精霊の泉 2
玄関先に繋いだ馬の影を尻目に、一行は家の裏へと回り込む。斜面には草に埋もれかけではあるものの、石の階段が設えてあった。ただしかなり急だ。
トパゾは石段をすいすい登っていく。続いてマオが、足下の状態にかなり気を付けながらゆっくりと進む。山道の時よりずっと注意深い。
さて次はどちらが。コルトはラフィスの膝丈のスカートにちらりと目をやり、頭をがりがりとかいて少し考える。考えて、ラフィスを先に行かせることにした。最後尾は後ろからなにかに襲われる危険性があるから。ラフィスを促すと、彼女も特に異議なく石段へと進んだ。地面が湿気っていて草を巻き込むと転びやすい、金属の足裏ならなおさらだ。だからラフィスは手足をついてほとんど崖をよじのぼるように上がっていく。
最後にコルトが、ラフィスとつかず離れずの距離を保って階段へ進んだ。滑りやすいから足下注意だぞ、そういうことにして、絶対に上は見ないようにしていた。
無事に階段をのぼりきったら、途端に視界が平らに開けた。草むらの向こうに泉がある。また一段と濃い霧に覆われているから正確な大きさはわからないが、「泉」という言葉から想像したよりずっと広く、小船をいくつも浮かべて皆で魚釣りもできそうなほどだ。
「ここが精霊様の泉だ」
「これはまた……なかなかの……」
マオも言葉を引きつらせるような驚きようで、コルトと同じく草むらに立ち尽くして目を見張っている。
トパゾは平然と水際ぎりぎりまで進み出て、後続たちへ来いと促してくる。一行はうっかり水の中に滑り落ちないよう、また草むらに潜んでいる蛇や毒虫なんかにやられないよう、足もとを見ながら進んで行く。
途中、ラフィスがコルトの腕にしがみついてきた。ひどく怯えるように身を寄せる。
「どうしたの!?」
コルトは足を止めて周りを確認するが、特段変わったことは無かった。ラフィスは今も泉の方を見て身を縮めている。なにかに驚いたのは事実だろう、早鐘で鳴る心臓の音が響いて伝わってくる。
さては羽虫が耳を掠めて飛んだりしたのでは。あれは意識していない時にやられると、瞬間背中が冷たくなる。とにかく考えても原因がわからないので、ラフィスの肩をあやすように軽く叩いてから一緒に歩みを再開した。
近づいたことでより泉の広い範囲が視界に入ったが、見える限り特別な構造物は無いようだ。精霊の泉だと事前に説明がなかったら、なんの変哲もない巨大な池としか思わなかっただろう。もちろん、精霊とやらの姿もない。
岸辺に立ったまま水の中へ目を凝らす。霧のせいだろうか、どうも淀んで暗く感じられる。縁のあたりでも結構な深さがあるようで、底は見えなかった。
コルトは水面を覗き込んだまま生唾を飲みこんだ。沼地の粘っこい泥の臭いが鼻の奥にひかかっている気がする。もしこの泉に落ちてしまったら、それにただならぬ恐怖を覚えた。
「どうだ、吸い込まれそうな気がしないかな?」
「えぇ……?」
「ここはミョノフでもっとも精霊様の次元に近く、精霊様を感じることができる場所だ。きみも目を閉じ耳を傾けてみるといい、精霊様の声へ」
「目を閉じる? ここで!?」
トパゾは満面の笑みで頷いた。だからコルトは頭を抱えたくなった。つい今しがた、うっかり滑り落ちたら怖いと思ったばかりなのに。
トパゾはすぐ隣、手を伸ばせば届く位置に居る。ラフィスも逆隣にぴったりとくっついている。マオは半歩後ろだ。みな分別はある人たちだから――とコルトは信じている、冗談で突き落とされるようなことはないはずだ。万が一誰かがやらかしても、この位置関係なら別の誰かが助けに入ってくれるだろう。信じよう。
「……目を閉じるだけでいいんだよね。一歩も動かなくてさ」
コルトは意を決して目を閉じた。精霊なんて半信半疑、第一どんな存在なのか未だによくわかっていないが、ここは素直にトパゾの言うことを聞いておく。聴覚を研ぎ澄ませ、あらゆる音の中から声を探る。
唸り声のような低い風の音が聞こえた、ざわざわ木の葉が揺れる音が聞こえた、かすかな水の流れる音が聞こえた、それと他には――
『コルト。コルト。おいで、こっちへ』
――母さん!?
そんなはずがない。頭でわかっているのに、耳にささやかれる母親の声が止まらない。いや、母親のように聞こえるだけで、これが精霊の声なのだろう。甘く、優しく、愛にあふれる、精霊とはすべての生き物の母親なのかもしれない。
おいで、こちらへおいで。甘いささやきは繰り返し耳を打つ。この声の主の腕の中、幽明の民がいつか帰る場所であるそこは、きっと暖かく幸せなところだろう。もしも今誘われるがまま声のもとに行くなら、それができるというのなら、幸せなことなのかもしれない。
コルトの足は無意識の内に宙へ浮いていた。
「コルト、メェ、マッテ!」
それはラフィスの声だった。コルトはハッとして目を開けた。
右腕にラフィスがすがりついて体を揺さぶっている。半泣きだ、左目の光も激しく震えている。彼女に揺さぶられてたたらを踏んだ、それでコルトは初めて自分が足を浮かせていたことに気づいた。一歩前、泉の方へと。
コルトは顔を真っ青にしてトパゾを見た。年若き長は慌てるどころか、満足そうに頷いて見せた。
「ほら、吸い込まれそうな気がしただろう」
「う、うん……危なかったよ」
「しかし、精霊様のもとへ行くのもまんざらでないと――」
朗々と語るトパゾの声を、霧を裂くように甲高い笛の音が遮った。一同、飛び上がるくらい驚いて、音の方を振り返った。
マオが笛を吹いていた。目を伏せ、真剣な顔つきだ。今の警報じみた音は故意ではなかったのか、急いで音階を取り直すと、いやに重々しい調子の曲を奏で始めた。
「やめろ!」
トパゾが怒鳴った。大人顔負けの気迫に満ちた恐ろしい形相だ。
マオは制止を聞かず笛を吹き続けている。トパゾは凄絶な剣幕で詰め寄ると、笛をはたき落とした。同時にマオ自身も後ろへ突き飛ばし、尻餅をつかせた。
地面に転がった笛をトパゾは踏みつけようと足をあげた。それほど太さがある物ではない、当たり所によってはへし折れる。しかしさすがに思いとどまったか、トパゾは足を引き、代わりに笛の上に手をかざした。すると、笛がふわりと浮き上がって彼の手の中へおさまった。
マオが声無くして悲鳴をあげた。目は見開かれたまま、顔色もさっと青くなる。
そんなマオをトパゾは再度叱責する。
「精霊様になにをするか、無礼者め!」
「これがわたしの祈り方なのです! お願いです、返してください!」
「だめだ。また精霊様を穢す音を流されてはならん」
「とても大事なものなのです。泉からは離れますから、返してください、お願いします」
「……わかった。あなた方がミョノフを去る時に返そう。だが! 見ろ、この霧を!」
トパゾは泉の方へ腕を広げた。気づけばまた一段と霧が濃くなっており、視界は真っ白、先ほどはうっすら見えていた泉の中央も今ではまったく見えない。
「おまえが精霊様を怒らせるからだ。これではいつ晴れるかわからないな」
厳とした声に、マオは膝を折ってうなだれているのみだった。
トパゾはそんなマオを追い越し、階段の方へと歩いて行く。
「……客人に使ってもらえる空き家がある。火を点けておくから、そちらへ入りなさい。みなに食事も用意させる」
低調にそれだけ言い残し、一人で石段を降りていく。その姿はあっという間に霧に飲まれて見えなくなってしまった。
静かになった泉の縁で、コルトとラフィスは地面に崩れたままのマオを助け起こした。
「ダイジョブ?」
「マオさん、怪我はないですか?」
「体は平気です。ですが……あぁ……どうしましょう……」
「笛のことですか」
マオは力無く頷いた。さぞ大切なものだったのだろうが、それにしても少し異常な動転っぷりだ。しかしここにずっと居ても何にもならない。
「……とりあえず、トパゾさんの言っていた家に行ってみようよ。霧が晴れるまで待てば、笛も戻ってくるんだし。晴れない霧はないよ、絶対」
「ありがとう。前向きで、勇気づけられます」
それは単なるお世辞かもしれない。でもマオはちょっと笑ってくれた、それだけでコルトはいい気分になれた。
一行は来た時よりもさらに時間をかけ、石段をくだった。そしてトパゾの家の正面まで戻ったところで、集落の入り口側へ行く方向にかすかな炎の灯りが見えた。
トパゾはまだ集落の仲間に声をかけて回っているのか、自分の家には居なかった。ただテーブルに着く時におろしたコルトの背負い鞄はそのままになっていたから、ちゃんと拾って、紹介された明かりの家へ向かうことにした。
――そういえば。
石垣を降りる段になって、コルトは慌てて並ぶマオの袖を引っ張った。
「マオさん。マオさんの馬はどこ?」
玄関先の木へ繋いでいたはずなのだが、居ない。それどころか木のシルエットがバキリとへし折られたそれに代わっている。耳をそばだてても蹄の音や近くに隠れている気配を感じ取ることはできない。
マオはため息を吐きながら首を横に振った。
「逃げ出したのか……いえ、諦めます」
「いや、逃げたのなら探しましょうよ。そんなに時間は経っていないし、まだ遠くには行ってないはず。馬って大事なんでしょ」
「大事ですよ。でも、今は無理です。行きましょう」
マオは淡々と答え、明かりの家へと進んで行く。片手を頭にやり、足取りには覇気がない。山を登って来た時の掴みどころのない強さは、一切なりを潜めている。
コルトは手のひらにかいた変な汗を握りしめ、マオの背中を眺めていた。化け物退治どうのこうの以前に、今の状況が怖くなってきた。単なる異教の集落というだけでなく何かがおかしい。トパゾにしても、マオにしても。
「――コルト!」
先に石垣の下に降りたラフィスが急かすように手を振っている。コルトは慌てて段を降り、ラフィスの隣に並んだ。この霧の中でおかしくないと信じられるのは、自分の心と、ずっと一緒に旅をしてきた彼女だけ。




