第43話 殺さない
池田屋で新選組が踏み込んできた時、レイナはまた戦いになるのだと思った。
けれど、姫様は刀を抜かなかった。代わりにミレーヌさんから、小さな瓶を受け取る。
「本当に使うんですね」
「あぁ」
「一度きりです」
「分かっとる」
「午前零時までです」
「シンデレラ確認いらん」
その会話を聞いた瞬間、レイナは息を止めた。
何の薬なのか、分かっていた。
「姫様……」
姫様が小瓶の中身を飲み干す。
淡い光が、小さな身体を包んだ。金色の髪が消え、細い肩が広がり、小さな手が大きな男の手へ変わっていく。
そして光が消れた時。
そこには、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司様が立っていた。
長い脚。広い肩。気だるそうな目。
何度も見ているはずだった。
姫様の傍に、魂として立っている姿を。顔も、立ち姿も、全部知っている。
なのに。
「……姫様が、清司様に……」
レイナの頬が熱くなる。
「反則ですわ……」
魂として見るのと、生身で目の前に立たれるのとでは、まるで違った。
低い声。
畳を踏む足音。
身体を動かすたびに揺れる黒いスーツ。
そこにいる。
本当に。
同じ場所に立っている。
「うわ。ガチの黒王子じゃん……」
パードが口を開けたまま呟いた。
キルナも、清司様から目を逸らさない。
「……クソかっけぇ」
「かっこいいですーーー!!!」
「声デカ!」
心絆の声が池田屋に響く。
その横で、スギナが胸へ手を当てた。
「魂と身体が完全に――」
「説明は後や」
「はい……」
レイナは何も言わなかった。
言えなかった。
自分だって同じだったから。
*
新選組が刀を抜いた。
清司様は刀を肩から下ろしたが、鞘からは抜かなかった。
振り下ろされた刃を鞘のまま受け流し、そのまま相手の腹へ叩き込む。次の刀を弾き、手首を打つ。
速い。
姫様の身体では、できなかった動きだった。
走ることも。
相手へ踏み込むことも。
大きな身体を投げ飛ばすことも。
今の清司様なら、全部できる。
そして清司様は、途中で刀までバルドさんへ預けた。
「刀を捨てるのか」
「預けただけや」
清司様は拳を鳴らす。
「刀持っとる相手に、素手で十分や言うとんねん」
レイナは息を呑んだ。
強い。
想像していたよりも、ずっと。
清司様なら、本当に誰でも殺せるのではないか。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
実際、土方という男へ向かった拳は、その顎を簡単に砕けそうな勢いだった。
「……!」
けれど。
拳は、寸前で止まった。
「死なん程度にしといたる」
土方が清司様を見上げる。
「……なぜ止めた」
「殺したら話聞かれへんやろ」
清司様は何でもないことのように答えた。
その瞬間。
レイナの中で、何かが静かに繋がった。
姫様の身体が弱いから、人を殺さなかったわけではなかった。
刀を振るう力がなかったからでもない。
清司様は、殺せる。
その力を持っている。
それでも、自分で止める。
必要以上に傷つけない。
殺さない。
レイナは、胸の奥がゆっくりと熱くなるのを感じた。
あぁ。
やはり、この方なのですわ。
*
戦いが終わると、新選組の男たちは全員正座させられた。
清司様はその前へ胡座をかき、バルドさんが置いた脇息へ片肘を預ける。
そして、煙草を咥えた。
火がつく。
清司様がゆっくり煙を吸い込み、白い煙を吐き出す。
「……」
レイナは、思わず見つめてしまった。
「レイナ」
パードが小声で呼ぶ。
「何ですの」
「見すぎ」
「見ておりませんわ」
「いや、めっちゃ見てるじゃん」
「お話を聞いているだけです」
「煙草しか見てなくない?」
「そんなことありませんわ!」
少し声が大きくなった。
清司様がこちらを見る。
「何しとんねん」
「何でもありませんわ!」
「そう?」
「はい!」
清司様は不思議そうな顔をしたあと、また新選組へ向き直った。
パードが肩を震わせる。
「……笑わないでください」
「ごめんって」
キルナも腕を組みながら、清司様を見る。
「でも分かる」
「何がですの?」
「煙草、クソ似合ってる」
「キルナまで!」
スギナも真面目な顔で頷いた。
「低い声との相乗効果も――」
「分析しなくて結構ですわ!」
レイナは頬が熱くなるのを感じながら、それでももう一度清司様を見た。
確かに。
反則だと思う。
魂として見ていた時にも美しい人だと思っていた。
けれど、生身の男性として目の前にいると、まるで違う。
声も。
身体も。
仕草も。
煙草を持つ指先さえ。
全部が現実だった。
でも。
そんなことよりも。
レイナの目を離せなくさせたのは、清司様が何をしているのかだった。
さっきまで戦っていた相手の前へ座り。
今度は。
その話を聞いている。
*
新選組にも事情があった。
本人たちだけではない。
親。
兄弟。
妻。
子ども。
家族を人質に取られ、逆らえば殺される。
だから、命令に従うしかなかった。
レイナは黙って、その話を聞いていた。
まただ。
明智光秀たちと同じ。
これしかないと思っていた人たち。
誰かを傷つけたいわけではなく。
誰かを殺したいわけでもない。
ただ。
別の道が見えなかった。
清司様は煙草の灰を落としながら、一人ずつの言葉を聞いていた。
怒鳴らない。
責め立てない。
ただ必要なことを聞き、事情を知る。
そして。
新選組から、家族ごとリュミエールへ連れていってほしいと言われた時。
清司様は。
やはり。
受け入れた。
レイナは驚かなかった。
むしろ、少しだけ笑った。
「……レイナ」
またパードが小声で呼ぶ。
「今度は何ですの?」
「嬉しそう」
「そう見えます?」
「うん」
レイナは、今度は否定しなかった。
「……嬉しいですわ」
「何が?」
レイナは少しだけ考えてから、清司様を見る。
「私が思っていた通りの方でしたから」
パードが目を瞬かせる。
レイナは、静かに笑った。
姫様の時と。
何も変わらない。
強くなっても。
自由に身体を動かせるようになっても。
刀を使えば簡単に相手を斬れるようになっても。
この方は。
やっぱり。
誰かを簡単には切り捨てない。
*
しばらくして。
遠くから鐘の音が聞こえた。
午前零時。
「お」
清司様の身体が淡い光に包まれる。
「清司様……」
レイナは思わず立ち上がった。
黒いスーツ姿が光の中へ消えていく。
そして次の瞬間。
脇息へ片肘を預けたまま座っていたのは、金髪を隠し、尼僧の衣をまとったいつもの姫様だった。
その背後には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司様が立っている。
「戻った」
アレクシスが嬉しそうに言う。
「ずっとそれ気にしとったんかい!」
「うん」
「マジでシンデレラやないかい!!」
池田屋に笑い声が広がった。
レイナも思わず笑った。
ほんの少しだけ。
寂しい。
そう思わなかったと言えば、嘘になる。
生身の清司様を、もう少し見ていたかった。
あの低い声も。
歩く姿も。
煙草を吸う仕草も。
もう少しだけ。
でも。
目の前には、いつもの姫様がいる。
その後ろには、いつもの清司様がいる。
レイナは二つの姿を交互に見て、ふっと笑った。
「……やっぱり」
姫様が振り返る。
「何?」
「何でもありませんわ」
「今日それ多ない?」
「そうでしょうか」
「多い」
レイナは、それ以上何も言わなかった。
ただ。
分かった。
本当に。
姿など、関係なかったのだ。
男の姿でも。
女の姿でも。
魂だけでも。
生身でも。
この方は、この方だった。
自分が愛しているのは、その姿ではない。
殺せるほど強くても、殺さない人。
敵だった相手の話を聞き、その家族まで助けようとする人。
その在り方なのだ。
レイナは姫様の隣へ歩いていった。
「姫様」
「ん?」
「これからも、お傍におりますわ」
姫様は少しだけ不思議そうな顔をした。
「あぁ」
そして、いつものように答える。
「おってくれ」
レイナは静かに頷いた。
「はい」
姿が変わっても。
やはり。
自分が傍にいたい人は。
この方だった。




