第48話 戻れた
数日後。
政宗は、また安土にいた。
もはや追い出された回数を数える気もなかった。
「今度見つかったら、本当に門閉められるぞ」
秀吉が呆れた顔で言う。
「壁越えりゃいい」
「おぬし、一国の主じゃろ」
「知ってる」
「もう少し品を持て」
「今それ必要?」
「……いらんな」
「だろ」
二人は城下から少し離れた寺へ向かっていた。
今日は、市を城から連れ出している。
萌呼には、信長の命で寺へ祈祷に行くと伝えた。
もちろん。
信長の命ではない。
「バレたら?」
「儂が怒られる」
「俺は?」
「もう怒られとる」
「じゃあ問題ねぇな」
「あるわ」
秀吉は大きく息を吐いた。
だが、足は止めなかった。
市を戻せる可能性がある。
それだけで十分だった。
*
寺の奥。
人払いをした一室に、市は座っていた。
「今日は何をするのですか?」
表情は穏やかだった。
けれど。
市の視線は、何度も入口へ向く。
「萌呼は来ぬぞ」
秀吉が言う。
市の顔が僅かに曇った。
「なぜです」
「今日は市様のお話をしたいので」
「萌呼も一緒ではいけませんか?」
「いけねぇ」
政宗が即答した。
市が政宗を見る。
「なぜです?」
「お前が萌呼のことしか考えられなくなってるから」
「そのようなことは」
「ある」
「ありません」
「じゃあ今から試す」
政宗は、市の正面へ座った。
「何をです?」
「萌呼の話、一回禁止」
「……」
「自分のことだけ考えろ」
市の眉が寄る。
「私のこと……」
「そう」
「何を考えれば」
「何でもいい」
「何でも?」
「好きな食い物でも、行きたい場所でも、嫌いな奴でも」
市は少し戸惑った。
「……難しいです」
「何で」
「分かりません」
「分からねぇ?」
「はい」
政宗と秀吉が視線を交わす。
市は、本当に困った顔をしていた。
「以前は?」
秀吉が聞く。
「以前……」
「萌呼殿と会う前です」
「……」
市は考える。
長い沈黙のあと。
「花が、好きでした」
秀吉の目が少し動く。
「何の花が」
「桜」
「他には」
「藤も……好きです」
「食べ物は?」
「甘いものを」
「殿に隠れて食べておられましたな」
市の口元が。
僅かに緩んだ。
「兄上が、すぐ見つけるのです」
「信長が?」
政宗が聞く。
「はい」
市の目が少し遠くなる。
「私が隠していた菓子を、全部見つけて」
「食った?」
「半分」
「最低じゃん」
「でも後で、もっと持ってきてくれました」
市が。
笑った。
ほんの少しだけ。
政宗はその顔を見た。
「それだよ」
「え?」
「今の顔」
市が驚く。
「萌呼の話してる時と違う」
「……」
「今の方が、お前っぽい」
市は、自分の頬へ手を当てた。
「私……」
「まだあるだろ」
政宗が続ける。
「お前の好きなもん」
「……」
「嫌いなこと」
「……」
「やりたいこと」
市は。
少しずつ。
思い出すように話し始めた。
花。
茶。
着物。
静かな庭。
兄と喧嘩したこと。
秀吉に相談したこと。
自分で選んだ帯。
くだらないこと。
小さなこと。
でも。
全部。
市自身のものだった。
そして。
話せば話すほど。
市の表情が戻っていく。
「私……」
市が、自分の手を見る。
「こんなに」
「ん?」
「こんなに、色々なことを好きだったのですね」
「あぁ」
政宗が頷く。
「萌呼だけじゃなかった」
市の目に。
涙が浮かんだ。
「私は……」
その瞬間。
首元に。
黒い影が走った。
「来た」
政宗が立ち上がる。
「市!」
「萌呼……」
「言うな!」
政宗が強い声で止める。
市の肩が震える。
「でも……」
「今、お前が話してたもん思い出せ」
「……」
「桜」
「……」
「藤」
「……」
「菓子」
「……兄上が」
「そう」
「半分……食べて」
「そうそう」
市の呼吸が乱れる。
黒い影が。
また首元に浮かぶ。
「私……」
「市!」
「私、萌呼だけじゃ……」
影が濃くなる。
市が頭を抱えた。
「っ……!」
秀吉が支える。
「市様!」
「嫌……」
政宗の表情が変わる。
「何が」
「分からなくなる……」
「何が!」
「私が……」
市の目から涙が溢れる。
「私が、何を好きだったのか……」
秀吉が息を呑む。
「萌呼を大切にしなければと思うと……」
「……」
「他のものが、全部どうでもよくなる」
政宗の拳が握られる。
「やっぱり」
低く呟く。
「消してるんじゃねぇ」
「上から塗り潰しておる」
秀吉が続けた。
「市様自身を」
政宗は頷いた。
記憶はある。
感情も残っている。
ただ。
萌呼という感情だけが。
全部より上へ置かれている。
「じゃあ」
政宗が市を見る。
「逆にすりゃいい」
秀吉が顔を上げる。
「逆?」
「市自身を増やす」
「……」
「萌呼以外のこと、全部思い出させる」
政宗は市の前へ膝をついた。
「好きなもん」
「……」
「嫌いなもん」
「……」
「兄貴」
「……」
「友達」
「……」
「自分で決めたこと」
市の涙が落ちる。
「全部」
政宗が言う。
「お前に返す」
市は。
小さく頷いた。
*
その頃。
安土城。
「市はどこですか?」
萌呼が聞いた。
信長は書状から目を上げる。
「寺へ祈祷に行ったと聞いておる」
「……誰と?」
「猿じゃ」
萌呼の指先が止まる。
「秀吉様と?」
「あぁ」
「政宗様は?」
「知らぬ」
萌呼は黙った。
胸の奥が。
ざわつく。
嫌な感じがした。
「信長様」
「何じゃ」
「市様を、迎えに行きませんか?」
「何故じゃ」
「心配なのです」
黒い炎が。
指先で揺れる。
「最近、市様の様子がおかしい気がして」
信長の眉が動く。
「おかしい?」
「はい」
「何がじゃ」
「私を避けているような」
事実ではない。
けれど。
そう言うと。
信長の顔が変わった。
「誰かに何か言われたか」
「分かりません」
萌呼は目を伏せる。
「ただ……政宗様と秀吉様が、私を疑っておられますから」
信長の目が鋭くなる。
「またあやつらか」
「私は、何もしていないのに」
「……」
「市様まで、私から離れてしまったら」
萌呼の声が。
少し震える。
「私……」
信長が立ち上がった。
「行くぞ」
「え?」
「寺じゃ」
萌呼は顔を上げる。
「信長様……」
「市を連れ戻す」
萌呼は。
安心したように微笑んだ。
*
「もう一回」
寺では。
政宗が市へ話しかけていた。
「好きな花」
「桜と、藤」
「食い物」
「甘いもの」
「嫌いなこと」
「兄上に勝手に菓子を食べられること」
「それは怒っていい」
市が少し笑った。
秀吉も。
ようやく小さく笑う。
「それから?」
政宗が聞く。
「……人に、勝手に決められること」
政宗の目が動いた。
「前から?」
「はい」
市は頷いた。
「自分の着物も、出かける場所も、自分で選びたかった」
「じゃあ今は?」
「今……」
市の顔が曇る。
「萌呼が喜ぶなら、それでいいと……」
「それ本当にお前?」
「……」
市は。
長く黙った。
「違う……」
小さな声だった。
「私」
自分の胸元を握る。
「そんなふうに、生きたくない」
政宗と秀吉が。
同時に顔を上げる。
「市」
「私は」
涙を流しながら。
それでも。
はっきりと言った。
「私が選びたい」
黒い影が。
一気に市の首元へ浮かんだ。
けれど。
今度は。
市が自分で首元を押さえる。
「……嫌」
「市!」
「嫌です」
黒い影が揺れる。
「萌呼を……大切にしなければ」
市の呼吸が乱れる。
「でも」
拳を握る。
「私まで、いなくなりたくない」
政宗の目が見開かれた。
「そうだ」
市を見る。
「それだよ」
市の中に。
まだいる。
ちゃんと。
自分を取り戻そうとしている。
その時。
「市!」
外から。
信長の声が響いた。
市の表情が変わる。
「……兄上」
障子が開く。
信長と。
萌呼が立っていた。
萌呼は。
市の顔を見た瞬間。
固まった。
「市様……?」
市が。
萌呼を見る。
今までとは違う。
すぐに微笑まない。
すぐに立ち上がらない。
ただ。
見ている。
「……萌呼」
萌呼の胸が冷える。
「はい」
市は。
一度。
息を吸った。
「私」
政宗が市を見る。
秀吉も。
信長も。
「少し」
市は、自分の言葉を探すように。
ゆっくり言った。
「あなたから、離れたいです」
萌呼の顔から。
笑みが消えた。




