第41話 生きるということ
本能寺の変は、歴史どおりには起こらなかった。
明智光秀は生きた。信長も生きた。兵も、誰一人死ななかった。本能寺にも火は放たれなかった。
そして夜が明ける頃には、信長を討つために集まっていたはずの者たちが、家族を迎えに行く準備を始めていた。
*
山中の砦では、明智光秀と兵たちが、まだ少し信じられないような顔をしていた。
少し前まで、ここにいる者たちは死ぬ覚悟をしていた。信長を討つか、討てずに死ぬか。そのどちらかしかないと思っていた。
けれど今は違う。
「妻と子どもを連れてきます」
「老いた母もおりますが……」
「もちろん連れてこい」
姫様が即答する。
「足が悪いのですが」
「歩かせんな。馬車使え」
「父も病を患っております」
「医者に診せる」
「弟がまだ幼くて」
「一緒に来い」
「本当に……全員ですか?」
「何回聞くねん。全員や」
兵たちが顔を見合わせる。その横では、ミレーヌさんがすでに黒革手帖を開いていた。
「では、人数を確認します。明智光秀様ご本人、兵士の方々、そのご家族。それから、子どもの人数も必要です」
「子どももですか?」
「学校と食事の準備が変わりますので」
「……学校?」
一人の兵が目を丸くする。
姫様が首を傾げた。
「子ども働かせる気なん?」
「い、いえ!」
「ほな学校やろ」
兵は何も言えなくなった。
レイナは少し離れたところから、その様子を見ていた。
昨日、姫様は言った。
全員、助けると。
あの時レイナは、命を救う話だと思っていた。死なせない。逃がす。守る。それだけでも十分にすごいことだと思っていた。
けれど姫様は、もうその先の話をしている。
「住む場所は?」
ミレーヌさんが黒革手帖を見ながら答える。
「現在の空きだけでは足りません。仮住居を先に用意して、その間に増設する形がよろしいかと」
「それでいこ。仕事は?」
「まだ何ができるか分かりません」
「ほな聞こ」
姫様は兵たちへ向き直った。
「お前ら、刀以外に何できる?」
「……え?」
「何ができるか聞いとんねん」
一人の兵が戸惑いながら答える。
「昔は……農家でした」
「何作っとった?」
「米です」
「お、米いけるやん」
別の兵が手を挙げた。
「私は鍛冶を」
「武器だけ?」
「農具も作れます」
「それもいる」
「私は木工を」
「家具?」
「家も建てられます」
「めちゃくちゃいる」
また別の兵が、少し遠慮がちに口を開いた。
「私は……字の読み書きくらいしか」
「十分や」
「え?」
「役所でも店でも仕事ある」
兵が目を瞬かせる。
姫様は何でもないことのように、次の人を見る。
「お前は?」
「……料理を少し」
「何作れる?」
「魚を捌いたり、汁物を」
「飯屋いけるやん」
「飯屋……」
「嫌?」
「い、いえ!」
「ほな候補な」
一人ずつ。
何ができるのか。
何をしてきたのか。
何ならできそうなのか。
姫様は、当たり前のように聞いていく。
レイナには、それが不思議だった。
少し前まで、彼らはただの兵だった。信長へ刃を向けようとした明智光秀の兵。
けれど姫様が話を聞くたびに、その人たちは兵ではなくなっていく。
米を作れる人。
農具を作れる人。
家を建てられる人。
字を読める人。
料理ができる人。
戦う人ではなく、生きる人へ戻っていく。
「怪我人は?」
姫様が尋ねる。
「数名おります」
「先に診せる」
バルドさんが静かに頷いた。
「医療班へ伝えておきます」
「重い奴おる?」
「一人、傷が深い者が」
「最優先」
「承知いたしました」
チリン。
鈴の音が鳴る。
「仕事早いな」
「当然でございます」
姫様が笑う。
レイナは、その横顔を見つめた。
助けた。
それで終わらない。
家族を連れてくる。
それで終わらない。
住む場所。食べるもの。仕事。学校。医療。
その人が明日も、その次の日も生きていくために必要なものを、姫様はもう考えている。
「船はどうします?」
龍馬さんが口を挟んだ。
「人数次第やな」
「何隻でも出すぜよ!」
「そこだけ急に頼もしいな」
「海は任せるぜよ!」
「分かった分かった」
桂小五郎さんもすぐに続く。
「家族を迎えに行く者と、ここへ残る者を分けた方がいいでしょう」
「そうやな。全員一気に動いたら混乱する」
大久保利通さんも真顔で口を挟む。
「名簿を作ります。家族構成、年齢、職歴、怪我や病気の有無まで確認した方がよいでしょう」
「完璧」
砦の中では、もう戦の話をしている者はいなかった。
誰を斬るか。
どう逃げるか。
どこを攻めるか。
そんな話ではない。
誰を迎えに行くか。
どこで暮らすか。
何を仕事にするか。
子どもをどう育てるか。
生きる話ばかりだった。
*
明智光秀は、しばらくその様子を黙って見ていた。
「……本当に」
小さく呟く。
姫様が振り返った。
「何?」
「本当に……ここまでしてくださるのですか」
「何が」
「私たちのために」
「お前らだけちゃうで。家族も含めてや」
光秀の目が揺れる。
「ですが、我々は信長様を討とうとした者です」
「知っとる」
「罪もあります」
「あるやろな」
姫様は、そこだけは否定しなかった。
レイナも少しだけ驚く。
何でも許すわけではない。
悪いことをした事実まで、なかったことにはしない。
「ならば、裁かれるべきでは」
光秀が静かに言う。
姫様は少し考えた。
「悪いことした分は、ちゃんと向き合え」
「……」
「でも、生き直すことまで禁止する理由にはならんやろ」
砦が静かになった。
レイナの胸が、強く鳴る。
生き直す。
その言葉が、妙に残った。
罪を消すのではない。
過去を忘れるのでもない。
それでも。
もう一度、生き方を選び直していい。
姫様が作ろうとしているのは、そういう場所なのだ。
*
しばらくして、家族を迎えに行く者たちが順番に出発することになった。
一人の兵が姫様の前で深く頭を下げる。
「必ず戻ります。妻と子どもを連れて」
「あぁ」
「母も」
「連れてこい」
「父も」
「全員」
兵の目に涙が滲んだ。
「ありがとうございます」
姫様は少しだけ困ったような顔をする。
「まだ何も始まってへんで」
「……え?」
「国着いてからや」
姫様は指を折るように続けた。
「家見つけて、仕事決めて、子ども学校入れて、病人診せて」
一度、兵を見る。
「そこまでやってから、やっと始まりや」
兵は目を見開いた。
姫様は、何でもないことのように笑う。
「待っとるで」
「……はい!」
兵は何度も頭を下げて、仲間たちとともに走っていった。
レイナは、その背中をしばらく見つめていた。
「姫様」
「ん?」
気づけば、声をかけていた。
「昨日、全員助けると仰っていましたわよね」
「あぁ」
「私は……命を助けるという意味だと思っておりました」
姫様が少しだけ首を傾げる。
「違うん?」
「違いませんわ」
レイナは小さく笑った。
「ただ、それだけではなかったのですね」
「……?」
姫様は、本当に分かっていない顔をしていた。
その表情を見て。
レイナは、また胸の奥が温かくなる。
この人にとって。
助けるということは。
きっと最初から、ここまで全部なのだ。
「何でもありませんわ」
「なんやねん」
「姫様らしいと思っただけです」
「そう?」
「はい」
姫様は少し不思議そうな顔をしたあと、もうミレーヌさんの方へ戻っていった。
「で、人数どれくらいなりそう?」
「かなり増えます」
「船足りる?」
「龍馬さんへ確認中です」
「食料は?」
「数日分は問題ありません」
「国着いたら?」
「王宮へ先に連絡を入れます」
「オヤジ絶対文句言うやろな」
「最後には受け入れてくださいます」
「それは知っとる」
そんな会話をしながら。
もう、次の準備を始めている。
レイナは少し離れた場所から、姫様を見つめた。
その隣には、刀を肩に担いだ黒スーツ姿の清司様がいる。
鋭い目。
近寄りがたいほど静かな姿。
けれどレイナは、もう知っている。
その人は。
誰かへ「生きろ」と言うだけではない。
そのあと。
どう生きるのか。
そこまで考える人なのだ。
昨日。
姫様は、全員を助けると言った。
今日。
その言葉がどういう意味だったのか。
レイナは、ようやく少しだけ分かった気がした。
道は、一つではない。
自分ではもう選べないと思ったとしても。
別の場所で。
別の生き方を。
選び直すことはできる。
姫様の傍にいると。
そう思えた。




