第55話 まだ終わっていない
婚約発表の日が来た。
結局。
止められなかった。
レイナは鏡の前に座り、自分の姿を見つめていた。
髪は綺麗に結われ。
ドレスも。
宝石も。
何一つ文句のないものが用意されている。
「……お綺麗です」
後ろにいた侍女が言った。
「ありがとうございます」
レイナは笑った。
きっと。
ちゃんと笑えている。
貴族令嬢として。
こういう時に。
どういう顔をすればいいのかくらい。
知っていた。
「もうすぐ、お時間です」
「えぇ」
侍女が部屋を出る。
扉が閉まったあと。
レイナは。
鏡の中の自分へ向かって。
小さく息を吐いた。
「……綺麗でも」
自分の手を見る。
「嬉しくは、ありませんわね」
当然だった。
今日。
自分は。
好きな人ではない人との婚約を。
大勢の前で発表される。
それも。
最後まで。
納得しないまま。
*
父とは。
昨夜。
もう一度話した。
「本当に、今日やるのですか」
「あぁ」
「私は同意しておりません」
「分かっている」
「でしたら」
「セレスティア」
父は。
疲れた顔をしていた。
「私も、できる限りのことはした」
「……」
「お前の案も出した」
「はい」
「先方とも話した」
「はい」
「王宮にも掛け合った」
「……」
「それでも」
父は一度、目を伏せた。
「止まらなかった」
レイナは。
何も言えなかった。
父を責めたいわけではない。
母を責めたいわけでもない。
タケリオ公爵ですら。
責める気にはなれなかった。
誰か一人が。
悪意を持って。
自分をここへ追い込んだわけではない。
だからこそ。
余計に。
怖かった。
「お父様」
「何だ」
「私は」
レイナは父を見る。
「今日、婚約者として笑わなければなりませんか」
父が黙る。
「嬉しそうに」
「……」
「皆様へ、ご挨拶しなければ?」
「セレスティア」
「私は」
レイナは。
静かに言った。
「嘘をつきたくありません」
「……」
「婚約を望んでいるような顔は」
一度。
息を吸う。
「できません」
父は。
長く黙っていた。
「……それでいい」
レイナの目が。
少しだけ開く。
「本当ですの?」
「あぁ」
父は。
苦しそうに笑った。
「そこまで」
少しだけ言葉を詰まらせる。
「お前から取る気はない」
レイナは。
胸の奥が痛くなった。
「……ありがとうございます」
父も。
敵ではなかった。
*
支度を終え。
レイナが廊下へ出ると。
母が待っていた。
「セレスティア」
「お母様」
母は。
しばらくレイナを見つめた。
「綺麗ね」
「ありがとうございます」
「……ごめんなさい」
レイナの表情が止まる。
「謝らないでください」
「でも」
「お母様も止めようとしてくださったのでしょう?」
「……」
「でしたら」
レイナは。
少しだけ笑った。
「謝ってほしくありません」
母の目に涙が浮かぶ。
「あなたは」
「はい」
「本当に、強くなったわね」
レイナは。
少し考えた。
「強くなったかは、分かりません」
「……」
「ただ」
姫様の顔が浮かぶ。
「自分で選ばずに諦めるのは」
静かに。
言う。
「嫌になりましたの」
母は。
何も言わず。
レイナの手を握った。
*
会場へ向かう途中。
レイナは一人になった。
ほんの短い時間。
廊下の窓から。
外を見る。
馬車が。
次々と到着していた。
王族。
貴族。
有力者。
今日の婚約を祝うために。
人が集まってくる。
「……」
もう。
ここまで来た。
でも。
まだ。
頭のどこかで。
考えている。
何かないか。
何か。
止める方法が。
けれど。
今日までに。
思いつくことは全部やった。
家族と話した。
タケリオ公爵とも話した。
別の案も出した。
王宮にも出した。
断った。
何度も。
それでも。
ここにいる。
レイナは。
無意識に。
胸元へ手を置いた。
「……姫様」
声が漏れる。
会いたい。
やっぱり。
会いたい。
でも。
今さら。
何と伝えるのだろう。
婚約を止めてください。
私を選んでください。
助けてください。
そんなこと。
言えるはずがない。
自分が姫様を愛しているから。
姫様にも。
自分を選ぶ義務があるわけではない。
好きという気持ちを。
相手を動かすためのものにしたくない。
「……大丈夫ですわ」
レイナは。
自分へ言った。
大丈夫かどうかなんて。
分からない。
それでも。
歩くしかなかった。
*
控え室には。
タケリオ公爵がいた。
「……セレスティア嬢」
「公爵」
タケリオは。
レイナの姿を見て。
一瞬だけ言葉を失った。
「何ですの」
「いえ」
「似合わないと?」
「逆です」
「……そうですか」
「とても綺麗です」
「ありがとうございます」
そこで。
会話が止まった。
二人とも。
今日が。
普通の婚約の日なら。
もう少し違う言葉があったのだろう。
「公爵」
「はい」
「最後に、もう一度だけ確認しても?」
「何でしょう」
「本当に」
レイナは。
タケリオを見る。
「止められませんの?」
タケリオは。
目を伏せた。
「今朝」
「……」
「もう一度、父へ話しました」
レイナの目が動く。
「返答は?」
「今日ここで拒絶すれば」
一度。
言葉を止める。
「両家だけでは済まないと」
「……」
「王宮の面子まで潰すことになるそうです」
「面子」
レイナは。
思わず繰り返した。
「私たちの人生より?」
タケリオは。
答えなかった。
答えられないのだろう。
「……おかしいですわね」
「はい」
「誰も」
レイナは苦笑する。
「幸せではありませんのに」
「……」
「お祝いの席ですって」
タケリオも。
少しだけ。
笑った。
「確かに」
「笑えませんわ」
「あなたが先に笑ったでしょう」
「苦笑です」
「私もです」
レイナは。
少しだけ。
肩の力が抜けた。
*
「セレスティア嬢」
タケリオが。
静かに呼ぶ。
「はい」
「以前お話ししたこと」
「何でしょう」
「もし」
一度。
息を吸う。
「今日、このまま婚約が成立してしまっても」
レイナの目が。
少しだけ曇る。
「あなたを縛るつもりはありません」
「公爵」
「仕事も」
「……」
「姫様のお傍にいることも」
「……」
「私が止めることはありません」
レイナは。
しばらく黙った。
そして。
静かに首を横へ振る。
「やはり」
「……」
「それでは駄目ですわ」
「そう言うと思いました」
「でしたら言わないでください」
「最後くらい言わせてください」
「……」
タケリオは。
少しだけ笑った。
「私も」
その笑みが。
すぐに消える。
「望んでいない女性を、自由にしてやるからと妻にする男にはなりたくありません」
レイナは。
タケリオを見る。
「公爵」
「はい」
「やっぱり」
一度。
言葉を止める。
「悪い方ではありませんのね」
「今さらですか」
「本編だけでしたら、かなり誤解されそうですわ」
「何の話です」
「何でもありません」
レイナは。
小さく笑った。
「ただ」
まっすぐ。
タケリオを見る。
「今日が終わるまで」
「はい」
「私は諦めません」
タケリオの表情が。
少しだけ変わった。
「何か策が?」
「ありません」
「……」
「でも」
レイナは。
胸を張った。
「諦める理由にもなりませんでしょう?」
タケリオが。
ゆっくり笑う。
「そうですね」
「公爵も」
「私も?」
「諦めないでください」
「何を」
「ご自分の人生を」
タケリオは。
少し驚いたあと。
静かに頷いた。
「分かりました」
*
会場の扉の向こうから。
大勢の声が聞こえる。
音楽。
談笑。
グラスの音。
祝福するために集まった人々。
控え室へ。
係の者が入ってきた。
「お時間です」
レイナとタケリオは。
同時に扉を見る。
「……行きますか」
タケリオが言う。
「えぇ」
二人が並ぶ。
けれど。
手は取らない。
係の者が。
大きな扉を開いた。
*
眩しい光が差し込んだ。
一斉に。
視線が集まる。
拍手。
笑顔。
祝福の声。
レイナは。
その中へ。
一歩。
足を踏み出した。
タケリオも。
隣を歩く。
「おめでとうございます」
「お似合いですわ」
「素晴らしいご縁ですな」
次々と。
言葉をかけられる。
レイナは。
礼を返す。
「ありがとうございます」
それ以上は言わない。
嬉しいとも。
幸せとも。
絶対に。
言わなかった。
会場の正面には。
二人のための席が用意されている。
そこへ向かって。
歩く。
一歩。
また一歩。
進むたび。
自分の人生が。
誰かの決めた場所へ。
近づいていくような気がした。
「セレスティア嬢」
隣から。
タケリオが小さく呼ぶ。
「はい」
「大丈夫ですか」
レイナは。
前を向いたまま答えた。
「大丈夫ではありませんわ」
「……そうですか」
「はい」
一度。
息を吸う。
「でも」
手を。
強く握る。
「まだ終わっておりません」
タケリオは。
ほんの少しだけ。
笑った。
「ですね」
二人は。
正面へ立った。
*
司会役の貴族が。
前へ出る。
「本日は」
会場が静かになる。
「タケリオ公爵家と――」
言葉が。
始まった。
レイナは。
その声を聞きながら。
会場を見渡した。
父。
母。
貴族たち。
王宮の関係者。
誰も。
悪い顔をしていない。
皆。
これが正しいことだと思っている。
だから。
誰も。
止めない。
「……」
ふと。
日本で聞いた言葉が。
頭をよぎった。
『これしか、生きる道がありませんでした』
明智光秀。
新選組。
兵たち。
皆。
これしかないと思っていた。
そして今。
自分も。
同じ場所にいる。
「……嫌ですわ」
レイナが。
小さく呟いた。
タケリオが横を見る。
「何か?」
「いいえ」
レイナは。
前を見る。
これしかない。
そんなはずはない。
姫様が。
何度も。
それを見せてくれた。
だから。
最後まで。
自分も。
そう思いたかった。
「それでは」
司会の声が。
響く。
「両家の婚約を――」
レイナの指が。
ぎゅっと。
ドレスを掴んだ。
まだ。
終わっていない。
まだ。
自分の人生は。
自分のものだ。




