第9話 戦うということ
初陣の支度を。
そう告げられてから、梵天丸の周囲は急に慌ただしくなった。
鎧が運ばれ、馬が整えられ、家臣たちは兵の数と道筋を確認している。城の中を行き交う足音も、いつもより少し速い。
けれど、梵天丸自身は思っていたより静かだった。
怖くないわけではない。
これまで木刀を振り、兵法を学び、地図の上で何度も戦を考えてきた。どこから攻めれば勝てるか。どこを押さえれば敵が動けなくなるか。そういうことなら、いくらでも考えられる。
でも。
本物の戦場には、人がいる。
数日前まで、それは分かっているつもりだった。
市場で野菜を売っていた女。
鍛冶場で汗を流していた職人。
畑を耕していた農民。
泥だらけの芋をくれた子ども。
あの日、初めて地図の向こうに暮らしを見た。
だから今。
戦場へ向かうという言葉が、以前より少し重かった。
「若君」
声をかけられ、梵天丸は顔を上げた。
「準備が整いました」
「うん」
「怖くはございませんか」
尋ねられた梵天丸は、少しだけ考えた。
「怖いよ」
家臣の目がわずかに動く。
「でも行く」
それだけ言って、梵天丸は立ち上がった。
戦場へ向かう道は、思っていたより普通だった。
山があり、畑があり、川がある。
人が住む村も見える。
遠くから見れば、いつもの領地と何も変わらない。
そこへ兵が入り、旗が立ち、槍が並ぶだけで、景色は急に戦場へ変わる。
梵天丸は馬上からそれを見ていた。
敵方の兵も、こちらと同じように槍を持っている。
同じように鎧を着ている。
同じように、誰かの家からここへ来ている。
「若君」
「なんだ」
「敵兵でございます」
「分かってる」
「初めて見ますか」
「……こんな近くでは」
兵の一人が唾を飲み込む音まで聞こえそうだった。
梵天丸は少しだけ目を細めた。
敵だ。
けれど。
人だった。
その当たり前のことが、妙に胸へ残った。
やがて合図が上がった。
戦が始まる。
槍が動き、馬が駆け、怒号が飛ぶ。土が跳ね、金属がぶつかる音が耳へ刺さる。
書物で読む戦とは違う。
地図の駒は叫ばない。
倒れても血を流さない。
けれど、ここでは全部が生きている。
「若君、前へ出すぎませぬよう!」
「分かってる!」
梵天丸は周囲を見た。
正面。
右。
左。
敵の数。
味方の位置。
少し先にある村。
その向こうには畑がある。
このまま押せば勝てる。
でも。
追い込みすぎれば、敵兵は村へ逃げ込む。
そうなれば家も畑も巻き込まれる。
「右、止めろ!」
梵天丸が叫ぶ。
家臣が振り返った。
「若君?」
「右から押しすぎるな!」
「しかし、このまま押せば敵を崩せます!」
「村に入る!」
「敵兵を逃がすことになります!」
「村に逃げ込ませる方が面倒だろ!」
家臣の顔が止まる。
梵天丸は前を見たまま続けた。
「家燃やされたら、あと誰が直すんだよ!」
「……」
「畑潰したら、誰が食わせるんだよ!」
少しだけ声が強くなる。
「勝ったあと、こっちが面倒見るんだろ!」
家臣は一瞬黙り、それから深く頷いた。
「承知しました!」
兵が動く。
右側からの圧を少し緩め、敵を村の外へ流す。
逃げ道を完全には潰さない。
その代わり、こちらが守りたい場所へ入らせない。
梵天丸は、戦いながら初めて分かった。
守るためには。
逃がすこともある。
追わないこともある。
全部倒すことだけが、勝ちではない。
しばらくして、敵方の陣が崩れた。
「若君! 追撃を!」
家臣の一人が叫ぶ。
逃げる敵兵。
今なら追える。
背を向けている。
ここで叩けば、数を減らせる。
梵天丸はじっと見た。
追えば勝てる。
もっと大きく勝てる。
けれど。
その先には、また村がある。
道は細い。
こちらも疲れている。
勢いだけで追えば、逆に待ち伏せされる可能性もある。
「追うな」
「若君!」
「もう崩れてる」
「ですが、今なら」
「今なら、なんだよ」
「敵をさらに討てます!」
梵天丸は家臣を見る。
「討ってどうする」
「……」
「勝つために戦ってんだろ」
「はい」
「もう勝ってる」
家臣はまだ納得しきれない顔をしていた。
「ここで追えば、もっと」
「もっと殺せる、だろ」
その一言で、周囲が静かになった。
梵天丸は逃げていく兵を見た。
「それが必要ならやる」
低い声だった。
「でも今は要らない」
敵は崩れた。
こちらの陣は残っている。
村も燃えていない。
畑も踏み荒らされていない。
兵も、必要以上には失っていない。
「これ以上やる意味ないだろ」
家臣はしばらく黙ったあと、頭を下げた。
「……承知しました」
戦が終わったあと。
梵天丸は馬を降りた。
足元には荒れた土があり、折れた槍が落ちている。
血もあった。
怪我人の声も聞こえる。
勝った。
それなのに、思っていたような気持ちではなかった。
「若君」
「怪我人は」
「味方から確認しております」
「敵も見ろ」
家臣が少しだけ目を見開く。
「敵兵も、でございますか」
「死なせる必要ある?」
「……ございません」
「じゃあ見ろ」
「はい」
梵天丸は、そのまま周囲を歩いた。
倒れた兵。
傷を押さえる者。
水を欲しがる者。
味方も敵も、倒れれば同じだった。
呻く。
痛がる。
怖がる。
戦っている時は敵だった。
でも。
戦が終われば、ただの人だ。
「水持ってこい」
「若君、敵兵にも?」
「喉乾いてんだろ」
「はい」
家臣は何も言わず、水を運ばせた。
その時。
少し離れたところで泣き声が聞こえた。
梵天丸が振り返る。
村の方から、一人の女が走ってきていた。
「あなた!」
倒れている敵兵の一人へ駆け寄る。
女は膝をつき、その男の肩を抱いた。
敵兵だった。
けれど。
誰かの夫だった。
少し後ろには、小さな子どももいる。
泣きながら母親の服を握っていた。
梵天丸は動かなかった。
胸の奥に、あの日の芋をくれた子どもの顔が浮かんだ。
敵にも。
家族がいる。
輝宗の言葉が、今になって真正面から刺さった。
戦う前から、国はある。
敵の土地にも、人がいる。
兵にも、家族がいる。
勝てば終わりではない。
「若君」
家臣が小さく声をかけた。
「……うん」
「戻られますか」
梵天丸は、倒れた兵とその家族をもう一度見た。
「この村、壊れてない?」
「大きな被害はございません」
「畑は」
「無事です」
「なら、よかった」
口にした時。
初めて少しだけ息が抜けた。
城へ戻ると、輝宗が待っていた。
梵天丸は父の前へ座る。
「どうだった」
「勝った」
「聞いている」
「じゃあ聞くなよ」
「勝ったこと以外を聞いている」
梵天丸は少しだけ黙った。
輝宗は急かさない。
それが余計に、考えさせられた。
「……思ってたのと違った」
「何がだ」
「戦」
「どう違った」
「もっと、勝ったら嬉しいと思ってた」
「嬉しくなかったか」
「嬉しくないわけじゃない」
梵天丸は自分の手を見た。
「でも、それだけじゃなかった」
輝宗は何も言わない。
「敵も人だった」
「うむ」
「当たり前だけど」
「うむ」
「倒れたら、味方と同じだった」
輝宗の目が少しだけ細くなる。
「家族もいた」
「そうだ」
「子どもも」
「そうだ」
梵天丸は少しだけ眉を寄せた。
「戦わない方がいいじゃん」
輝宗は、すぐには答えなかった。
「そう思ったか」
「うん」
「では、なぜ戦った」
「戦わなきゃ、こっちがやられる時もあるから」
「そうだ」
「守るために戦う時もある」
「そうだ」
「でも」
梵天丸は父を見る。
「戦ったら、絶対誰かは傷つく」
「そうだ」
「じゃあ、戦っていいって簡単に言ったら駄目じゃん」
輝宗は静かに頷いた。
「それを知るための初陣でもある」
「……」
「戦を知らぬ者ほど、戦を軽く口にする」
梵天丸は黙って聞いていた。
「勝てばよい。取ればよい。敵を倒せばよい。言葉だけなら簡単だ」
輝宗は梵天丸をまっすぐ見た。
「だが実際には、兵が死ぬ。家族が泣く。畑が荒れ、村が焼け、残った者が生き直さねばならん」
「うん」
「だから、戦を始める者には責任がある」
梵天丸の目が動く。
「始める責任」
「そうだ」
「勝つ責任も?」
「ある」
「負けたら?」
「負けた時の責任もある」
「めんどくせぇな」
「国は、めんどうだろう」
梵天丸は少しだけ笑った。
「またそれか」
「お前が言ったのだ」
「そうだけど」
輝宗も、ほんの少し笑った。
けれどすぐに表情を戻す。
「聞いたぞ」
「何を」
「追撃を止めたそうだな」
「うん」
「なぜだ」
「もう勝ってたから」
「それだけか」
「追ったら村に入る。畑もある。味方も疲れてた」
「それだけか」
「……もっと殺す意味がなかった」
輝宗は、しばらく何も言わなかった。
梵天丸は少しだけ居心地が悪くなる。
「駄目だった?」
「いや」
輝宗は静かに首を振った。
「よく見た」
梵天丸が顔を上げる。
「敵を討つことだけを見なかった。味方も、村も、その後も見た」
「……うん」
「初陣で勝ったことより」
輝宗の声が、少しだけ低くなる。
「何を守ったかを覚えておけ」
梵天丸は、父の目を見た。
村。
畑。
味方の兵。
逃げていった敵兵。
倒れた夫に駆け寄った女。
泣いていた子ども。
全部、頭に浮かんだ。
「……分かった」
「そして」
「まだあるの?」
「ある」
「多いな」
「戦う時は、迷うな」
梵天丸の表情が変わった。
「……」
「守るために戦わねばならぬと決めたなら、そこで迷えば味方が死ぬ」
輝宗はまっすぐ言った。
「戦を軽く始めるな」
「うん」
「だが、始めたなら勝て」
「うん」
「勝ったなら、終わらせろ」
「……うん」
「そして、残った者を守れ」
梵天丸は少しだけ黙ったあと、強く頷いた。
「分かった」
今度の返事には、迷いがなかった。
その夜。
梵天丸は一人で地図を見ていた。
以前なら。
敵の城がどこにあるか。
どこを取れば領地が広がるか。
そんなことばかり考えていた。
今は。
その城の下に村があることを知っている。
村には家族がいる。
畑がある。
仕事がある。
そこで生きている人間がいる。
戦うということは。
勝つことだけではない。
始める責任。
勝つ責任。
終わらせる責任。
そのあとを背負う責任。
全部まとめて。
戦うということなのだ。
梵天丸は、地図の上へ指を置いた。
天下を取る。
その気持ちは、まだ変わらない。
吉法師より先に取る。
それも変わらない。
ただ。
以前より、少しだけ分かった。
天下を取りたいなら。
誰より強くなるだけでは足りない。
誰より。
その先まで背負える人間にならなければならない。




