第46話 少しだけ
翌日。
政宗は安土へ戻っていた。
昨日、信長本人から帰れと言われたばかりだったが、そんなことは関係なかった。
「お前、ほんとに来たのか」
城の裏手で待っていた秀吉が呆れた顔をする。
「来るって言っただろ」
「殿に見つかったら、また追い出されるぞ」
「その時はまた来る」
「面倒な男じゃのう」
「お前に言われたくねぇよ」
政宗は城を見上げた。
「市は?」
「離れの茶室におる。萌呼には、今日は儂と話があると伝えてある」
「一人か」
「あぁ」
「じゃあ行くぞ」
二人は人気の少ない渡り廊下を進んだ。
政宗には、まだ少しだけ期待があった。
萌呼が近くにいなければ、呪術の影響も弱くなるのではないか。
市自身に話せば、何か思い出すのではないか。
そうであってほしかった。
*
「秀吉様」
茶室に入ると、市が静かに頭を下げた。
「政宗様も」
「久しぶり」
「昨日もお城にいらっしゃいましたでしょう」
「知ってんじゃん」
「はい」
受け答えは普通だった。
姿勢も、声も、表情も。
一見すれば、いつもの市に見える。
政宗は秀吉を見る。
秀吉も僅かに頷いた。
「市」
「はい」
「ちょっと聞きてぇことある」
「何でしょう」
「萌呼のこと、どう思ってる」
市の顔が、ぱっと明るくなった。
「素晴らしい方です」
政宗の眉が動く。
「どこが」
「優しくて、可愛らしくて、人の気持ちを考えられる方です」
「他には?」
「皆に愛されるべき方です」
政宗は黙った。
秀吉が口を開く。
「市様」
「はい」
「萌呼殿と知り合って、まだそれほど長くはありませんな」
「長さは関係ありません」
「そうですか」
「はい」
秀吉は少しだけ目を細めた。
「では、お聞きしても?」
「何でしょう」
「信長様と萌呼殿が同時に危険な目に遭ったら、どちらを助けます」
「萌呼です」
間がなかった。
政宗の表情が変わる。
秀吉も笑わなかった。
「信長様は、兄君ですぞ」
「存じております」
「幼い頃から、ずっと共におられた」
「はい」
「それでも?」
「萌呼の方が大切です」
市は、本当に不思議そうな顔をしていた。
まるで。
当然のことを聞かれたように。
「じゃあ」
政宗が口を開く。
「信長が死んでも?」
「……」
その時。
初めて。
市の表情が止まった。
「市?」
「……兄上が」
唇が僅かに震える。
「死ぬ……?」
「そう」
「……嫌」
小さな声だった。
政宗と秀吉の目が変わる。
「なら信長を助ける?」
「……」
市が苦しそうに胸元を掴んだ。
「違う……」
「何が」
「萌呼を……」
呼吸が浅くなる。
「萌呼を、助けないと」
「何で?」
「だって……萌呼は……」
「何」
「大切で……」
「信長より?」
「信長兄上より……」
言葉が止まった。
市の目に。
ほんの一瞬。
迷いが見えた。
「市様」
秀吉が静かに声をかける。
「信長様と、幼い頃よく庭を走り回っておられましたな」
市の目が揺れる。
「……」
「転んだ時、誰が手を引いてくれました」
「兄上……」
「怖い夢を見た夜、誰の部屋へ行かれました」
「……兄上の」
「信長様が叱られた時、市様が庇っておられたこともございました」
「……」
「そして、市様が泣けば」
秀吉はゆっくり続ける。
「信長様は、誰より先に気づいておられた」
市の頬を涙が落ちた。
「……兄上」
「そうです」
「兄上……」
市の目が。
少しずつ。
元の光を取り戻していく。
「私……」
政宗が身を乗り出す。
「市」
「私……兄上を」
その瞬間。
市の首元を。
黒い影が一瞬だけ走った。
「!」
政宗が立ち上がる。
市の肩が大きく震えた。
「……萌呼」
「市!」
「萌呼に、会わなければ」
さっきまで流していた涙が。
急に意味を失ったように見えた。
「萌呼が私を必要としております」
秀吉の顔から血の気が引く。
「……戻された」
政宗が低く言う。
「今、一瞬戻ったのに」
「あぁ」
秀吉も表情を険しくする。
「記憶は消えておらぬ」
政宗は拳を握った。
信長との思い出も。
兄への愛情も。
全部残っている。
ただ、その上から。
萌呼を最優先にする感情だけが。
無理やり被せられている。
*
「市!」
障子が勢いよく開いた。
信長だった。
その後ろに、萌呼がいる。
「……来たか」
政宗が立ち上がる。
「政宗」
信長の目つきが変わる。
「何故おる」
「市と話してただけ」
「余は帰れと言ったはずじゃ」
「帰ったよ」
「なら何故戻った」
「今日になったから」
「ふざけるな!」
「ふざけてねぇよ」
政宗は信長から目を逸らさない。
「市に何した」
「何もしておらぬ!」
「殿」
秀吉が立ち上がった。
「今、市様が一瞬だけ戻られました」
信長の眉が動く。
「戻った?」
「はい」
「何からじゃ」
「萌呼殿の呪術からです」
「……」
空気が一気に冷えた。
萌呼の顔が強張る。
「私……何もしていません」
「嘘つけ」
政宗が即座に言った。
「政宗様……」
「市の首に黒いの出た」
「知りません」
「俺も見た」
「本当に……」
萌呼の目に涙が浮かぶ。
「私、そんなこと……」
「萌呼」
信長が一歩前へ出た。
「大丈夫じゃ」
「信長様……」
「おぬしを疑ってはおらぬ」
政宗の顔が険しくなる。
「またそれか」
「何じゃ」
「何で調べる前からこいつ信じるんだよ」
「萌呼が嘘をつく理由がない」
「あるだろ」
「何がじゃ」
「バレたくねぇ」
「政宗!」
信長の怒声が響く。
「萌呼を侮辱するな」
「じゃあ市見ろよ!」
政宗も声を荒げた。
「お前の妹だろ!」
信長の動きが止まる。
「……」
「今こいつ、自分で考えられなくなってんだぞ!」
「市は正常じゃ」
「どこが!」
「市」
信長が呼ぶ。
「はい、兄上」
「おぬしは萌呼を大切に思っておるか」
「もちろんです」
「自分の意思で?」
「はい」
信長は政宗を見る。
「ほら見ろ」
政宗は、言葉を失った。
「……お前」
「何じゃ」
「それ、本気で言ってんのか」
「本人がそう申しておる」
「さっきまで、お前のこと思い出して泣いてたんだぞ」
「おぬしらが妙なことを吹き込んだからじゃ」
秀吉の表情が変わる。
「殿」
「何じゃ」
「妙なことではございません」
「……」
「市様と殿の、昔のお話をしただけです」
信長が黙る。
「市様は」
秀吉はまっすぐ信長を見る。
「殿との思い出を、ちゃんと覚えておられました」
「……」
「兄君を大切に思う心も、残っておられました」
信長の目が。
ほんの少しだけ。
市へ向いた。
市も信長を見る。
「……兄上」
その声に。
信長の表情が、一瞬だけ揺れた。
「市……」
政宗が息を止める。
いた。
今。
ちゃんと。
信長がいた。
けれど。
「信長様」
萌呼が小さく呼ぶ。
指先で。
黒い炎が僅かに揺れた。
信長の目が曇る。
「……市は萌呼と帰れ」
政宗の顔が変わった。
「は?」
「兄上」
市は、すぐに萌呼の横へ行こうとする。
「待て」
秀吉が腕を掴む。
「市様」
「離してください」
「今、殿を思い出しておられたでしょう」
「萌呼が待っております」
「市!」
信長は。
止めなかった。
自分の妹が。
兄との記憶より。
萌呼を選ぼうとしているのに。
止めなかった。
萌呼が、ほっとしたように微笑む。
「ありがとうございます、信長様」
「あぁ」
政宗は。
そのやり取りを見ていた。
昨日は自分だった。
今日は秀吉。
そして今。
ついに。
信長自身と市の兄妹の間にまで。
萌呼が入った。
「信長」
「まだ何かあるのか」
「お前」
政宗は静かに聞いた。
「市がこのままでいいのか」
「本人が望んでおる」
「違うだろ」
「何が違う」
「お前が一番分かってるはずだろ」
信長の眉が寄る。
「昔の市なら」
「……」
「お前が死ぬか萌呼が死ぬか聞かれて、迷わず萌呼なんて言ったか?」
「……」
「言わねぇだろ」
信長の目が。
僅かに揺れる。
「お前の妹だぞ」
「……黙れ」
「信長」
「黙れと言っておる!」
怒鳴った声が響く。
政宗は、そこで口を閉じた。
顔も。
声も。
全部。
信長なのに。
やっぱり。
何かが違う。
*
萌呼と市が去ったあと。
信長も何も言わずに部屋を出ていった。
残された秀吉は、しばらく座ったまま動かなかった。
「猿」
「……何じゃ」
「市、戻せる」
秀吉が顔を上げる。
「一瞬だったけど」
「あぁ」
「信長のこと思い出してた」
「……あぁ」
「消えてねぇ」
秀吉が唇を噛む。
「中にいる」
政宗は断言した。
「市はちゃんと中にいる」
秀吉が、ゆっくり頷く。
「そして」
政宗は障子の向こうを見る。
「信長もだ」
さっき。
市に呼ばれた時。
一瞬だけ。
信長の顔が戻った。
兄の顔だった。
「……政宗殿」
「何」
「殿も、戻せると思うか」
政宗は少しだけ黙った。
昨日。
自分が昔の話をした時。
今日。
市が「兄上」と呼んだ時。
信長の目は。
確かに揺れた。
「あぁ」
政宗は頷く。
「いる」
「……」
「まだ中にいる」
そう言い切ってから立ち上がる。
「だったら」
秀吉も立ち上がった。
「どうする」
政宗は。
信長が消えた廊下を見る。
「引きずり出す」
「市も」
「あぁ」
「殿も」
「あぁ」
政宗の片目が鋭くなる。
「萌呼に持ってかれたもん」
一度。
拳を握る。
「全部、返してもらう」




