第7話 守るということ
輝宗に「人を見ろ」と言われてから、梵天丸は地図を見る時の癖が少し変わった。
以前なら、山を見る。川を見る。城を見る。どこから攻めれば勝てるのか、どこを取れば領地が広がるのか、どこへ兵を置けば守れるのか。そんなことばかり考えていた。
けれど最近は、その道を誰が通るのか、その川の水を誰が使うのか、その土地で誰が何を作っているのかまで考えるようになっていた。
「若君」
「なんだ」
「本日は城下をご覧いただきます」
「城下?」
「はい。殿からのお申し付けです」
「親父から?」
「左様でございます」
梵天丸は机に広げていた地図から顔を上げた。
「何しに行くんだ」
「見るために」
「何を」
「人を」
「…………」
すぐに分かった。
「親父だな」
「殿です」
「分かってるよ」
少しだけ面倒そうな顔をしながら、それでも梵天丸は立ち上がった。
城の中で学べることは多い。書物も、兵法も、政も、家臣たちから教わることもある。けれどその日、梵天丸が連れて行かれたのは、書物の中にはない場所だった。
城下の道。市場。鍛冶場。農村。川沿いの水場。
いつも遠くから見ていた領地の中を、自分の足で歩く。
「若様!」
市場へ入った途端、何人もの者が頭を下げた。
梵天丸は少しだけ眉を寄せた。
「頭上げろ」
「へ?」
「そのままだと何も見えねぇ」
言われた者たちは、おそるおそる顔を上げた。
野菜を並べる女。魚を運ぶ男。布を売る商人。荷を背負う老人。走り回る子ども。
全員、梵天丸が地図の上で見ていた「民」だった。
けれど地図には、誰の顔も描いていない。
「これ、どこから来た」
梵天丸が野菜を指さす。
「東の村からでございます」
「毎日?」
「いえ。道がぬかるみますと、荷車が通れませんので」
「雨の日は来られねぇのか」
「はい」
「じゃあ、その間どうする」
「近くで採れるもので」
「足りるのか」
「……足りない時もございます」
梵天丸は黙った。市場へ来る途中に通った道を思い出す。少し低くなった土地で、雨が降れば水が溜まりそうだった。
「道を上げればいいんじゃねぇの」
付き添っていた家臣が答える。
「費用がかかります」
「どれくらい」
「石と人手が必要になります」
「直したら、何が増える」
「荷の往来が増えます」
「市場も?」
「はい」
「じゃあ税も増えるだろ」
家臣が少し驚いた顔をした。
「……左様でございます」
「なら、金使って終わりじゃねぇじゃん」
「はい」
「親父に言う」
「若君」
「なんだ」
「まず、ご自身でお考えになってからお伝えください」
「考えてるだろ」
「もう少し」
「めんどくせぇな」
「ですが」
「楽しいんだろって?」
「はい」
「……まあな」
市場を出て、次に向かったのは鍛冶場だった。
かん、かん、と金属を叩く音が響いている。火は赤く、職人たちの額から汗が落ちる。
梵天丸は刀そのものより、刀を作る者の手を見た。
太い指。火傷。細かな傷。
「それ、一日に何本作れる」
職人が驚いて顔を上げた。
「刀でございますか?」
「槍でもいい」
「物によりますが……」
「兵増やすなら、武器も増やさないと駄目だろ」
「はい」
「でも、お前ら倒れたら作れねぇよな」
「……はい」
梵天丸は鍛冶場の奥を見る。火の近くは暑く、水桶はあるが、休める場所は狭い。
「ここ、ずっと暑いのか」
「鍛冶場ですので」
「分かってる」
「申し訳ございません」
「謝れって言ってねぇよ」
梵天丸は少し考えた。
「交代できねぇの?」
「交代?」
「ずっと同じ奴が火の前にいたら倒れるだろ」
職人たちが顔を見合わせる。
「仕事を覚えている者が少なく……」
「じゃあ教えろよ」
「若君」
「一人しかできねぇ仕事って、その一人死んだら終わるだろ」
静かになった。
梵天丸はその反応を見て、少しだけ首を傾げた。
「違うのか?」
「……いいえ」
年長の鍛冶職人が、ゆっくり頭を下げた。
「おっしゃる通りでございます」
「じゃあ増やせ」
「はい」
「若いやつに教えろ」
「はい」
「教える時間ないなら、作れ」
「何をでございますか?」
「教える時間」
「…………」
「全部一気にやろうとするから無理なんだろ」
職人は少しだけ笑った。
「若君は、不思議なことをおっしゃいますな」
「どこが」
「我らは、仕事を止めぬことばかり考えておりました」
「止めたら困るだろ」
「はい」
「でも倒れても止まるだろ」
「……左様でございます」
「じゃあ、止めないために少し止めろ」
職人はしばらく黙ったあと、深く頭を下げた。
「覚えておきます」
梵天丸はその言葉を聞きながら、父の言葉を思い出していた。
自分一人が強ければいい、では足りない。
国ごと強くしろ。
あの時は、分かったような気がした。けれど今、少しだけ本当の意味が見えた気がした。
兵が強くても、刀を作る者が倒れれば戦えない。農民が畑を捨てれば食えない。道が潰れれば物は運べない。商人が来なければ金も動かない。
国は、城だけではできていない。
強い武将が一人いればできるものでもない。
そのあと、梵天丸は農村へ向かった。
城下から少し離れただけで景色は変わった。畑。田。細い道。低い家。子どもが土の上を走り、女たちが水を運び、男たちは畑へ入っている。
「今年はどうだ」
梵天丸が聞くと、農民の男は困ったように頭を下げた。
「悪くはございません」
「悪くは、ってことは良くもねぇんだろ」
「……雨次第でございます」
「水は?」
「川から引いておりますが、遠い畑までは」
梵天丸は川を見た。畑を見る。地面を見る。
「ここ掘ったら駄目なのか」
「若君?」
「水の道」
「用水でございますか」
「名前は知らねぇ」
「ございます」
「作れる?」
「人手があれば」
「作ったらどれくらい楽になる」
農民たちが顔を見合わせる。
「……かなり」
「じゃあ、やればいいじゃん」
付き添っていた家臣が苦笑した。
「若君。何事も、すぐにはできませぬ」
「分かってるよ」
「費用も、人手も、時期も必要です」
「だから聞いてんだろ」
梵天丸は家臣を見る。
「何人いる」
「はい?」
「今、この村に働ける奴何人いる」
「確認いたします」
「農作業止めたら意味ねぇから、暇になる時期は」
「冬場でございます」
「じゃあ冬?」
「雪が」
「じゃあ、その前」
「若君」
「なんだよ」
「楽しそうですな」
「うるせぇ」
梵天丸は顔を逸らした。けれど、少しだけ笑っていた。
その時、小さな子どもが近づいてきた。手には、泥だらけの小さな芋を持っている。
「若様」
「なんだ」
「これ」
差し出される。
「くれんの?」
「うん」
「なんで」
「若様だから」
「それ理由になってねぇだろ」
子どもは笑った。
「いっぱい取れたから!」
「いっぱい?」
「今日は!」
梵天丸は芋を受け取った。小さい。土がついている。城で出される料理とは、まるで違う。
「これ、お前が取ったのか」
「うん!」
「うまい?」
「うまい!」
「じゃあ食う」
「ほんと?」
「もらったからな」
子どもが嬉しそうに笑った。
梵天丸はその顔を見て、なんとなく、昨日まで地図の上にあった土地が少しだけ違って見えた。
ここを取れば領地が増える。
そう思っていた。
でも。
土地を取るということは、この子どもも、この畑も、水を運ぶ女も、鍛冶場で汗を流す男も、市場へ野菜を運ぶ者も、全部背負うということなのかもしれない。
「若君?」
付き添いの家臣が声をかけた。
「……なあ」
「はい」
「戦って勝ったら」
「はい」
「負けた方の土地も、こういう奴らがいるんだよな」
「もちろんでございます」
「そいつらは?」
「新たな領主に従うことになります」
「俺が取ったら?」
「若君が、守ることになります」
梵天丸は手の中の芋を見た。
「勝つだけじゃ駄目じゃん」
「はい」
「取ったあと」
ゆっくり顔を上げる。
「ちゃんと食わせないと駄目なんだな」
家臣はすぐには答えなかった。それから、静かに頭を下げた。
「左様でございます」
その日の夜、梵天丸は父の部屋を訪ねた。
「親父」
「戻ったか」
「戻った」
「どうだった」
「疲れた」
「それだけか」
「腹減った」
「それだけか」
「……めんどくせぇな」
輝宗は笑った。
「何を見た」
「人」
「そうか」
「市場も」
「うむ」
「鍛冶場も」
「うむ」
「畑も」
「うむ」
「道も」
「うむ」
「水も」
「うむ」
「……親父」
「なんだ」
「国って」
梵天丸は少し考えてから言った。
「めんどくせぇな」
輝宗は一瞬黙って、それから声を上げて笑った。
「何笑ってんだよ!」
「いや」
「こっちは真面目に言ってんだぞ!」
「分かっている」
「全然分かってねぇだろ!」
「いや。よく分かったようだ」
輝宗は笑いを収め、梵天丸を見る。
「強いだけでは、国は治まらん」
「うん」
「勝つだけでも足りん」
「うん」
「取れば、守らねばならん」
「……うん」
「守れば、食わせねばならん」
「うん」
「道を作り、水を通し、仕事を与え、人を育て、その上で」
輝宗は静かに言った。
「戦う」
梵天丸は父を見る。
「逆じゃねぇの?」
「何がだ」
「戦ってから、国作るんじゃねぇの?」
「それでは遅い」
「…………」
「戦う前から、国はある」
輝宗は机の上の地図へ手を置いた。
「敵の土地にも、人がいる」
「……うん」
「兵にも、家族がいる」
「うん」
「勝てば終わりではない」
「…………」
「だから、戦は軽く始めるものではない」
梵天丸は少しだけ黙った。
「でも」
「なんだ」
「やる時はやるんだろ」
「ああ」
「取らなきゃ守れねぇ時もある」
「ある」
「戦わなきゃ潰される時も」
「ある」
「じゃあ」
梵天丸は地図を見る。
「その時は、勝つ」
「そうだ」
「勝って」
「うむ」
「そのあとも、ちゃんとやる」
輝宗がゆっくり笑った。
「それができれば」
「なんだよ」
「良い当主になれる」
「まだなってねぇよ」
「いずれなる」
「またそれかよ」
「何度でも言う」
「吉法師と同じこと言うな」
輝宗の目が動いた。
「吉法師?」
「…………」
「誰だ」
「知らねぇ」
「今言っただろう」
「知らねぇ」
「梵天丸」
「寝る!」
「待て」
「眠い!」
「天下を取り合う相手か?」
「なんで分かるんだよ!」
輝宗は、また笑った。
「親父!」
「悪い悪い」
「笑うな!」
「だが」
輝宗は少しだけ真面目な顔へ戻った。
「天下を狙うのであれば、なおさら覚えておけ」
「何を」
輝宗の指が地図をゆっくりなぞる。
「天下は、土地の数ではない」
梵天丸はその指先を見る。
「そこにいる人間の数だ」
静かだった。
梵天丸は何も言わなかった。今日見た人たちが頭に浮かぶ。市場の女。鍛冶職人。農民。芋をくれた子ども。
「……分かった」
小さく答えると、輝宗はそれ以上何も言わなかった。
翌朝、梵天丸はまた地図を開いていた。
けれど、昨日までとは少し違う。
城の印の向こうに、人を見る。
道の向こうに、荷車を見る。
川の向こうに、畑を見る。
土地の向こうに、暮らしを見る。
天下を取る。その気持ちは変わらない。吉法師より先に、自分が取る。それも変わらない。
ただ、以前より少しだけ。
天下というものが、重くなった。
「若君」
部屋の外から家臣の声がした。
「なんだ」
襖が開く。入ってきた家臣の顔は、いつもより硬かった。
「殿より、お話がございます」
梵天丸は顔を上げる。
「親父から?」
「はい」
一拍置いて、家臣は深く頭を下げた。
「若君」
梵天丸の目が静かに細くなる。
「初陣の支度を」
「……来たか」
地図の上には、昨日までと同じ山があり、同じ川があり、同じ道がある。
けれどもう、ただの線には見えなかった。
その向こうにも、人がいる。
それを知った上で。
梵天丸は初めて、戦場へ立つことになる。




