第10話 支えるということ
グランヴェール王国の迎賓館は、海に面していた。
大きな窓の向こうには港が広がり、月明かりを受けた水面が静かに揺れている。白亜の壁、高い天井、真珠と銀糸を使った装飾。港の国らしい華やかな舞踏会場には、各国の王族や貴族、商人たちが集まっていた。
グランヴェール王国が、リュミエール王国の傘下に入った。
同盟ではない。
自ら選んで、傘下に入ったのだ。
その事実を示すために開かれた舞踏会だった。
会場の奥では、グランヴェール国王がリュミエール国王の隣に立っている。
「兄上、本日はよくお越しくださいました」
「堅いな」
「舞踏会ですので」
「せやけど、家族やろ」
「……はい、兄上」
そのやり取りに、周囲の貴族たちが小さくざわめいた。
少し離れた場所から眺めていたレイナも、静かに目を細める。
あの方が。
かつて、私を見なかった王。
私の言葉よりも周囲の空気を取り、婚約破棄を止めなかった方。
嫌いだった。
今でも、あの時のことをなかったことにはできない。
けれど。
以前のグランヴェール国王とは、少し違って見えた。
リュミエール国王を兄上と呼ぶ横顔には、屈辱も、無理に頭を下げているような固さもない。むしろ、不思議なほど穏やかだった。
本当に。
変わられたのですわね。
それを認めることと、過去を許すことは別だ。
けれど、人が変わろうとしているのなら、その変化まで否定する必要はない。
そう思えるようになった自分にも、レイナは少し驚いていた。
「え、なに? 護衛? それとも彼女?」
すぐ近くから聞こえた声に、レイナの意識が現実へ戻る。
目の前には、白黒のゼブラ柄をこれでもかと盛ったドレス姿のパード・レオがいた。
姫様との距離が、近い。
近すぎる。
告白したからといって、姫様が私のものになったわけではない。
それくらい分かっている。
分かっておりますけれど。
近いですわ。
ぱちん、と扇を閉じる。
「馴れ馴れしいですわね、貴方」
レイナは笑顔を崩さないまま、パードを見る。
「姫様に近すぎますわ」
「え、なに? 護衛? それとも彼女?」
「どちらでも構いませんわ」
「強」
「姫様のお傍に立つ許可は、私が見ます」
「やば。独占欲の絵面強」
「絵面ではありませんわ」
「じゃあガチじゃん」
「ガチですわ」
「レイナ! 舞踏会で火花散らすな!」
姫様の声が飛んできた。
レイナは扇を胸元へ戻す。
「散らしておりませんわ。防衛です」
「防衛範囲広すぎるやろ!」
パードがけらけら笑っている。
嫌な方ではない。
それも、もう知っている。
けれど。
姫様との距離は別問題ですわ。
そう思った自分がおかしくて、レイナは扇の陰でほんの少しだけ笑った。
舞踏会は、しばらく平穏に進んでいた。
エリオットは王子として来賓を迎え、ノエルは軽食台に並んだパンを何度も気にしている。ミレーヌは給仕姿で会場へ紛れ込み、バルドは入口や回廊をさりげなく確認していた。
そして姫様は、今日は車椅子に乗っていない。
自分の足で立っている。
その姿を見るだけで、レイナの胸は少し熱くなった。
初めてお会いした頃は、たった三歩だった。
それでも、諦めなかった。
少しずつ歩ける距離を伸ばし、仕事へ戻り、現場へ出た。
その努力を、レイナはずっと近くで見てきた。
だからこそ。
無理をされる時も分かるようになっていた。
最初に異変を感じたのは、潮の匂いだった。
海に面した迎賓館なのだから、潮の匂いがすること自体は不思議ではない。
けれど、その時の匂いは違った。
濡れた木。
古い絹。
冷たい水。
そして、言葉にできないほど重い何か。
窓の外で波が大きくうねり、次の瞬間、冷たい水が会場へ流れ込んできた。
「水が……!」
悲鳴が上がる。
音楽が止まり、貴族たちが一斉に出口へ向かおうとした。
その瞬間だった。
姫様の顔が変わった。
先ほどまで舞踏会にいた人ではない。
現場を見る人の目になった。
隣に重なるように見える黒スーツ姿の魂も、同じ方向へ視線を向けている。
レイナは、それを見ただけで分かった。
この方は行く。
止めても行く。
人がいる限り。
助けられる者がいる限り。
自分の身体が追いつかなくても、絶対に前へ出る。
リュミエール国王が王族たちを奥の回廊へ逃がし始める。
その背中を見届けた姫様は、すぐに会場へ向き直った。
「こっちは動線や! ミレーヌ、右の扉が詰まっとる!」
「はい」
「バルド! 足の悪い者と子どもを左へ流せ!」
「承知しました」
そして。
「レイナ、俺を動かせ!」
胸の奥が大きく鳴った。
迷わなかった。
「ヒールですわ!」
淡い光が姫様の身体を包む。
本来なら、もう走れる状態ではない。
けれど魔法が、足を動かす。
呼吸を整える。
倒れそうになる身体を、もう一度前へ押し出す。
この身体では、姫様の意思に追いつかない。
なら。
私が追いつかせればいい。
この方が守りたい人を守れるように。
この方が立ちたい場所に立てるように。
私の力を使えばいい。
姫様は、水の中を走った。
転びかけた令嬢を止め、混乱して剣を抜いた貴族を怒鳴り、荷物を抱えたまま動けない商人へ指示を飛ばす。
「剣抜くな! 邪魔や! 令嬢は裾持て! 走るな、滑る! 商人、港へ出るな! 波が来とる!」
レイナはその後ろを追いながら、姫様の身体だけを見ているわけではなかった。
顔色。
呼吸。
足取り。
次に力が抜ける瞬間。
「ヒールですわ!」
「もう一度、ヒールですわ!」
「便利すぎるやろ!」
「姫様のためですわ!」
声だけ聞けば、いつものやり取りだった。
けれど、レイナにとっては違った。
姫様は今、自分の身体を私へ預けている。
この魔法が切れれば動けなくなると分かっていて、それでも私なら支えられると信じている。
それが嬉しかった。
ただ傍にいたいと願った。
その願いが今、形になっている。
窓の向こうには、いつの間にか見知らぬ船が現れていた。
破れた帆。
濡れた御簾。
泣き叫ぶ女房たち。
陰陽師の札。
狐火。
鬼。
天狗。
蛇の影。
西洋の舞踏会に、まるで違う時代そのものが流れ込んできたようだった。
海賊たちも動き、赤い霧と白い札がぶつかる。
黒い船が沈んでいく。
水は増え続ける。
誰が敵なのかすら、すぐには分からない。
それでも姫様は、迷わなかった。
戦う者を止め、逃げる者へ道を作り、行き場を失った者の話まで聞こうとしている。
敵か味方かを先に決めない。
まず、生かす。
その後で考える。
あぁ。
この方は、こういう人なのですわ。
だから私は。
この人を好きになった。
波が静まり始めた頃には、レイナ自身も全身が濡れていた。
髪は乱れ、ドレスの裾は重い。
いつもなら気になったかもしれない。
扇で口元を隠し、姿勢を整え、何事もなかったような顔を作ったかもしれない。
けれど今は、そんなことを考える余裕さえなかった。
「ヒールですわ!」
「まだ何も言うてへん!」
「どうせ走りますわ」
「読まれすぎやろ!」
また姫様が走っていく。
レイナも追う。
止めたい。
休ませたい。
でも。
今、この方を止めれば助けられない人がいる。
ならば。
倒れないように支える。
それが、今の私にできることだった。
やがて、波は完全に引いた。
死者はいなかった。
その報告を聞いた瞬間、レイナはようやく息を吐いた。
姫様も、ほんの少しだけ笑った。
「なら、まあええか」
それだけだった。
けれど。
レイナは、その横顔を忘れないと思った。
後始末まで終え、王宮へ戻る頃には、姫様の身体は限界だった。
馬車の中で背を預けている姿を見れば、ヒールで無理やり動かしていた反動が出ていることくらい分かる。
「姫様、お身体は」
「大丈夫や」
「大丈夫ではありませんわ」
そう言いながらも、レイナは手を伸ばして再び魔力を流した。
すると姫様は、しばらく黙ってこちらを見た。
「今日は、助かった。お前のヒールがなかったら、途中で倒れとった。人も逃がされへんかったし、現場も見られへんかった。この借りは、必ず返す」
一瞬。
何を言われたのか分からなかった。
胸が、ゆっくり熱くなる。
「姫様……?」
借り。
そんなつもりではなかった。
好きだから。
傍にいたかったから。
この方が助けたい人を、一緒に助けたかったから。
「借りなどと……私は、姫様のお傍にいたかっただけですわ」
「それでもや。助けてもろた恩は忘れん」
やっぱり。
この方はそういう人だった。
私が愛を告げた時も。
今日、私の魔法を受け取った時も。
受け取ったものを、当然のものにはしない。
自分へ向けられたものを、きちんと受け取って。
その分まで背負おうとする。
「では、いつか返していただきますわ」
「せやな」
「必ず」
「分かっとる」
レイナは、少しだけ笑った。
もう。
隠さなかった。
王宮へ戻ると、姫様をそのまま寝室へ連れていった。
「姫様、寝てくださいませ」
「報告が」
「明日ですわ」
「まだ」
「明日ですわ」
姫様が何か言おうとしたが、もはや身体の方が先に限界を迎えていた。
レイナが布団を整えると、姫様はしぶしぶ横になる。
それでも眠る直前まで、現場のことを気にしていた。
本当に。
この方は。
「おやすみなさいませ、姫様」
やがて寝息が聞こえ始める。
レイナはしばらくその顔を見てから、静かに部屋を出た。
王宮の廊下は、すっかり静かになっていた。
窓の向こうには、まだ夜が残っている。
戦いの音も。
悲鳴も。
波の音も。
もう聞こえない。
レイナは歩きながら、ふと右手を見る。
いつもの扇があった。
学園にいた頃から、ずっと持っていたもの。
笑われても。
陰で何を言われても。
悪役令嬢だと囁かれても。
これを開けば、顔を隠せた。
悔しい時も。
悲しい時も。
傷ついた時も。
口元を隠してしまえば、平然としていられた。
強い公爵令嬢でいられた。
誰にも弱いところを見せずに立っていられた。
レイナは足を止めた。
閉じた扇を、両手でそっと持つ。
「……今まで、ありがとうございました」
誰に聞かせるでもなく、静かに告げた。
嫌いだったわけではない。
この扇は、ずっと自分を守ってくれた。
必要だった。
あの頃の私には。
けれど。
今日は、一度も隠れることを考えなかった。
髪が乱れても。
ドレスが濡れても。
必死な顔をしていても。
姫様の前で、何も隠さなかった。
それでも、傍にいられた。
誰も私を笑わなかった。
誰も私を悪役令嬢だとは言わなかった。
私は、私のままで。
ちゃんと誰かの力になれた。
レイナは、ゆっくりと笑った。
「もう、私は私らしく、自由に生きますわ」
扇を、静かに屑籠へ落とす。
小さな音がした。
ただ、それだけだった。
それなのに。
長い間、自分の身体に巻きついていた何かが、ほどけたような気がした。
強く見せなくてもいい。
平気なふりをしなくてもいい。
嬉しい時は笑えばいい。
心配なら心配だと言えばいい。
好きなら、好きだと言えばいい。
そして。
守りたいものがあるなら、自分の意思で守ればいい。
悪役令嬢ではない。
誰かが決めた役でもない。
私は。
レイナだ。
翌日。
『朧月あやかし恋絵巻』の者たちへの事情聴取が始まった。
逃げ姫。
晴明。
怨霊。
あやかしたち。
そして、ベッドへ潜ろうとする空樹詠女。
「寝るな」
「王宮預かりって休暇じゃないんですか」
「違う」
「待遇の良い収容」
「保護や」
いつものように姫様が突っ込み、ミレーヌが黒革手帖を開く。
レイナは、その横に座っていた。
今日は、扇を持っていない。
誰も何も言わなかった。
けれど、それでよかった。
「まず聞く。お前ら、誰の命令で来た」
姫様の問いに、客間の空気が変わった。
詠女が丸眼鏡を直す。
「信長の命令です」
「……信長?」
「はい」
「フルネームは」
「織田信長です」
その名を聞いた瞬間。
姫様の顔から笑みが消えた。
レイナも自然と背筋を伸ばした。
織田信長。
海の向こう。
鎖国された日本。
自分には何の関係もないはずだった名前。
だが、詠女の話を聞くほどに、その認識は変わっていった。
新選組も。
今回流れ着いた平安の者たちも。
本来なら時代すら違う人間たちまで。
同じ男の命令で動かされている。
「命令を断ったら殺されます」
詠女は淡々と言った。
レイナの指先が、わずかに冷たくなる。
「……殺される?」
「はい。だから、だいたい従います」
それは国なのだろうか。
王が治める場所とも違う。
臣下が忠誠を誓って従っているわけでもない。
逆らえば殺されるから。
だから従う。
新選組も。
平安の者たちも。
時代を越えて。
物語を越えて。
その一人の男の命令から逃げられない。
「戦国武将の乙女ゲームも、日本の中にあると思います」
詠女の言葉に、姫様が目を細めた。
戦国。
その中心にいるのが。
織田信長。
レイナは黙って話を聞いていた。
昨日の波が怖くなかったわけではない。
目の前で船が沈み、床へ水が流れ込み、怨霊とあやかしが現れた時、本当は怖かった。
それでも。
あれは目に見える恐怖だった。
どこから波が来るのか分かる。
誰が傷ついているのか分かる。
自分にできることも分かった。
けれど。
今、海の向こうにいる男は違う。
姿も見えない。
声も聞こえない。
それなのに。
命令だけが海を越えてくる。
人を動かし。
逆らう者を殺し。
時代の違う人間たちまで、自分の手の中へ入れている。
怖い。
レイナは、初めてそう思った。
そして、その気持ちを隠そうとはしなかった。
扇は、もうない。
怖いものは、怖い。
恐ろしいものは、恐ろしい。
それでいい。
姫様が、いつか向き合う相手。
海の向こうにいるはずなのに。
その存在は、ひどく近く感じられた。
織田信長。
その名を。
レイナは、この時初めて恐ろしいと思った。




