第53話 まだ
数日後。
レイナは、父の執務室へ一冊の書類を持って入った。
「お父様」
「何だ」
「婚約について、お話があります」
父の表情が僅かに曇る。
「また断る話か」
「はい」
「……」
「ですが今日は、ただ嫌だと申し上げに来たのではありません」
レイナは机の上へ書類を置いた。
「婚約をしなくても、両家に不利益が出ない方法を考えました」
父が書類を見る。
「これは?」
「タケリオ家との共同事業案です」
「共同事業?」
「はい」
レイナは向かいへ座った。
「両家が婚姻で結びつく目的は、王都での立場と経済基盤の安定でしょう?」
父の眉が動く。
「どこでそれを」
「タケリオ公爵とお話ししました」
「……」
「公爵も、家同士の事情があると仰っていました」
レイナは書類を開く。
「でしたら、婚姻以外の形で同じ利益を作ればよいのではありませんか」
物流。
領地間の商取引。
農産物の共同販売。
街道整備への共同出資。
両家の人材交流。
貴族社会での協力関係。
一つずつ。
レイナは説明していった。
「こちらの領地には農産物があります。タケリオ家には王都へ繋がる商人との関係がある」
「……」
「婚姻がなくても、互いに利益を得られます」
父は黙ったまま書類を読む。
「それに」
レイナは続けた。
「両家が正式な協力関係を結べば、王都での立場も弱くなりません」
「よく調べたな」
「必要でしたから」
父がページをめくる。
「誰かに手伝ってもらったのか」
「いいえ」
「一人で?」
「はい」
レイナは少しだけ笑った。
「こういうことは、慣れておりますので」
姫様の隣で。
何度も。
問題を整理してきた。
誰が困っているのか。
何が足りないのか。
どうすれば。
誰かを犠牲にせず済むのか。
日本でも。
リュミエールでも。
何度も見てきた。
「これなら」
レイナは父を見る。
「婚約をしなくても済みます」
父は。
しばらく何も言わなかった。
書類を最後まで読み。
ゆっくり閉じる。
「よくできている」
レイナの顔が少し明るくなる。
「では」
「だが」
その一言で。
止まった。
「これでは足りない」
「……なぜですの?」
「問題は、経済だけではない」
「王都での立場も含めています」
「それでもだ」
父は椅子へ深く座り直した。
「この婚約には、もう王宮が関わっている」
レイナの表情が変わる。
「……王宮?」
「あぁ」
「なぜですの」
「両家の結びつきが、国にとっても都合がいいと判断された」
「誰が?」
「上が、だ」
「上とは」
父は答えなかった。
それだけで。
十分だった。
「……そんな」
「昨日、正式な書状が来た」
「でしたら」
レイナはすぐに言う。
「王宮へも、この案を提出します」
「セレスティア」
「婚約以外でも同じ結果を出せると説明すれば」
「もう、そういう段階ではない」
「なぜです!」
思わず。
声が強くなった。
父も。
少し驚いたようにレイナを見る。
「私は」
レイナは息を整える。
「ちゃんと考えました」
「分かっている」
「両家が困らない方法も」
「あぁ」
「公爵本人とも話しました」
「聞いている」
「でしたら!」
レイナは。
机の上の書類を見る。
「なぜ」
声が。
少しだけ震えた。
「婚約でなければ、いけませんの?」
父は。
すぐには答えなかった。
「……分からん」
レイナが顔を上げる。
「え?」
「正直に言えば」
父は眉間を押さえた。
「私にも、ここまで話が大きくなった理由が分からない」
「……」
「最初は、両家の話だった」
「はい」
「条件も悪くない。タケリオ公爵本人も拒絶していない」
「ですが」
「分かっている」
父は、レイナを見た。
「お前が嫌がっていることも」
レイナは黙る。
「だから」
父は机の上の書類へ手を置いた。
「これも無駄だとは思わない」
「では」
「出してみる」
レイナの目が少し開く。
「本当ですの?」
「あぁ」
「王宮へ?」
「あぁ」
父は小さく息を吐いた。
「ただし」
その声が。
重かった。
「期待はするな」
レイナは。
ゆっくり頷いた。
「それでも」
書類を見る。
「出してください」
「あぁ」
「お願いします」
頭を下げる。
「私は」
一度。
息を吸った。
「まだ、諦めたくありません」
父は。
何も言わなかった。
*
数日後。
返事は来た。
早かった。
あまりにも。
レイナは父から渡された書状を読み。
その場で。
しばらく動けなかった。
『提案については、有益な内容であると認める』
そこまでは。
よかった。
続き。
『しかしながら、両家の結びつきをより確かなものとするため、当初の予定どおり婚約を進めることが望ましい』
「……」
レイナは。
もう一度読んだ。
意味は変わらない。
「この案は」
静かに聞く。
「認められたのですよね」
「あぁ」
「両家にも利益があると」
「あぁ」
「それでも」
一度。
書状から目を上げる。
「婚約するのですか?」
「そういう返答だ」
「おかしいですわ」
「……」
「でしたら、婚約をする理由がありません」
「セレスティア」
「目的を別の方法で達成できるのに」
レイナの声が。
少しずつ強くなる。
「なぜ私が結婚しなければならないのです?」
父は答えられなかった。
レイナは。
その顔を見て。
初めて。
怖くなった。
誰も。
明確な理由を説明できない。
それなのに。
話だけが進んでいく。
*
その日の午後。
レイナは再び。
タケリオ公爵と会った。
今度は。
以前より。
空気が重かった。
「……読みました」
タケリオが言う。
「私の案を?」
「はい」
「どう思われました?」
「よくできています」
「皆様、同じことを仰いますのね」
レイナは。
思わず苦笑した。
「良い案だと言われるのに」
タケリオも。
少しだけ視線を落とす。
「採用はされない」
「えぇ」
二人の間に。
沈黙が落ちる。
「公爵」
「はい」
「あなたからも、断っていただけませんか」
タケリオは。
すぐには答えなかった。
「私一人が断れば」
「終わるかもしれません」
「……」
「少なくとも、今よりは」
タケリオは。
しばらく黙っていた。
「すでに伝えました」
レイナの顔が上がる。
「え?」
「あなたが望んでいないなら、急ぐべきではないと」
「……」
「ですが」
小さく息を吐く。
「却下されました」
レイナは。
何も言えなかった。
「私も」
タケリオは続ける。
「ここまで進むとは思っていませんでした」
「公爵も……」
「はい」
タケリオは苦笑した。
「少し困っています」
「少し?」
「かなり」
レイナは。
思わず笑いそうになった。
でも。
笑えなかった。
「では」
静かに聞く。
「私たちは二人とも」
「えぇ」
「望んでいないのに」
「話だけが進んでいます」
「……」
「変ですね」
「変ですわ」
レイナは。
はっきり言った。
「とても」
*
「それでも」
タケリオが口を開く。
「私は」
「はい」
「あなたと婚約すること自体が、耐えられないわけではありません」
レイナは。
少しだけ顔を強張らせた。
「……そうでしたわね」
「誤解しないでください」
「何をです」
「だから進めたい、という意味ではありません」
「……」
「ただ」
タケリオは言葉を選ぶ。
「もし」
一度。
止まる。
「どうしても止められなかった場合」
レイナは。
何も言わず続きを待った。
「あなたを無理に妻らしく振る舞わせるつもりはありません」
「……」
「仕事も続けていい」
「……」
「姫様のお傍にいたいなら」
タケリオの声が。
少しだけ柔らかくなる。
「それも止めません」
レイナの胸が。
痛んだ。
「公爵」
「はい」
「優しくしないでください」
タケリオが黙る。
「私は」
レイナは。
膝の上で手を握った。
「それで納得したくありません」
「……」
「良い条件だから」
「……」
「自由にしてくださるから」
「……」
「それなら結婚してもいいでしょう、と」
顔を上げる。
「思いたくないのです」
タケリオは。
静かに頷いた。
「分かりました」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい」
「でも」
「私も同じです」
「え?」
タケリオは。
少しだけ笑った。
「あなたに」
「嫌々結婚した女性を、一生慰める夫になるつもりもありません」
レイナは。
一瞬。
目を丸くした。
そして。
小さく笑った。
「それは」
「はい」
「お互い困りますわね」
「かなり」
今度は。
二人とも。
少しだけ笑えた。
*
帰り際。
タケリオが。
レイナを呼び止めた。
「セレスティア嬢」
「はい」
「一つだけ」
「何でしょう」
「もし」
タケリオは。
少し迷ってから。
続けた。
「姫様に相談すれば」
レイナの表情が。
止まった。
「何か変わるのではありませんか」
「……」
「あなたが頼めば」
「駄目です」
即答だった。
タケリオが驚く。
「なぜ」
「姫様は」
レイナは。
少しだけ目を伏せた。
「私が困っていると知れば」
「……」
「きっと動いてくださいます」
「なら」
「だからです」
タケリオが黙る。
「私は」
胸元へ手を置く。
「姫様を、お慕いしています」
「はい」
「ですから」
静かに。
でも。
はっきり言った。
「その気持ちを使って」
「……」
「姫様に私の人生を変えさせたくありません」
「……」
「助けていただくことと」
一度。
息を吸う。
「好きだから助けてもらうことは」
「私の中では」
「違うのです」
タケリオは。
長く黙っていた。
「……そうですか」
「はい」
「あなたは」
少しだけ笑う。
「思っていたより頑固ですね」
「公爵に言われたくありませんわ」
「私は頑固ですよ」
「存じております」
二人は。
それ以上何も言わず。
別れた。
*
屋敷へ戻ると。
母が。
レイナを待っていた。
「セレスティア」
「はい」
「話があるの」
嫌な予感がした。
「何ですの?」
母は。
少し言いづらそうに。
それでも。
口を開いた。
「婚約の発表日が決まったわ」
レイナの身体が。
止まる。
「……え?」
「両家で」
「待ってください」
「セレスティア」
「私はまだ」
「分かってる」
「同意しておりません」
「分かっているわ」
「でしたら!」
母の顔が。
苦しそうに歪む。
「私たちも」
レイナの言葉が止まる。
「止めようとしているの」
「……」
「でも」
母は。
小さく首を横へ振った。
「もう」
「私たちだけでは」
「止められないの」
レイナは。
何も言えなかった。
父も。
母も。
タケリオ公爵も。
自分も。
誰も。
強く望んでいない。
なのに。
決まっていく。
まるで。
見えない大きな手に。
押されているように。
*
その夜。
レイナは一人。
机の前に座っていた。
目の前には。
自分で作った書類。
婚約以外の道。
何日もかけて考えた。
誰も困らないように。
誰かを犠牲にしなくていいように。
でも。
通らなかった。
「……」
レイナは。
紙を握りしめそうになって。
やめた。
意味がなかったわけではない。
案は認められた。
間違っていなかった。
それでも。
止まらなかった。
「道は」
小さく呟く。
「一つではないはずですわ」
日本で。
何度も見た。
これしかないと思っていた人たちが。
別の道へ進んでいった。
だから。
自分にも。
まだある。
そう思いたかった。
けれど。
初めて。
少しだけ。
怖かった。
「姫様……」
名前が。
自然に零れた。
会いたい。
そう思う。
顔が見たい。
声が聞きたい。
大丈夫だと。
言ってほしい。
レイナは。
目を閉じた。
でも。
立ち上がらなかった。
「……まだですわ」
自分へ言い聞かせる。
「まだ」
助けを求める時ではない。
自分で。
もう少し。
探す。
もう少しだけ。
抗う。
それが。
姫様の傍で学んだ。
自分の生き方だと思った。




