第44話 戻す
それから数日。
安土城では、信長の周囲から少しずつ人が減っていた。
正確には。
消えたわけではない。
以前なら会議へ呼ばれていた家臣が呼ばれなくなり、意見を言っていた者が遠ざけられ、代わりに萌呼が信長の近くにいる時間が増えた。
最初は、誰も深く考えなかった。
天下を取ったばかりだ。
環境が変われば、側に置く人間も変わる。
そういうこともある。
だが。
政宗は違った。
「またいねぇな」
朝の評定。
政宗は座敷を見回した。
昨日までいた家臣が、今日はいない。
「誰じゃ」
信長が書状から目を上げる。
「昨日、年貢の話してた奴」
「あぁ」
「どこ行った」
「外した」
政宗の眉が動く。
「何で」
「余の方針に口を出した」
「それだけ?」
「それだけで十分じゃ」
政宗は黙った。
昨日。
その家臣が言ったことを覚えている。
萌呼が、城下の祭りを大きくしたいと言った。
皆が喜ぶように。
華やかに。
国中から人を集めて。
豪華なものにしたい。
信長はすぐに許可しようとした。
だが、その家臣だけが止めた。
今年は一部の地域で収穫が落ちている。
今は祭りより、食料の備蓄を優先した方がいい。
ただ、それだけだった。
信長自身も。
少し前なら同じことを言ったはずだ。
「そいつ、間違ったこと言ってねぇだろ」
「余が決めたことじゃ」
「決める前に止めただけだろ」
「同じことじゃ」
「違ぇよ」
政宗の声が低くなる。
信長も書状を置いた。
「また始めるつもりか」
「お前がまた変なことしてるからだろ」
「変ではない」
「じゃあ聞くけどよ」
政宗は身を乗り出した。
「今年、米足りねぇ土地あるよな」
「ある」
「備蓄減ってるよな」
「そうじゃ」
「で、何で今祭り広げる」
信長は答えない。
「前のお前なら、先に飯だろ」
「祭りも民のためじゃ」
「それはそうだよ」
「なら問題あるまい」
「順番の話してんだ」
政宗は視線を鋭くした。
「飯足りねぇ奴に、祭り見せて喜べって言うのか」
信長の表情が少し硬くなる。
「全て同時に進めればよい」
「人も金も無限じゃねぇ」
「分かっておる」
「分かってねぇから言ってんだろ」
その時。
「政宗様」
柔らかい声が入った。
萌呼だった。
政宗の顔が一瞬で冷える。
「何」
「信長様を責めないでください」
「責めてねぇよ」
「でも」
萌呼は悲しそうに目を伏せた。
「私が、祭りがあれば皆様が少しでも笑えると思って……」
「だから、それが悪いって言ってねぇ」
「では」
「順番だって言ってんだよ」
萌呼は黙った。
その指先で。
黒い炎が小さく揺れる。
「私は……ただ、皆様に喜んでほしかっただけです」
信長が萌呼を見る。
「分かっておる」
「信長様……」
「おぬしは悪くない」
政宗の目が細くなる。
まただ。
萌呼が悲しそうな顔をした瞬間。
信長の判断が。
そちらへ引っ張られる。
「祭りは予定どおり行う」
「信長」
「決定じゃ」
「だから――」
「政宗」
信長の声が低くなる。
「余の決定を何度覆せば気が済む」
「お前の決定がおかしい時だけだよ」
「余が間違っていると?」
「今はな」
座敷の空気が止まった。
秀吉が静かに二人を見る。
萌呼は信長の横で、不安そうに手を握っている。
「……もうよい」
信長が言った。
「何が」
「おぬしは帰れ」
政宗は、すぐには意味を理解しなかった。
「は?」
「自分の国へ戻れ」
「何言ってんだ」
「ここは余の城じゃ」
「知ってる」
「なら、余の決定に従えぬ者は必要ない」
政宗の表情が消えた。
秀吉も目を見開く。
「殿」
「猿は黙っておれ」
信長は政宗だけを見ていた。
「帰れ、政宗」
政宗はしばらく何も言わなかった。
怒鳴りもしない。
笑いもしない。
ただ。
信長を見る。
「……本気で言ってんのか」
「二度言わせるな」
「俺を」
少し間を置く。
「追い出すのか」
「余に逆らうならな」
政宗の胸の奥で。
何かが冷えた。
喧嘩は何度もした。
殴り合ったこともある。
互いの考えを馬鹿にしたことも。
天下を取るのは自分だと競ったことも。
それでも。
信長が政宗へ。
従え。
そう言ったことはなかった。
「……俺、お前の家臣じゃねぇぞ」
「分かっておる」
「じゃあ従うわけねぇだろ」
「なら帰れ」
信長は。
迷わなかった。
政宗は一度、萌呼を見る。
萌呼は。
信長の隣に座っていた。
そして。
ほんの少しだけ。
安心したような顔をしていた。
政宗はその顔を見て。
何も言わずに立ち上がった。
「……分かった」
「政宗殿」
秀吉が呼ぶ。
「いい」
政宗は振り返らない。
「今日は帰る」
信長の横を通り過ぎる。
けれど。
障子へ手をかけたところで。
一度だけ止まった。
「信長」
「何じゃ」
「俺は」
政宗は背を向けたまま言う。
「お前に従う気は、昔から一回もねぇよ」
「……」
「でも」
少しだけ顔を横へ向ける。
「お前を見捨てる気もねぇ」
信長の目が僅かに揺れた。
政宗はそれ以上何も言わず、座敷を出た。
*
「……よろしかったのですか」
政宗がいなくなったあと。
萌呼が小さく聞いた。
「何がじゃ」
「政宗様を」
「構わぬ」
信長は書状を手に取った。
けれど。
すぐには読まなかった。
「……昔から」
萌呼が信長を見る。
「政宗様と、仲がよかったのですね」
「仲がよい?」
信長が鼻で笑う。
「喧嘩ばかりじゃった」
「でも」
「……」
「大切な方なのでしょう?」
信長の指が止まる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
昔の顔に戻ったように見えた。
「……長いだけじゃ」
「そうですか」
萌呼は微笑んだ。
けれど。
胸の奥では。
違う感情が動いていた。
やっぱり。
特別なのだ。
信長様にとって。
政宗様は。
自分がどれだけ信長様に愛されても。
あの人との間には。
自分の知らない時間がある。
梵天丸と。
吉法師。
自分が入れない場所。
「……」
萌呼は。
無意識に。
黒い炎を指先へ灯した。
嫌だった。
自分の知らない信長様がいるのが。
自分の知らない顔を。
政宗様だけが知っているのが。
だったら。
なくしてしまえばいい。
そんな考えが。
一瞬だけ。
頭をよぎった。
*
城を出た政宗は。
そのまま馬へ乗らなかった。
石段の途中で立ち止まり。
安土城を見上げた。
「……あいつ」
腹が立つ。
今すぐ戻って殴りたい。
目を覚ませと。
昔みたいに。
けれど。
それだけでは駄目だということも分かっていた。
信長自身が。
おかしいと気づいていない。
むしろ。
自分は正しいと思っている。
「政宗殿」
後ろから秀吉が追ってきた。
「帰るんじゃなかったのか」
「帰るよ」
「本当に?」
「今日はな」
秀吉が隣へ立つ。
「今日は?」
政宗は城を見たまま答えた。
「追い出されたくらいで、いなくなるわけねぇだろ」
秀吉が小さく笑った。
「そう言うと思ったわ」
「笑ってる場合か」
「笑っておらんとやってられん」
「それはそう」
二人は少し黙る。
やがて秀吉が言った。
「殿は、以前なら絶対におぬしへあの言葉は使わなんだ」
「あぁ」
「従え、とな」
「あぁ」
「……進んでおる」
政宗は返事をしなかった。
分かっている。
もう。
ただの違和感ではない。
萌呼を優先するだけでもない。
信長の中で。
人との関係そのものが。
変わり始めている。
「猿」
「何じゃ」
「市は」
「今も萌呼の言うことしか聞かぬ」
「戻ってねぇか」
「まだな」
政宗が舌打ちする。
「じゃあ」
「まず市を戻す」
秀吉が頷く。
「それしかない」
「市が戻れば、呪術の仕組みが分かるかもしれねぇ」
「殿へかかっているものを解く手掛かりにもなる」
政宗は。
もう一度。
安土城を見上げた。
信長はまだ、あの中にいる。
話せる。
怒る。
考える。
笑う。
全部。
まだ残っている。
だからこそ。
今しかない。
「絶対戻すぞ」
秀吉が政宗を見る。
「殿をか」
「市も」
一度、息を吐く。
「信長も」
政宗は。
迷わず言った。
「両方だ」




