第50話 私だけ見て
寺の空気が止まった。
「……あなたから、離れたいです」
市の言葉を。
萌呼は。
すぐには理解できなかった。
「……え?」
市はもう一度。
今度は。
少し震えながら。
それでも。
はっきりと言った。
「少し、離れたいのです」
萌呼の顔から。
ゆっくり。
笑みが消えていく。
「どうして……?」
「分かりません」
「分からない?」
「はい」
市は胸元を押さえる。
「あなたを大切に思う気持ちはあります」
政宗の目が細くなる。
「でも」
市は。
ゆっくり息を吸った。
「それだけになってしまうのが、怖いのです」
「……」
「兄上のことも」
市が信長を見る。
「好きだった花も」
「甘いものも」
「自分で選ぶことも」
一つずつ。
確かめるように言う。
「全部、どうでもよくなる」
萌呼の指先が。
僅かに震えた。
「それが」
市は目を伏せる。
「怖いのです」
「私が……怖い?」
「違います」
「じゃあ何が」
萌呼の声が。
少し強くなる。
「私は、市様に何もしていません」
「……」
「優しくしてほしいって思っただけです」
「……」
「仲良くしてほしいって」
「……」
「私を、大切にしてほしいって」
黒い炎が。
指先に浮かぶ。
政宗が気づいた。
「萌呼」
低い声。
「それ消せ」
「何ですか」
「それだよ」
「……」
「市がおかしくなった時、毎回出てる」
「知りません」
「まだ言う?」
政宗が一歩前へ出る。
「俺には効かなかったけど」
萌呼の目が。
政宗へ向いた。
「……」
「市には効いてる」
「違います」
「信長にも」
「違う!」
萌呼が声を上げた。
信長が。
すぐに萌呼の前へ出る。
「政宗」
「何」
「それ以上言うな」
「また庇うのか」
「萌呼が嫌がっておる」
「市も嫌がってるだろ」
「……」
「どっち見るんだよ」
信長の目が。
一瞬だけ。
市へ向いた。
市は。
涙を浮かべながら。
兄を見ている。
「兄上」
その声に。
信長の顔が。
ほんの僅かに。
変わった。
政宗は。
それを見逃さない。
「信長」
「……」
「市見ろ」
「……」
「お前の妹だ」
信長の唇が。
僅かに動く。
「市……」
「兄上」
萌呼の胸の奥が。
冷えた。
まただ。
自分以外を見る。
自分以外の誰かを。
大切そうに。
「信長様」
萌呼が呼ぶ。
黒い炎が。
揺れる。
信長の目が。
また曇った。
「……市」
声が変わる。
「おぬしは萌呼を困らせるな」
市の表情が。
固まった。
政宗の顔から。
感情が消える。
「……お前」
信長が政宗を見る。
「何じゃ」
「今」
一度。
言葉を止める。
「市より、萌呼選んだな」
「市が我儘を申しておるだけじゃ」
「は?」
「萌呼は何もしておらぬ」
「市が泣いてんだぞ」
「だから何じゃ」
政宗の目が。
鋭くなる。
「……もう一回言ってみろ」
「市が泣いておるからといって」
「そうじゃねぇ」
政宗の声が。
低く落ちる。
「だから何じゃ、を」
「……」
「もう一回言え」
信長は。
黙った。
その言葉が。
自分でも。
どこかに引っかかったのかもしれない。
政宗には。
そう見えた。
「昔のお前なら」
「また昔の話か」
「するよ」
政宗は即答した。
「何回でも」
「……」
「市が泣いたら」
「……」
「理由聞いてた」
「……」
「怒ってても」
「……」
「面倒そうな顔してても」
「……」
「結局見てた」
信長の目が。
少しだけ。
揺れる。
「それが」
政宗は続ける。
「お前だろ」
「……」
「俺が知ってる信長だ」
その言葉に。
なぜか。
信長の頭の中へ。
一瞬だけ。
別の男の姿が浮かんだ。
黒い服。
煙草。
刀。
気だるそうな目。
自分へ。
何度も。
まっすぐ言葉をぶつけてきた男。
清司。
「……」
信長の眉が寄る。
「信長?」
政宗が呼ぶ。
「……何でもない」
「今、何思い出した」
「何も」
「嘘つけ」
「何もと言っておる」
政宗は。
それ以上は追わなかった。
でも。
見えた。
今。
確かに。
何かが。
信長の中で引っかかった。
*
その後。
市は秀吉と一緒に寺へ残ることになった。
信長は不満そうだったが。
市本人が。
「今日は戻りません」
そう言った。
萌呼は。
最後まで笑わなかった。
信長と共に寺を出る。
少し歩いてから。
萌呼が立ち止まった。
「信長様」
「何じゃ」
「市様は」
「……」
「私のこと、嫌いになったのでしょうか」
「そんなことはない」
「でも」
「気にするな」
「……」
「余がおる」
萌呼は。
その言葉を聞いて。
少しだけ。
笑った。
「はい」
けれど。
足りなかった。
信長様は。
もう。
自分を見ている。
自分を庇う。
自分の言葉を聞く。
なのに。
足りない。
市様が。
離れたいと言った。
それだけで。
胸の奥に穴が開いたようだった。
誰か一人でも。
離れていくのが。
怖い。
嫌だ。
また。
置いていかれる。
また。
選ばれない。
萌呼は。
無意識に。
手を握った。
その時。
少し離れた場所に。
政宗の姿が見えた。
秀吉と話している。
自分たちを見ていない。
「……」
胸の奥が。
今度は。
別の意味で痛んだ。
政宗様だけは。
最初から。
何も変わらない。
自分を好きにならない。
自分を庇わない。
自分を選ばない。
それなのに。
信長様のことは。
ずっと見ている。
少しの変化にも気づく。
怒る。
追いかける。
何度追い出されても戻ってくる。
「……どうして」
萌呼が。
小さく呟いた。
「どうして、私には」
あんなふうに。
してくれないのだろう。
*
「また見てる」
政宗が言った。
「え?」
秀吉が振り返る。
「萌呼」
「……」
「ずっとこっち見てる」
秀吉も見る。
萌呼は。
すぐに視線を逸らした。
「おぬしに執着しておるな」
「知ってる」
「怖くないのか」
「別に」
「呪術使う娘じゃぞ」
「効かねぇし」
「何故じゃろうな」
「知らねぇ」
政宗は。
自分の手を見る。
前に。
萌呼の黒い炎が触れた。
確かに。
触れた。
でも。
何も起きなかった。
「……」
政宗の頭にも。
ふと。
一人の男が浮かんだ。
黒いスーツ。
煙草。
刀。
何を言われても。
誰に何をされても。
最後まで。
自分で決めていた男。
「……清司」
秀吉が政宗を見る。
「何じゃ」
「いや」
政宗は。
すぐに首を振る。
「何でもねぇ」
「今、清司殿と言わなんだか?」
「言ってねぇ」
「言ったぞ」
「気のせい」
「いや」
「しつけぇな」
秀吉は。
少しだけ笑った。
「おぬしも」
「何」
「ずっと残っておるのじゃな」
政宗は。
すぐには返さなかった。
目の前には。
信長がいる。
萌呼もいる。
市も。
秀吉も。
全部。
今の話だ。
なのに。
時々。
あいつが出てくる。
何かを決める時。
誰かを見捨てそうになった時。
自分が。
間違っていないか。
考える時。
「……まあな」
政宗は。
それだけ答えた。
*
夜。
萌呼は。
一人で鏡の前に座っていた。
鏡には。
自分が映っている。
その後ろには。
誰もいない。
「……」
指先に。
黒い炎を出す。
市様には。
効いた。
信長様にも。
効いている。
なのに。
政宗様には。
効かない。
もう一度。
試したら。
どうなるのだろう。
「……」
炎が。
少し大きくなる。
でも。
すぐに。
消した。
違う。
ただ。
操りたいわけではない。
政宗様には。
自分から。
見てほしい。
自分を。
選んでほしい。
信長様を見る時みたいに。
必死になってほしい。
「……政宗様」
萌呼は。
鏡の中の自分を見た。
「どうしたら」
小さく。
笑う。
「私だけを見てくださいますか」
その目は。
もう。
最初に安土へ来た少女のものではなかった。




