」
彩音が慌てて周囲を見る。
図書館なので静かにしないといけない。
「もう……」
顔が赤い。
だが。
嫌そうではない。
「ちゃんと勉強するんでしょ?」
「うむぅ……」
レイはしょんぼりしながらノートを見た。
「数学怖いのだぁ……」
「そんな怯える?」
「吾輩、社会と国語で生きていきたいのだぁ……」
「高校生で文系極まりすぎでしょ」
彩音は笑った。
その笑顔を見て。
レイはまたちょっとぼーっとした。
「のだぁ……」
青春。
強い。
強すぎる。
「…………」
その時。
彩音がレイのノートを見た。
「うわ」
「のだ?」
「途中式めちゃくちゃ」
「感覚派なのだっ♡」
「数学で感覚派やめて」
彩音は苦笑しながらノートへ手を伸ばした。
「ここ、こうやるの」
「のだぁ?」
近い。
めちゃくちゃ近い。
髪の匂い。
シャンプー。
柔らかい声。
「のだぁぁぁ……」
「聞いてる?」
「美少女なのだぁ……」
「田中君?」
だが。
その瞬間。
レイの脳内で何かが弾けた。
「…………」
五十歳まで生きた男。
孤独死済み。
そして今。
マドンナと休日勉強会。
「のだっ♡」
レイは突然。
彩音の左手を握った。
「…………」
静止。
空気停止。
彩音の顔が固まる。
「…………え?」
レイは非常に自然だった。
あまりにも自然。
まるで昔から握っていたかのような堂々さ。
「のだっ♡」
「…………」
彩音、完全停止。
「た、田中君?」
「のだ?」
「な、何してるの?」
「手を握ってるのだっ♡」
「見ればわかるよ!?」
声を抑えているせいで余計慌てていた。
「な、なんで!?」
「安心するのだぁ♡」
「知らないよ!?」
だが。
レイは離さない。
しかも妙に自然。
中身五十歳なので、変にキョドっていない。
「のだぁ……」
レイは数学を見ながら真顔だった。
「恐ろしいのだぁ……」
「数学が?」
「うむ……」
レイは彩音の手を握る力を少し強めた。
「数字がいっぱいなのだぁ……」
「子供!?」
「怖いのだぁ……」
「だからってなんで手握るの!?」
彩音の顔は真っ赤だった。
周囲を気にしながら小声で抗議している。
だが。
振り払わない。
「のだっ♡」
レイは普通に問題を解こうとしていた。
片手で。
「うむぅ……」
「いや解きづらくない!?」
「安心感があるのだぁ♡」
「知らないってば!」
だが。
レイは本気だった。
五十歳まで生きるとわかる。
人肌。
温もり。
これ、かなり精神安定に効く。
「のだぁ……」
前回人生。
最後の方。
レイは何年もまともに人と触れていなかった。
握手すら少ない。
だから。
今のこの状況。
めちゃくちゃ幸せだった。
「…………」
彩音は最初パニックだった。
だが。
少しずつ落ち着いてきた。
「…………」
レイの手。
温かい。
しかも。
妙に自然。
変にいやらしくない。
本当に“安心したいから握ってる”感じなのだ。
「…………変なの」
「のだっ♡」
「普通こんな堂々と手繋がないよ」
「そうなのだぁ?」
「そうだよ!」
「うむぅ……」
レイは少し考えた。
「だが吾輩、お主好きなのだぁ」
「っ!!」
彩音の顔がまた真っ赤になる。
「だから手くらい握るのだっ♡」
「そ、そういうの静かに言って!!」
「図書館なのだぁ♡」
「そういう意味じゃない!!」
彩音はもう完全に混乱していた。
だが。
嫌ではない。
むしろ。
心臓がうるさい。
「…………」
そして。
もっと困るのが。
レイが妙に真剣な顔で数学と戦っていることだった。
「のだぁぁぁ……」
「だからそこ、x先に出して」
「無理なのだぁ……」
「頑張って」
「お主がいないと生きていけないのだぁ……」
「重い!!」
でも。
彩音は笑っていた。
そして。
ふと。
周囲を見る。
図書館。
静かな空間。
高校生カップルっぽい距離感。
「…………」
彩音は思った。
なんでこうなったんだろう。
少し前まで。
田中レイなんて。
ほぼ喋ったことない男子だったのに。
でも今は。
隣にいる。
手を握られてる。
しかも。
妙に幸せそうなのだ。
「のだっ♡」
レイは突然顔を上げた。
「橘ぃ」
「な、何」
「吾輩、数学嫌いだけど」
「うん」
「今日は結構楽しいのだぁ♡」
「…………」
彩音は少し黙った。
そして。
小さく笑った。
「……私も」
「のだっ♡」
レイの顔が一気に明るくなる。
その瞬間。
嬉しさで手を握る力が強くなった。
「痛い痛い!!」




