第8話 傍にいたいということ
グランヴェール王国が、リュミエール王国の傘下に入った。
その知らせを聞いた時、私はすぐに言葉を返すことができなかった。
グランヴェール。
世界でもっとも大きな力を持つと言われる国。
海を持ち、軍を持ち、貿易を握り、多くの国から一目置かれている大国。
けれど、私にとってその名は、そんな華々しいものではなかった。
私を否定した国だった。
私の婚約が破棄された時、あの国の王は私の言葉を聞こうとはしなかった。
私がなぜ姫様へ厳しい言葉を向けたのか。
なぜ必要な書類を作り、周囲へ注意し、学園でやるべきことをやるよう求めたのか。
その理由を知ろうとはしなかった。
悪役令嬢。
嫉妬深い令嬢。
王子の恋路を邪魔する女。
周囲がそう呼べば、それが答えになった。
私は、それがずっと悔しかった。
嫌いだった。
憎かったのだと思う。
けれど、その国の王が。
今、自らリュミエール王国の傘下へ入った。
姫様が手にしていたのは、国王陛下から届いた一通の手紙だった。
驚くほど簡素な紙を見つめながら、姫様の傍らに見える黒いスーツ姿の清司様が、低く呟く。
「……オヤジやりよった……」
その声を聞いて、私はようやく実感した。
本当に、何かが起きたのだ。
誰かに強制されたのだろうか。
世界一と言っても過言ではない大国が傘下へ入るなど、普通なら簡単に決まることではない。
ましてや、あの国王だ。
誇りが高く、国の格を何より大切にする方だった。
私は姫様へ尋ねた。
「国王陛下は、何をなさったのでしょう」
清司様は少しだけ黙った。
手紙には、そこまで詳しいことは書かれていないのだろう。
それでも、その目に迷いはなかった。
「オヤジは無理やり傘下に入れたりせん、多分オヤジの器に惚れてグランヴェール国王も本気で変わりたいって思ったんやと思う」
胸の奥が、わずかに揺れた。
変わりたい。
あの方が。
私を見ようともせず、すでに決められた答えを選んだあの国王が。
本気で、変わりたいと思った。
「俺も俺の実の親父もオヤジに惚れて頑張って生きてきたからな」
それは、とても静かな言葉だった。
けれど私は、その一言を簡単には聞き流せなかった。
この方が、誰かに惚れる。
その言葉には、恋愛とはまったく違う重さがあった。
生き方を認めること。
その人についていこうと決めること。
自分の人生まで預けられるほど、その人を信じること。
清司様が国王陛下を見る目には、それだけのものがある。
だからこそ分かった。
もしグランヴェール国王が、自ら傘下へ入ったのなら。
きっと、あの方も何かを見たのだ。
肩書きではなく。
国力でもなく。
一人の人間として、リュミエール国王という方を見た。
「人はいつでも変わろうと思えば変われる、ノエルなんてわかりやすく変わってきたやろ」
私は返事をせず、少しだけ視線を落とした。
ノエル様。
確かに、あの方は変わった。
以前は、自分を見てほしいという気持ちがとても強かった。
もっと自分を見てほしい。
もっと自分を優先してほしい。
自分だけを特別にしてほしい。
けれど、今は違う。
自分ではない誰かを見ようとしている。
孤児院の子どもたちが何を食べているのか。
何に困っているのか。
何をすれば喜ぶのか。
その目が、自分の外へ向き始めている。
本当に。
人は変わるのだ。
だったら。
グランヴェール国王も、変われるのかもしれない。
そう考えた時、自分でも驚くほど心が静かだった。
許したわけではない。
あの日のことが消えたわけでもない。
傷つかなかったことにもならない。
それでも。
あの方が今、過去とは違うものを選ぼうとしているのなら。
私は、それまで否定したいとは思わなかった。
過去に私を見なかった人を。
今度は私が、過去だけで決めつける必要はない。
そのことに気づいた時、胸の奥に長く残っていたものが、ほんの少しだけほどけた気がした。
午後には、姫様たちと一緒にパン工場へ向かった。
貧民街の外れまで来ると、遠くからでも人の声が聞こえた。
荷車が行き交い、木材が運び込まれ、工場の周囲では新しい建物まで作られ始めている。
少し前まで、ここは仕事を求める人ばかりが集まる場所だった。
働きたくても働く場所がない。
腕があっても見つけてもらえない。
今日を生きるだけで精一杯で、明日のことまで考えられない。
そんな人たちが大勢いた。
けれど今は、人が動いている。
働いている。
誰かから指示されるだけではなく、自分の仕事を持っている。
その光景を見るたびに思う。
この国は、本当に変わり始めている。
工場へ入ると、焼きたてのパンの香りが広がっていた。
ロアンさんが職人たちへ何かを教え、その少し離れた場所ではマーガリンおじさんが生地を確かめている。
メガネ聖女さんは相変わらず真剣な顔で記録を取り、グランヴェールから来た料理人や商人たちも、その仕事を食い入るように見ていた。
私は、マーガリンおじさんの手を見た。
スギナさんから聞いた話を思い出す。
店を持つこともできなかった。
材料を集めることすら簡単ではなかった。
それでも、貧民街の子どもたちが笑ってくれるからと、ずっと一人でパンを焼いてきた。
誰にも評価されなくても。
誰にも名前を知られなくても。
その手は、ずっと誰かのために動いていた。
姫様の前へパンが差し出された。
清司様は、それを見ながら一言だけ言った。
「パン美味いやろ、生き様が全部入っとる」
胸が熱くなった。
あぁ。
やっぱり、この方はそうなのだ。
見ているのは、パンではない。
美味しいかどうかだけでもない。
そこへ辿り着くまで、その人が何をしてきたのかを見ている。
貧民街の男。
店を持てなかった職人。
そんな言葉では終わらせない。
何年も諦めずに焼き続けたこと。
子どもたちの笑顔を大切にしてきたこと。
その全部を見ている。
だから、この方は人を拾えるのだ。
誰にも見つけてもらえなかった人を見つけられる。
そして。
たぶん。
私のことも、最初からそうやって見てくれた。
少し離れたところから、ノエル様がやって来た。
手には柔らかな白パンを持っていた。
孤児院の子どもたちへ届けたいのだと、嬉しそうに話している。
以前のノエル様なら、自分がどう思われるのかを先に気にしていたかもしれない。
けれど今は、子どもたちが喜ぶ顔のことばかり考えている。
清司様は、そんなノエル様を見た。
「よく見れるようになったな」
ノエル様の顔がぱっと明るくなる。
「子供たち喜ぶやろな」
それだけだった。
けれど、ノエル様は本当に嬉しそうだった。
褒められたからではない。
自分が見たものを、認めてもらえたからだ。
その顔を見ながら、私は改めて思った。
変わったのだ。
本当に。
グランヴェール国王も。
ノエル様も。
ロイヤルフラグメントの皆様も。
この国も。
そして。
私も、きっと。
以前の私は。
もっと、正しさにしがみついていた。
やるべきことはやる。
間違っていることは間違っていると言う。
必要なものは準備する。
誰かが困らないよう、先に動く。
それ自体は、今も間違っていたとは思わない。
けれど。
私はずっと、自分の気持ちだけは置き去りにしてきた。
どう思われてもいい。
嫌われてもいい。
必要なことだけできればいい。
そんなふうに考えていた。
本当は違った。
見てほしかった。
分かってほしかった。
私が誰かを傷つけたいから言っているのではないことを。
私なりに考え、誰かが困らないように動いていたことを。
一度くらい。
ちゃんと見てほしかった。
けれど、それを言うことはなかった。
言ったところで仕方がないと思っていた。
そんな私を。
清司様だけは、最初から見た。
悪役令嬢という言葉を信じなかった。
私が何をしたのかを見て。
何を考えていたのかを聞いて。
そのうえで、私を信用してくださった。
仕事を任せてくださった。
立つ場所を作ってくださった。
私は。
それが嬉しかったのだ。
ずっと。
だから、好きになった。
黒いスーツ姿が凛々しかったから始まった気持ちは、もうとっくにそれだけではなくなっていた。
人を見ているところ。
弱い立場の者を、弱いままで決めつけないところ。
できる者へ場所を渡し、責任だけは自分が持とうとするところ。
誰かが変わろうとするなら、過去だけを見て切り捨てないところ。
全部。
好きだった。
姫様の姿も。
魂として見える清司様の姿も。
どちらかを選んで好きなのではない。
この方そのものが好きだった。
工場を出る頃には、空が少し赤くなっていた。
まだ中では人の声が続いている。
新しいパンの話。
運び方の話。
働く人を増やす話。
今日もまた、誰かの明日が作られている。
私は、少し先を歩く姫様を見た。
その傍らには、黒いスーツ姿の清司様がいる。
この気持ちを。
ずっと自分の中だけに置いておこうと思っていた。
好きでいるだけでいい。
傍にいられるだけでいい。
そう思っていた。
でも。
今日、グランヴェール国王のことを聞いた。
人は、変わろうと思えば変われる。
信じる相手を、自分で選び直すこともできる。
だったら。
私も。
自分の気持ちを、なかったことにしなくてもいい。
答えを求めたいわけではない。
何かを約束してほしいわけでもない。
ただ。
この方には知っていてほしい。
私は、自分の意思でこの方を好きになったのだと。
「姫様」
呼び止めると、姫様が振り返った。
「お話があります」
清司様の表情が変わった。
さっきまで現場を見ていた目が、まっすぐ私へ向く。
「どうした?」
その一言に。
もう逃げられないと思った。
いいえ。
逃げたくないと思った。
扇を持つ指へ、少しだけ力が入る。
それでも、目は逸らさなかった。
「私は、姫様が好きです」
言った。
ずっと胸の中に置いていたものを。
初めて、自分の声で。
「最初は、清司様のお姿を見て驚きましたわ」
黒いスーツ姿へ目を向ける。
刀を持ち、姫様とはまるで違う姿をしている。
けれど。
もう私には、違う人には見えない。
「けれど今は分かっております。こちらのお姿も、姫様のお姿も、どちらもあなた様ですもの」
もう、声は震えていなかった。
「性別がどうであれ、お姿がどうであれ、私はあなた様が好きです」
胸の奥にあった言葉が、ひとつずつ外へ出ていく。
「私が好きなのは、清司様という方です」
姫様は、何も言わない。
でも。
目を逸らさなかった。
困ったように笑うことも。
冗談で流すことも。
話を変えることもしない。
ただ、まっすぐ。
私の言葉を聞いている。
だから。
最後まで言えた。
「私は、これからもあなた様のお傍にいたいですわ」
静かになった。
遠くで、人の声が聞こえる。
荷車の車輪が石を踏む音。
工場から流れてくるパンの香り。
夕方の風が、髪を揺らした。
清司様は。
しばらく何も言わなかった。
けれど、その沈黙から逃げるようなものは何も感じなかった。
むしろ。
受け取った言葉の重さを、そのまま持っているように見えた。
そして。
まっすぐ私を見る。
「お前は必要や」
胸の奥が、強く鳴った。
甘い声ではなかった。
恋を囁くような目でもなかった。
それでも。
その目を見た瞬間、分かった。
この方は。
私の気持ちを軽く扱っていない。
私が本気で傍にいたいと伝えたことを。
そのまま受け止めている。
「これからも傍におってくれ」
その目には、覚悟があった。
責任があった。
私を傍に置くということを、一時の感情で言っているのではない。
今日だけでも。
都合のいい時だけでもない。
この先も。
私がこの方の傍にいる未来まで見た上で。
その存在を受け入れている。
私には、それが分かった。
「……はい」
それしか言えなかった。
でも。
それでよかった。
私が差し出した愛と。
この方が私へ返してくださった愛は。
同じ形ではなかった。
それでも。
確かに、そこには愛があった。
私の本気の愛の告白を、姫様は逃げずに真正面から受け取ってくださった。
ただ、私とこの方の愛の形は違った。
今は、それだけで充分だった。




