最終話 物語は続く
「それでは」
司会役の貴族が、会場を見渡した。
「両家の婚約を――」
レイナの指が、ドレスを強く掴む。
まだ。
終わっていない。
そう思っているのに。
止める言葉が見つからない。
ここまでに。
できることは全部した。
父と話した。
母とも。
タケリオ公爵とも。
婚約以外の道を考え、書類にして提出した。
王宮にも届いた。
それでも。
今。
自分はここに立っている。
「正式に――」
「お待ちください」
レイナの声が響いた。
会場が静まり返る。
司会役の貴族が、驚いた顔で振り返った。
「セレスティア嬢?」
隣のタケリオもレイナを見る。
父も。
母も。
貴族たちも。
全員の視線が集まった。
レイナは、一度だけ息を吸った。
「申し訳ありません」
声は震えていなかった。
「私は、まだ同意しておりません」
ざわめきが広がる。
「セレスティア」
父が名前を呼ぶ。
レイナは父を見る。
「お父様。何度もお話しました」
「……あぁ」
「私は、この婚約を望んでおりません」
会場がさらにざわついた。
誰かが、小さな声で何かを言っている。
令嬢が。
婚約発表の場で。
公然と拒絶した。
貴族社会では。
決して軽いことではない。
でも。
レイナは。
もう黙れなかった。
「セレスティア嬢」
タケリオが静かに呼ぶ。
「はい」
「大丈夫です」
レイナが少しだけ目を見開く。
タケリオは。
前を向いた。
「私も」
会場へ向かって言う。
「彼女が同意していないことは、承知しております」
今度こそ。
大きなどよめきが起きた。
「タケリオ公爵!」
誰かが声を上げる。
「これは両家で決められた――」
「存じております」
タケリオは淡々と答えた。
「ですが」
一度。
レイナを見る。
「本人が嫌だと言っている事実まで、なくなるわけではありません」
レイナは。
何も言わず。
その横顔を見た。
やはり。
この人は。
悪い人ではない。
だからこそ。
こんな形で。
隣に立つべきではないと思った。
*
「ですが」
王宮側の男が前へ出た。
「ここまで正式に話を進めた以上、今さら撤回となれば両家だけの問題では済みません」
「承知しております」
タケリオが答える。
「では」
「それでもです」
男の眉が寄る。
「公爵」
「婚約とは、本来」
タケリオは落ち着いた声で続けた。
「二人の将来を決めるものでしょう」
「……」
「それを」
一度。
会場を見る。
「当人二人が望んでいないまま進めることに、どれほどの意味があるのでしょうか」
レイナは。
少しだけ。
驚いた。
以前。
悪い話ではないと言っていた人だ。
受けてもいいと。
そう思っていた人。
それでも。
今は。
こちらに立っている。
「公爵」
レイナが小さく呼ぶ。
「何でしょう」
「ありがとうございます」
「まだ何も解決していませんよ」
「それでもです」
タケリオは。
ほんの少しだけ笑った。
「どういたしまして」
*
しかし。
空気は。
変わらなかった。
王宮側の者たちは。
互いに顔を見合わせる。
両家の父親も。
何も言えずにいる。
やがて。
年長の貴族が前へ出た。
「お気持ちは理解しました」
レイナの目が。
僅かに細くなる。
嫌な言い方だった。
「しかし」
やはり。
続く。
「若いお二人には、まだ分からぬこともあるでしょう」
レイナの表情が変わった。
「……若いから?」
「そういう意味では」
「では、どういう意味ですの?」
会場が静かになる。
「私は」
レイナは、その男を見る。
「自分の人生について考えました」
「……」
「何日も」
「何度も」
「家族とも話しました」
「相手とも話しました」
「代替案まで作りました」
一歩。
前へ出る。
「それでも」
静かに言う。
「若いから分からない、と仰るのですか」
男が言葉に詰まる。
「私に分からないことがあるのは認めます」
「……」
「ですが」
レイナは。
胸元へ手を置いた。
「私が、この婚約を望んでいないということだけは」
一度。
息を吸う。
「誰よりも、私が分かっております」
父が。
目を伏せた。
母も。
何も言えない。
レイナは。
それを見て。
少し胸が痛んだ。
責めたいわけではない。
本当に。
誰か一人を悪者にしたいわけではない。
ただ。
自分の人生を。
自分で選びたいだけだった。
*
「セレスティア嬢」
先ほどの貴族が、今度は少し慎重な声で言った。
「では、この場で婚約を拒絶することで生じる責任も負えると?」
「負います」
即答だった。
会場が静まり返る。
「家の立場が悪くなっても?」
「できる限り、私が補います」
「王宮との関係が悪化しても?」
「その理由を説明します」
「それで済まなければ?」
「別の方法を探します」
「見つからなければ?」
レイナの言葉が。
止まった。
「……」
「あなたは」
男が続ける。
「道はいくらでもあるとお考えなのかもしれない」
胸の奥が。
少しだけ。
痛んだ。
「ですが」
一歩。
詰められる。
「現実には」
「……」
「選べないこともあるのです」
その言葉が。
レイナの胸へ。
深く入った。
選べない。
日本で。
何度も聞いた。
これしかない。
従うしかない。
逃げるしかない。
殺すしかない。
そう言っていた人たち。
レイナは。
無意識に。
指を握った。
「……それでも」
小さく。
言う。
「何です?」
「それでも」
レイナは。
顔を上げた。
「選ぶことを諦めたくありません」
声は。
少しだけ震えていた。
それでも。
最後まで。
言った。
*
会場の空気は。
完全に重くなっていた。
祝福のために用意された音楽も。
いつの間にか止まっている。
誰も。
次に何を言えばいいのか分からない。
レイナは。
その場に立ったまま。
不思議な感覚に襲われていた。
怖い。
でも。
後悔はない。
少なくとも。
黙って受け入れなかった。
自分の言葉で。
嫌だと言った。
もし。
この先。
どうにもならなくても。
それだけは。
自分で選んだ。
「……姫様」
声には出さなかった。
ただ。
心の中で呼んだ。
日本で。
姫様は。
何度も。
誰かに言った。
別の道を探せばいい。
生き直せばいい。
選び直せばいい。
だから。
自分も。
そうしたかった。
姫様に。
助けてもらうためではなく。
姫様から教えてもらったことを。
自分で。
やってみたかった。
それでも。
胸の奥では。
どうしようもなく。
会いたかった。
今。
ここに。
いてほしかった。
ただ。
顔を見たかった。
*
「では」
王宮側の男が。
重い沈黙を破った。
「一度、場を改め――」
その時だった。
会場の大きな扉が。
開いた。
ギィ――。
音が。
やけに大きく聞こえた。
全員が振り返る。
レイナも。
ゆっくり。
そちらを見る。
「……」
一瞬。
何が起きたのか。
分からなかった。
扉の向こう。
一人の男が立っている。
黒いタキシード。
光沢を抑えた上質な生地へ、滑らかなサテンのショールカラーが沿っていた。
金の刺繍も、宝石の飾りもない。
肩から胸へ自然に流れる線。
わずかに絞られた腰。
余分な厚みのない仕立てが、細くしなやかな身体を美しく見せている。
白いドレスシャツの襟元には、黒い蝶ネクタイ。
長い脚の先まで、乱れなく整えられていた。
けれど。
レイナの視線は、すぐにその顔へ引き寄せられた。
中央で分かれた黒髪。
柔らかく曲線を描く毛束が、額と目元へ落ちている。
その下に、長い睫毛。
会場の灯りを映した瞳が、静かにこちらを捉えていた。
すっと通った鼻筋。
形の整った薄い唇。
頬から顎へ続く輪郭は、横を向く僅かな動きまで目を離せなくなるほど綺麗だった。
黒い衣装に縁取られ、顔の白さが際立っている。
整った顔立ちには、息を呑むような華やかさがあった。
それなのに、本人は少しも飾った顔をしていない。
口元に作った笑みもない。
ただ、まっすぐに。
レイナを見ていた。
片手には、火のついた煙草。
長い指に挟まれたその先から、白い煙が細く上がっていく。
サテンの襟が、僅かな動きに光を返した。
近くにいた貴族が、何か言いかけて口を閉じる。
誰も、すぐには声をかけなかった。
「……え」
レイナの唇が。
僅かに開いた。
知っている。
あの顔を。
知っている。
あの目を。
池田屋で。
たった一晩だけ。
魂ではなく。
生身で見た。
あの姿。
会いたくて。
何度も思い出した人だった。
「……清司さん?」
声が。
震えた。
男が。
会場の中へ。
一歩。
足を踏み入れる。
黒い上着の裾が揺れた。
靴音が、床へ落ちる。
確かに、そこにいる。
見えているだけの姿ではない。
同じ場所に立ち、こちらへ歩いてくる。
レイナは。
ただ。
その姿を見つめていた。
なぜ。
どうして。
今。
ここに。
聞きたいことは。
いくつもあるのに。
何一つ。
言葉にならない。
清司は。
煙草を指に挟んだまま。
まっすぐ。
レイナを見た。
レイナの胸が。
大きく鳴った。
「……なぜ」
一度。
息を呑む。
「清司さんが、ここに……?」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『婚約破棄された悪役令嬢は、有能すぎました』は、これにて完結です。
レイナと政宗、それぞれの視点から描いた物語でした。
この最終話は、
『任侠の若頭だった俺、転生して乙女ゲームのヒロイン「ふわ姫」になる ――ふわ姫若頭――』
本編の第132話へ、そのまま繋がる形で終わっています。
この先、彼らがどうなるのか。
ぜひ本編の第132話から、続きを見届けていただけたら嬉しいです。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




