精霊の泉 1
トパゾに案内されて、草に埋もれ朽ちかた枕木の道を進み集落の奥へ入りこんできた。道は左に折れてさらに山を登って続いているが、トパゾが向かったのは正面にある石垣の方向だ。
低く平らな石垣の上には、急斜面を背後にして三角屋根の丸太小屋が建っている。これまでみた集落の建物では一番大きい。それでも一家族が無駄な物を持たずにつつましく暮らすでやっとの大きさだ。かなり年季も入っていて、壁の木にはところどころ地衣類がはびこっている。入口には草を編んだブラインドが下げられて、扉の代わりを果たしている。
いかにも山中の住居という趣だ。建物がぽんと一つで立って、手入れを怠ると草木に飲みこまれてしまいそうな。コルトは段を登ったところで口を半開きにして眺めていた。
トパゾが振り向き、コルトのことを見ると照れくさそうに笑った。
「これでも長の家だ。外の世界のお屋敷を知るあなたがたには、なんと貧しいと笑われるだろうが」
「そんなことないよ。僕、ちょっと懐かしく思って」
「懐かしい?」
「僕も山の中の村で暮らしていたから。僕の家には階段があったけど。でも大きな町の家より、こっちの方が落ち着くよ」
つまるところ一方的な親近感である。トパゾもまんざらではない様子で、ふっと表情が緩み、年相応の顔が一瞬あらわれた。
「そう言ってもらえるとありがたい。では遠慮なく来てくれたまえ」
マオが馬を家の前にあった古木へ繋いだ後、トパゾに連れられて家の中へ入った。途端、光をあげられたようなまぶしさを感じ反射的に目を閉じる。だが、ゆっくり細く目を開ければなんてことはない、家の中には霧がなくて景色が晴れ晴れと目に飛び込んで来ただけだった。
玄関から一段あがった板の間で、中央に床に直接座るとちょうどいい高さになる大きな丸テーブルが据えられている。テーブルを囲って、厚みのあるラタンのマットが六枚用意されている。正面奥の壁には細かいフラクタル構造のマンダラが刺繍されたタペストリーがかけられ、その前に質素な木製の祭壇がある。家とは言うが、教会あるいは集会所のような場所を兼ねているのかもしれない。
トパゾが奥手、祭壇を背にして座った。そして客人は反対側へ座るように促される。コルトが真ん中で、左にマオ、右にラフィスという配置になった。マオは落ち着いているが、ラフィスはきょろきょろと落ち着きがない。マットの上に置いたコルトの手に手を添えている。
タペストリーと祭壇を背景にすると、トパゾにはいかにも宗教の長という威厳がある。コルトの言葉なら司祭という立ち位置だ。対面するのに少し緊張する。
「精霊様もあなた方を歓迎してくださっております。どうぞご安心を」
「なにか聞こえるの?」
「はい。精霊様の声が、今まさに」
うわっ、とコルトは鳥肌を立てた。顔にもつい気持ちを出してしまう。マオが横目で様子をうかがって、テーブルの下でたしなめるように足をはたかれた。慌てて表情を笑顔に取り繕うが、少々苦い。
てっきり怒られるかと思ったが、トパゾは笑っていた。
「きみはわかりやすくてよいな」
トパゾは自分たちの精霊信仰、そして幽明の民について語り始めた。
精霊とは自然の中にある大きな存在で、普通の人の目には見えない別次元に存在するものである。そして幽明の民は精霊の溢れる力をこの世界にとどめておく、言わば器としてこの世に生まれてくる人である。すなわち幽明の民は精霊の一部であり、この世界で生きること自体が精霊より与えられた使命であり、精霊の判断により本体へ還らなければならない時が来たら死ぬのである。それまでは、精霊の声を聴きながら、幻と実のバランスを取るため時を捧げるのだ。
――ぜんっぜん、わかんない。
コルトは変な汗をかき、笑顔を引きつらせながら、一方的に喋り続けるトパゾの話を聞いていた。わからなくても適当に頷いていれば、トパゾは満足をしているようだから、いっそ好きなだけ喋ってもらった方がいい。
「――そして、先ほども言った通り、自分は精霊様の力を一際強くになって生を受けました。そのため特別なことをしなくとも精霊様の声を聞くことが可能であり、また、このようなこともできる」
トパゾは色の白い手のひらを上に向け、テーブルの上に置いた。そして、念じる。すると外から筋雲のように白い霧が流れ込んできて、彼の手のひらに集まった。雲は密度を増し、やがて水球となり、最後は氷の塊として手の上にぽとりと落ちた。
コルトは腰を浮かせて今しがた起こったことを目に焼き付けた。興奮した息を吐き出すと共に思わずラフィスの顔を見て、そしてまたトパゾへ向きなおる。
「トパゾは魔法使いだったんだ……!」
「自分はただ精霊様の力を借りているだけ。そして、この力は幽明の秩序を守るために使うもの。外の世界の、自分のことしか考えていないわがままな連中と一緒にして欲しくはない」
むっとされ、コルトは思わず視線を落とし口をつぐんだ。食い下がるつもりはないが、「ごめんなさい」とも出せなかったのだ。もし嘘でも謝ったら、外の世界の魔法使いであるラフィスや彼女の関係者をわがままだと認めてしまうみたいで、気分が悪かった。
トパゾは不機嫌なまま立ち上がり、長衣を滑らせるようにして祭壇のもとへ踏み出した。そして氷塊を祭壇にある空の木皿へと捧げた。祭壇は他にも、土をこねて作った像や、木の枝と枯草を束ねたリースなど、自然物を材料としたさまざまな造形物で彩られている。
トパゾは凛としたたたずまいで祭壇に向かって手を合わせる。しばらくそのまま、その後、ひらりと振り向いた。さっきとは一転、にこにこと笑っている。
「ところで、ずっと山を登って来たのでしょう。お腹がすいていませんか。みなに食事を用意させます、お好きなものがあれば――」
「あのー、少しいいですか?」
マオが手をあげつつ、ゆっくりと立ちあがった。こちらも柔和な笑みでいるが、やっていることは露骨にトパゾの話の邪魔だ。トパゾは当然ながら顔色を不機嫌に塗り替えた。
「どうしたんだ」
「食事の前に、精霊様の泉を拝見させてもらえないでしょうか」
「なに?」
トパゾは目を尖らせた。明らかに空気が変わり、刺々しい気配が肌に刺さるよう。コルトは思わずラフィスに肩を寄せた。だが、訝しまれる原因を作った張本人はほがらかに笑ったまま。彼女一人だけ感覚の鈍る別の次元に居るようだ。
「なんのためだ。いや、その前に、なぜ外の人間が精霊様の泉のことを知っている」
「実はわたしもご覧の通り、精霊様を信仰する民族の出です。幽明の民とは異なりますが、起源をたどれば同じ精霊様、ゆえにこの地に精霊様の眠れる場所があるとの話をかねがね聞いておりました」
さっき祭壇に向かっていたトパゾのように、マオは胸の前で両手を合わせた。
「ですから、わたしも自ら精霊様にお祈りしようと思いまして。この霧を一刻も早くはらし、わたしの帰郷をお助けください、と。構いませんよね?」
一応、筋の通っている理由ではあった。トパゾの警戒は少しだけ緩んだ。が、さっきのような少年らしい笑顔は戻らない。
「……付いて来なさい」
「感謝します」
トパゾが黙って家を出ていく。マオは来た時と同じように少し距離を開けて付いていく。彼女は完全に霧の中に出てしまう前にコルトたちの方を見て、手の動きで「一緒に」と促した。
なんだか奇妙な感覚をおぼえながらも、コルトはラフィスと同時に立ちあがり、二人に付いていくことにした。