第6話 名前のない恋
姫様が変わってから、学園の空気も少しずつ変わっていた。
以前は、誰が誰の隣に座るのか、誰が誰を見ているのか、どの花を誰が渡すのか。そんなことで騒ぐ者が多かった。
けれど今は、皆それぞれに授業へ出て、仕事をして、自分の持ち場へ戻っている。
王子も、公爵も、貴族も。
誰か一人を中心に動くのではなく、それぞれが自分のことをするようになった。
私は、その変化が好きだった。
だからこそ。
廊下の中央で立ち止まり、何人もで話し込んでいる令嬢たちを見ると、どうしても気になってしまう。
「そちら」
三人の令嬢が、びくりと振り返った。
「そこで立ち止まらないでくださいませ。通行の妨げですわ」
「あ……申し訳ありません、レイナ様」
「お話をなさるのであれば、端へ寄ってください。ここは人が通る場所です」
「はい……」
三人は慌てて壁際へ移動した。
私はそれを確認して、そのまま歩こうとする。
けれど。
「……やっぱり怖いわね」
「言い方が……」
小さな声が聞こえた。
また。
昔から、よく言われる。
怖い。
高慢。
冷たい。
言い方がきつい。
けれど。
廊下の中央で立ち止まれば、人が詰まる。
車椅子を使う方もいる。
足の悪い方もいる。
少し身体が弱いだけで、人混みを避けなければならない方もいる。
今なら。
姫様のように。
少し横へ寄るだけで済む話なのに。
「レイナー!」
明るい声が飛んできた。
振り返ると、セシル様がこちらへ歩いてきていた。
いつものように人懐っこい笑顔を浮かべ、私の前を通り過ぎようとしていた令嬢たちへ、ぱっと手を振る。
「レイナは君たちのことも思って言っただけだよー!」
「セシル様?」
「君に届け! レイナの優しさー!」
「大げさですわ」
令嬢たちが目を丸くしている。
セシル様は気にせず続けた。
「レイナのこと怖いって、僕たちも思ってないし、リリアーナも思ってないよ!」
「セシル様」
「だって本当に危ないもん。人がいっぱい通るところで止まってたら、誰かぶつかるかもしれないでしょ?」
三人の令嬢たちは、少しだけ顔を見合わせた。
「……そういう意味だったのですね」
「そうだよー!」
「申し訳ありませんでした、レイナ様」
「謝る必要はありませんわ。次から気をつけてくだされば、それで結構です」
「はい」
三人は今度こそ頭を下げ、歩いていった。
「セシル様」
「なぁに?」
「少々、大げさですわ」
「でも届いたでしょ?」
「……まあ」
「じゃあいいじゃーん!」
セシル様は笑った。
本当に。
この方は、こういうところが上手い。
私では強くなってしまう言葉を。
柔らかく届ける。
「ありがとうございます」
「えへへ!」
「ただし」
「うん?」
「『君に届け』は、もう結構ですわ」
「えー! いい言葉なのにー!」
「十分届きました」
「じゃあ成功だね!」
セシル様は満足そうに笑い、そのまま校庭の方へ走っていった。
「走らないでくださいませ!」
「はーい!」
返事だけは良い。
少しだけ。
笑ってしまった。
その時だった。
「レイナ!」
今度はエミール様が、慌てた様子でこちらへ走ってきた。
「今日は本当によく走る方ばかりですわね」
「大変なの!」
「なんですの?」
「リリアーナが恋してるかもしれない!」
「…………」
私は止まった。
「誰が?」
「リリアーナ!」
「誰と?」
「分かんない!」
「…………」
姫様が。
恋。
誰かと。
「……誰ですの」
「だから分かんないの!」
「何も分からないのに、なぜそのような話になっていますの?」
「学園で噂になってるの!」
私は扇を開いた。
落ち着きなさい。
姫様が。
誰かを。
毎朝待って。
見つめ合って。
…………。
「姫様は、そのような暇はありませんわ」
「まだ何も言ってないよ!」
「ありません」
「でもね、毎朝誰かが誰かを待ってるって!」
「誰かが誰かを」
「それから、落とし物!」
「落とし物?」
「廊下で見つめ合ってるって話もあるよ!」
私は少し考えた。
「姫様ではありませんわね」
「なんで分かるの?」
「姫様なら、誰かを待っている間に仕事を一つ終わらせます」
「…………」
「たしかに!」
「納得するのですね」
エミール様は勢いよく頷いた。
「でも気になるよね!」
「気にはなりますわね」
「じゃあ調べよう!」
「なぜそうなるのです?」
「もうみんな聞いてるよ!」
「早いですわね」
結局。
私まで聞き込みに付き合うことになった。
エリオット様。
レオン様。
アレクシス様。
ルシアン様。
セシル様。
ノエル様。
聞けば聞くほど、情報は増えた。
毎朝。
廊下。
落とし物。
リボン。
待っている。
見つめ合う。
けれど。
姫様へ近づく人物の影は、一向に出てこない。
途中でノエル様は、恋愛の噂よりパンの話に夢中になり。
孤児院の子どもたちが、硬いパンを水やスープでふやかして食べていることに気づいた。
姫様は、それを責めなかった。
「子どもら、喜んでたんやろ」
「うん」
「それは間違ってへん」
ノエル様の顔を見ながら、姫様は続けた。
「でも、もっと見ろ」
柔らかいパン。
小さな子どもでも、そのまま食べられるパン。
もっと喜ばせられるものがある。
姫様は。
ノエル様の見てきたものを否定せず。
その先を見せていた。
まただ。
この方は。
いつもそう。
その人が間違っていると切り捨てるのではなく。
まだ見えていないものを、見せる。
そして。
翌朝。
噂の正体は、あっさり見つかった。
廊下の端に、一人の男子生徒が立っていた。
手には、小さなリボン。
そこへ。
一人の女子生徒がやって来る。
王族ではない。
公爵家でもない。
攻略対象でもない。
どちらも。
名前すら知らない生徒だった。
「……おはよう」
「お、おはよう」
男子生徒が、リボンを差し出した。
「これ。君が落としたリボン」
「そんな……わざわざ毎朝、待っていてくれたの?」
「違うよ」
「え?」
男子生徒が少しだけ笑った。
「リボンを返す理由で、君に会いたかっただけだ」
甘い。
とても甘い。
けれど。
嫌ではなかった。
「もう……ばか」
女子生徒が顔を赤くする。
「その“ばか”を聞けるなら、何度でも待つよ」
私は黙った。
その横で。
ミレーヌさんのペンも止まっている。
「お前らやったんかい!」
姫様の声が廊下へ響いた。
二人が飛び上がった。
「リ、リリアーナ様!?」
「申し訳ありません!」
「謝らんでええ」
姫様は困ったように息を吐いた。
それから。
二人を見て、少しだけ笑った。
「……でも、ええことや」
声が柔らかかった。
「今まで、王子や公爵や貴族ばっかり目立っとった。モブは背景で、恋愛する空気もなかったんかもしれん」
姫様の隣には。
刀を肩に担いだ、黒スーツ姿の清司という人が立っている。
「堂々とモブが青春してるって、ええことやんけ」
私は。
二人を見た。
たしかに。
少し前までの学園では。
こんなふうに。
大人しい生徒たちが、自分たちの恋を楽しむ空気など、なかったのかもしれない。
誰が姫様の隣に立つのか。
誰が攻略対象とイベントを起こすのか。
誰が誰を好きなのか。
皆。
姫様と攻略対象たちばかりを見ていた。
けれど。
姫様が。
清司という人になってから。
学園も。
王宮も。
国も。
少しずつ。
ちゃんと回り始めた。
仕事をする人が仕事をして。
休むべき人が休んで。
働く人が働いて。
恋をしたい人が。
自分の恋をする。
名前がなくても。
主役でなくても。
誰かを好きになっていい。
幸せになっていい。
私は。
姫様の隣に立つ清司という人を見た。
この人は。
誰かが物語の中心にいるかどうかなど。
最初から見ていない。
できる人を見つける。
頑張っている人を見つける。
誰かのために動いている人を見つける。
背景にいた人を。
ちゃんと、人として見る。
「……素敵ですわね」
思わず、声に出た。
「ん?」
姫様がこちらを見る。
「何でもございませんわ」
「そうか?」
「はい」
私は扇を開いた。
まだ。
言わない。
けれど。
好きでいることくらい。
許してもいいのかもしれない。
その日の放課後。
私は、貴族御用達の繁華街にあるカフェへ向かった。
大通り沿いに並ぶ店の中でも、特に令嬢たちに人気のある店だった。
大きな窓。
白いテーブルクロス。
金の縁取りがされた食器。
季節の花。
店内には貴族の令嬢や夫人たちが多く、落ち着いた音楽が流れている。
窓際の席では。
スギナさんが、すでに紅茶を前に待っていた。
「レイナさん!」
「お待たせしました」
「全然です!」
私が向かいに座ると、スギナさんは待ちきれないように身を乗り出した。
「聞いてください!」
「今日は何ですの?」
「また、すごい方が見つかったんです!」
「また?」
「はい!」
「今度はどなたですの?」
スギナさんは目を輝かせた。
「マーガリンおじさんです!」
「…………」
少しだけ考えた。
「お名前から、かなり気になりますわね」
「本名はマルガンさんです!」
「近いですわね」
「子どもたちが言い間違えて、マーガリンおじさんになったんです!」
「まあ」
思っていたより、ずっと可愛らしい由来だった。
「でも、本当に素晴らしい方なんです!」
「そうなのですか?」
「はい! 白パンも、クロワッサンも、フランスパンも作れて、ロアンさんが一流の腕だって!」
「まあ。それは素晴らしいですわね」
「白パンはふわふわで、クロワッサンは外がサクサクしてて、フランスパンは外がカリッとしてるのに中がもちもちなんです!」
「……随分と美味しそうですわね」
「美味しいらしいです!」
「まだ召し上がっていないの?」
「まだなんです!」
「珍しいですわね」
「私は王宮のモビーズ本部にいますので!」
「なるほど」
スギナさんは少し残念そうにしたあと、すぐに笑顔へ戻った。
「でも、私が一番すごいと思ったのは、そこじゃないんです」
「ほかにも?」
「はい」
声が少しだけ柔らかくなる。
「マーガリンおじさん、お店を持つお金もなかったんです」
「……そうなのですか」
「貧民街で、材料を集めるのだって大変だったのに」
スギナさんは胸の前で手を組んだ。
「子どもたちが笑ってくれるからって、一人でずっとパンを焼いてたんです」
私は。
少し黙った。
貧民街で。
店もなく。
十分な材料もなく。
立派な窯もなく。
それでも。
子どもたちの笑顔のために。
一人で。
何度も。
何度も。
焼き続けた。
「……材料を揃えるだけでも、大変だったでしょうに」
「はい」
「それでも、子どもたちのために?」
「はい!」
「…………」
胸の奥が、少し熱くなる。
「本当に」
私はゆっくり言った。
「素晴らしい方ですわね」
「ですよね!」
スギナさんが、嬉しそうに笑った。
「今はパン工場で、貧民街の方たちに作り方を教えているみたいです!」
「まあ」
「新しく雇われた方たちもたくさんいるんです! モビーズから派遣された方たちも、工場で一緒に教えてるみたいです!」
「そうなのですね」
「はい!」
葉巻と煙草の工場で。
仕事を覚えた人たちが。
今度は次の人たちへ教える。
一人ができるようになって。
次の一人へ渡す。
仕事が。
繋がっていく。
「姫様は」
私は小さく笑った。
「また、見つけたのですね」
「はい!」
「誰にも見つけてもらえなかった方を」
「はい!」
スギナさんは何度も頷いた。
「ロアンさんも、そうですよね」
「ロアンさん?」
「王宮の厨房で、下積みをしていた方ですわよね」
「はい!」
「自分の賄いを工夫して作っていて、姫様がそれを見つけた」
「そうです!」
「マーガリンおじさんも」
「はい!」
「姫様は、本当に」
私は窓の外を見た。
「人を見つけるのがお上手ですわね」
「すっごく上手です!」
スギナさんが笑う。
私も少しだけ笑った。
すると。
スギナさんが急に視線を落とした。
「……でも」
「なんですの?」
「私、ちょっと前に怒られちゃったんです」
「姫様に?」
「はい……」
しょんぼりしている。
「何をなさったの?」
「パードさんたちと、パンを作っていたんですけど」
「ええ」
「楽しくなっちゃって」
「……はい」
「みんなで悪ノリしちゃいました」
「どの程度ですの?」
スギナさんが少し考えた。
「本部が、宴会と聖歌隊と海賊船の間みたいになりました」
「…………」
「まあ」
「かなりですよね」
「かなりですわね」
「ゴスペルさんも歌って、トュリラーさんも盛り上がって、私も『おいしくなーれ』って……」
「スギナさん」
「はい」
「随分と楽しんでいらしたのですね」
「はい……」
私は。
少しだけ口元を緩めた。
「姫様は?」
「すっごく怒ってました!」
「でしょうね」
「『お前らァァー!! たいがいにせぇ!!』って!」
「想像できますわ」
「硬いパンも投げました!」
「まあ」
「窓を突き破りました!」
「…………」
私は一度、紅茶へ手を伸ばした。
「そこまでは想像しておりませんでしたわ」
「ですよね!」
スギナさんが思わず笑い。
すぐに、また申し訳なさそうな顔へ戻った。
「私も悪ノリしちゃって」
「ええ」
「真剣にパンを作ってる人たちの邪魔をしちゃいました」
「…………」
「姫様に怒られて、ちゃんと謝りました」
「そうなのですね」
「はい」
「そのあと、持ち場へ戻ったのでしょう?」
「はい!」
「何を任されたの?」
「見栄えと士気です!」
「まあ」
「祈りは短くって言われました!」
「ふふ」
思わず。
笑ってしまった。
「レイナさん?」
「姫様は、そういう方ですわよね」
「そういう方?」
「真剣に働いている方の邪魔をすれば、きちんと怒る」
私は紅茶のカップを置いた。
「けれど」
「はい」
「謝って、持ち場へ戻った方を、いつまでも責めたりはなさらない」
「…………」
「スギナさんに、見栄えと士気を任せてくださったのでしょう?」
「はい!」
「でしたら」
私は笑った。
「それが答えですわ」
スギナさんの目が、ぱっと明るくなる。
「……はい!」
「次から、宴会と聖歌隊と海賊船の間にはしないことですわね」
「はい!」
「祈りも短く」
「はい!」
「声量も」
「ゴスペルさんに言っておきます!」
「ご本人へお願いします」
「はい!」
二人で笑った。
スギナさんは。
本当に不思議な方だ。
愛。
光。
運命。
魂。
よく分からない言葉をたくさん使う。
けれど。
人の良いところを見つけるのが、とても上手い。
マーガリンおじさんの腕だけではなく。
なぜパンを焼いてきたのかまで、ちゃんと見ている。
そして。
自分が悪かった時は。
きちんと悪かったと言える。
だから。
私は。
この方と話している時間が好きなのだと思う。
「あ、そうだ!」
スギナさんが言った。
「なんですの?」
「パードさんも、すごく面白い方なんですよ!」
「パードさん」
少し前。
学園へ来た時に紹介された、派手な女性。
髪も。
化粧も。
爪も。
話し方も。
何もかも、今まで見たことのない方だった。
姫様の隣に立つ清司という人を見て。
いきなり。
黒王子。
と呼んだ方。
「随分と自由な方ですわね」
「はい!」
「言葉遣いも独特ですし」
「はい!」
「距離も近いですわね」
「はい!」
「否定しませんのね」
「でも、悪い方じゃないですよ!」
「……ええ」
それは。
少ししか見ていなくても分かった。
派手で。
自由で。
とても騒がしい。
けれど。
悪意はない。
むしろ。
思ったことを。
そのまま口にしているだけの方なのかもしれない。
「スギナさんとは、一緒に働いていらっしゃるのですよね」
「はい! 王宮のモビーズ本部で!」
「仲がよろしいの?」
「はい!」
スギナさんは迷わず答えた。
「黒き運命の守護者様の呼び方では、いつも揉めますけど!」
「……揉めているのですか?」
「パードさん、黒王子って呼ぶんです!」
「そうですわね」
「黒き運命の守護者様なのに!」
「それは、かなり長いですわね」
「レイナさんまで!」
「事実です」
「でも格好いいですよね!」
「……ええ」
「ですよね!」
「声が大きいですわ」
「あっ」
また。
二人で笑った。
「今度」
スギナさんが、嬉しそうに言った。
「パードさんとも、一緒にお話しできたらいいですね!」
「パードさんと?」
「はい!」
私は少しだけ考えた。
まだ。
ほとんど話したことはない。
けれど。
スギナさんが。
こんなに楽しそうに話す方なら。
「……そうですわね」
私は小さく笑った。
「今度は、パードさんとも」
窓の外には、夕方の繁華街が広がっている。
人が行き交い。
店の灯りがつき始めていた。
「こういう仲になれたら、いいですわね」
スギナさんは。
ぱっと笑った。
「はい!」
その笑顔を見ながら。
私は。
朝の廊下で見た、名前も知らない二人のことを思い出した。
主役でなくても。
名前を知られていなくても。
恋をしていい。
誰かと仲良くなっていい。
自分の居場所を。
少しずつ増やしていっていい。
姫様が変わってから。
学園も。
王宮も。
国も。
そして。
私の周りも。
少しずつ。
前より。
優しい場所になっていた。




