霧の山中 2
マオが馬を引いて先導し、徒歩で集落の中へ入って行く。人里だろうが濃霧は変わらない、コルトはできるだけ距離を詰めて彼女について行く。ラフィスもぴったりとコルトの背中に張り付き、しきりに周囲を見回しながら続く。
霧に包まれた集落に見える建物は、物置小屋に等しい小さなものばかりだ。数もまばらで、木々に埋もれるように建っている物も多い。
集落の中の道はゆるやかな上り坂、時どき段差になっていて、まっすぐ奥まで続いているようだ。家屋は向かって左側、山の上り斜面に沿うように多く、反対側は平らな地面が広がる。そちらにはどうやら畑があるようだ、土を耕す人の影がぽつぽつと見えた。
通るにあたって集落の人にあいさつをしなくてもよいのだろうか。コルトは疑問に思ったが、マオは一切ためらいなく進んで行く。声をかけることはもちろん、人影に目をくれることもない。もっとも住民たちも無心で畑仕事をしているからおあいこだが。
「ねえマオさん――」
「問題ありません、先を急ぎましょう」
マオは後ろへ目もくれず、早口で言い切った。歩くペースも心なしか速くなっている。
コルトは少し違和感を覚えた。何をそんなに焦っているのか、人里の方が安全だから慌てる理由なんて無いのに。それとも、他に急がなければいけない理由があるのか。
歩みを進めながらコルトは周りへさらに気を配る。霧で目はあまり役に立たない、それなら耳だ。
低くうなる音が聞こえる。がさりがさりと木の葉が騒ぐ音も。ただの風の音だろうが、邪推すれば、人の苦しむうめき声にも思えてくる。化け物が口から漏らす声かもしれない。霧に隠された正体が不安を煽り立てる。
前をざくりざくりと歩く音はマオと彼女の馬のもの。コルトとラフィスの足音を合わせて、重なり合っている音は計十本分のはず。でも本当にそれだけか。見えない知らないところで十が十二に増えていたとしたら。あるいは足音のない何かが自分たちの背後について来ていたら。
警戒すればするほどに想像からくる不安感も増していき、コルトは汗をにじませた。もしも、もしもだ。キャラバンの有翼人が言っていた人が消える危険地帯、その元凶がマオだったとしたら? 大勢で居ても何かに誘い出されていなくなる、まさに今コルトとラフィスが置かれた状況ではないか。だとすると、またジャスパに騙された時の繰り返しだ。
いい加減マオと別れるべき、来る途中にも怪しい場面はあっただろう。自分の中の誰かがそう語り掛けて来る。今すぐラフィスと引き返したらどうだ、と。
――いや、いい。大丈夫だ。僕たちだって西へ行く、どうせ山は越えなきゃいけない。もし危ない目にあっても、ラフィスと一緒に切り抜ければいいだけ。これまでもそうしてきたじゃないか。
コルトは自分を励ますように拳を握って、手のひらの冷や汗を握りつぶした。
その直後、マオの背中が眼前に迫った。ぶつかりそうになって慌てて立ち止まる。思考に捕らわれていたせいで、マオが足を止めていたことに気づかなかったのだ。
今度はどうしたのか、たずねずともすぐに判明した。前方から誰かが霧を抜けて走ってくる。
――男の子だ。
それもコルトと同じぐらいの年齢だ。背筋を伸ばして胸を張り、目の前へとやって来る。着るものはマオの衣装とよく似ており、あちらは白地に七色の糸で絢爛な刺繍を施したものだ。マオと違ってターバンは巻いておらず、グレーの跳ね髪を風にさらしている。
「ようこそいらっしゃいました」
少年は理知的な笑みと共に丁寧な言葉を述べた。痩せた体つきで肌も青白くあまり健康的な感じではないものの、それが妙にただものでない雰囲気を醸し目を引く。
集落の少年が目の前に立った時、ラフィスがコルトをかばうように前へ出た。不安に苛まされながら霧中を進んできたのは彼女も同じ、急に現れた人を警戒しているのだろう。コルトは彼女の手を取り、首を横に振った。そんなに構えなくても大丈夫そうだ、と。するとラフィスの目の光が、困ったように右往左往した。
相手の少年は気を悪くするどころか、小さく失笑した。
「まあ、そう警戒なさらずとも。幽明の民は客人を歓迎する。精霊様も同じく、あなたがた三人をご歓迎なされるだろう」
体の横に腕を開きながら、まるで教会の司祭が説くような大仰さでしゃべる。コルトは苦笑いで返した。
すると少年ははっと慌てた顔をした。
「申し遅れました。自分はトパゾ、ここミョノフの幽明の民を束ねる長でございます」
「長!」
「それがどうか?」
「だって、僕と同じくらいの歳なのに……」
トパゾはふふっと不敵に笑んだ。やはりと言うべきか、子供の快活さとはほど遠い笑い方だ。
「歳など無関係、力のある者が長となるのが世の定め。自分が生まれた時代では、自分がたまたま最も力を持っていたというだけのこと。たいしたことではありません」
「たいしたことあるよ! 力があるってみんなに認められたから長になれたんでしょ? それって、すごいことだよ。ちょっとうらやましい」
「うらやましい?」
「うん。僕はそんな風に力がないから、みんなに迷惑かけてばっかりだし……いいな、尊敬するよ」
トパゾは目を丸くし、袖で口元を隠していた。口もみっともなくあんぐり開けていたのだろう。曇り空と同じ色の目が、じいっとコルトを見ている。コルトは少し萎縮した。
「あの、気を悪くしたらごめんなさい」
「いいや! 嬉しいんだ。うらやましいなんて言われるの、はじめてだ。ああ、きみみたいな素直な心の持ち主がそばに居てくれたら!」
トパゾは手を宙に浮かせ、コルトの肩を掴もうと前に踏み出しかけた。が、それと同時に、マオがにこやかに笑って間に入った。
「幽明の長よ、大変申し訳ありませんが、我々は旅路を急ぐ身です。このまま通してくださいませんか」
トパゾがすっと冷静な顔に戻る。
「その相談は受けられません。なにせこの霧、ご自身でも危険だと思いませんか」
「まあ、危険、ですかね。色々と」
マオは眉を下げた。入れ替わりにトパゾがにっこり笑う。
「ミョノフの長として強行軍は見逃せません。ぜひ霧がおさまるまで休んでいってください。ほら、きみも休みたいと思うだろう? 素直に言いなさい」
急に選択を委ねられたコルトは、マオの困ったような笑いと、トパゾの大仰な笑顔を見比べた。ついでに胸に手を当て不安そうにしているラフィスは、あえてこちらから目をやるまでもなくコルトの方をずっと見ていた。
一呼吸おいて冷静に考えよう。マオについて真っ白な霧の山を強引に進むか、少々異教色の強さがあっても人が居る集落で霧が晴れるまで待つか、どちらがよりよいか。自分が求めるべきは早さか、安全か。
――マオさん、ごめんなさい。
「僕も山には慣れているけど、やっぱり霧の中は危ないと思います。こんな時に熊とか出たらいけないし」
「ああ、その通りだ。きみは賢いな。さあでは、どうぞこちらへ」
トパゾはにこにこ笑って長衣を翻した。その背中へ、マオが柔らかくたずねた。
「この霧はいつおさまるのでしょうか」
「それは精霊様の御心次第。急ぐならば、精霊様にお祈りなさい」
マオはやれやれとばかりに首を振った。しかし観念し、また黙って馬を引いて歩き出した。先を行くトパゾを見失わないが、霧に彼の姿がかすむ程度の距離を保っている。
コルトの心がちくりと痛んだ。さっきのは純粋にマオのことも含めた安全が第一だと思って。でももしかしたら、彼女は裏切られた気分になったかもしれない。
コルトは小走りでマオの横に並ぶと、トパゾには届かない小さな声で謝る。
「……ごめんなさい。邪魔をしないって言ったのに」
「いいえ、いたって正常な判断だと思います。このまま離れないように付いて来てください。彼女の事も守って」
マオも小声で早口だった。彼女というのは当然ラフィスのことだ。トパゾが特別な関心を持っている様子はなかったが、集落に滞在する時間が増えれば今は無い関心が良くも悪くも沸いてくるだろうし、他の住民の目に触れる可能性も高くなる。長のトパゾが好意的でも、民がすべて同じ心とは限らない。
急に霧の中から悪者が現れてさらわれてしまうなんてことがないように、コルトはラフィスの左手を取った。しっかり指と指とを絡めて掴まえる。たとえ霧に飲まれて姿が見えなくなっても、こうして体温を感じていられればそこに居る証となるから。




