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婚約破棄された悪役令嬢は、有能すぎました  作者: 夜嶋朔


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第40話 効かない男

 翌朝。


 天下統一を果たした安土城には、朝から各地の報告が集まっていた。


 街道。


 市場。


 年貢。


 治水。


 各地の争い。


 信長は積み上げられた書状を、一つずつ確認している。


「次」


 家臣が一歩前へ出た。


「北の村ですが、今年は雨が少なく、収穫がかなり落ちる見込みです」


「年貢を減らせ」


「しかし、それでは――」


「民が死ねば来年の米もない」


 信長は迷わなかった。


「種籾まで取るな。冬を越せる分は残せ」


「はっ」


「次」


 別の家臣が前へ出る。


「西の街道で、商人同士の争いが増えております」


「双方から話を聞け」


「処罰は」


「先に原因を調べよ。片方だけ斬って終わりでは、また揉める」


「承知しました」


 少し離れたところで。


 政宗は腕を組みながら、その様子を見ていた。


「ちゃんと天下人やってんな」


 信長が顔を上げる。


「何じゃ、その言い方は」


「褒めてんだよ」


「軽い」


「褒められて文句言うな」


 秀吉が笑う。


「はっはっは。相変わらずじゃのう」


「猿」


「何です」


「笑うな」


「何故です」


「腹が立つ」


「理不尽ですぞ」


 いつもの朝だった。


 天下を取ってからも。


 信長は変わらなかった。


 苛烈ではある。


 言葉も荒い。


 だが。


 必要のない者まで斬ることはしない。


 話を聞く。


 理由を見る。


 決めたことには、自分で責任を持つ。


 それが。


 今の織田信長だった。


     *


「失礼いたします」


 襖の向こうから。


 柔らかな声がした。


 政宗の目が僅かに細くなる。


 萌呼だった。


「入れ」


 信長が言う。


 襖が開く。


 萌呼は茶を載せた盆を持ち、静かに座敷へ入ってきた。


 歩き方。


 座り方。


 手の添え方。


 どれも。


 お市そのものだった。


 政宗は黙ったまま、その姿を見る。


 秀吉も同じだった。


「お茶をお持ちしました」


 萌呼は一人ずつ湯呑みを置く。


「ありがとうございます」


「気が利くのう」


 家臣の一人が笑う。


 萌呼も柔らかく微笑んだ。


 その顔を見ながら。


 政宗の胸の奥に。


 昨日から消えない違和感が残っていた。


「信長様」


「何じゃ」


「朝からずっと、お仕事をされていますよね」


「天下人だからな」


「少し、お休みになってはいかがですか?」


「まだ報告が残っておる」


 信長はすぐに答えた。


 政宗の目が僅かに緩む。


 そうだ。


 これが普通だ。


 信長は。


 やると決めたことを途中では投げない。


「ですが」


 萌呼は少しだけ目を伏せた。


「昨日も、遅くまでお仕事をされていました」


「問題ない」


「でも」


 萌呼は、信長を見る。


「お身体を壊されたら……私は心配です」


 その瞬間。


 萌呼の指先で。


 黒い炎が。


 ほんの僅かに揺れた。


 誰にも見えないほど。


 小さく。


 静かに。


 信長の瞳に。


 一瞬だけ。


 黒い影が映る。


「……」


 政宗の表情が変わった。


 信長は。


 手にしていた書状を見た。


 そして。


「……残りは、明日でよい」


 政宗の眉が上がった。


「は?」


 信長は書状を机へ置いた。


「今日はここまでじゃ」


 家臣たちも驚いた顔をする。


「殿?」


「何じゃ」


「まだ報告が――」


「明日でよいと言うておる」


「……はっ」


 萌呼の顔が明るくなる。


「ありがとうございます」


 信長は湯呑みへ手を伸ばした。


 政宗は。


 その動きをじっと見ていた。


「信長」


「何じゃ」


「お前、今なんつった」


「今日はここまでじゃ」


「何で?」


「何がじゃ」


「何で途中でやめんだよ」


 信長が眉を寄せる。


「明日やればよいであろう」


「お前が?」


「わしがじゃ」


「昨日までのお前なら、絶対今日やってただろ」


「気が変わった」


「急に?」


「しつこいぞ」


 政宗は黙った。


 秀吉も。


 萌呼を見ている。


 萌呼は。


 静かに茶を飲む信長を見ながら。


 胸の奥が熱くなるのを感じていた。


 効いた。


 自分の言葉を。


 信長が聞いた。


 嬉しい。


 それだけだった。


     *


 数日後。


 安土城には。


 各地から集まった武将や商人たちが出入りしていた。


 萌呼も。


 すっかり城の中へ馴染んでいた。


「萌呼殿は、本当に気が利く」


「お市様によく似ておられる」


「礼儀も美しい」


 そんな言葉を聞くたび。


 萌呼の胸は満たされる。


 やっぱり。


 間違っていなかった。


 お市のように振る舞えば。


 人は自分を好きになる。


 そして。


 あの力を使えば。


 もっと。


 大切にしてもらえる。


「萌呼」


 信長が呼んだ。


「はい」


 萌呼はすぐに振り返る。


「これを市へ届けておけ」


「承知いたしました」


 嬉しい。


 名前を呼ばれるだけで。


 胸が高鳴る。


 もっと。


 もっと。


 自分を見てほしい。


     *


 その日の午後。


 一人の家臣が。


 信長の前へ座っていた。


「殿」


「何じゃ」


「先日の件ですが」


 家臣は一度。


 萌呼を見る。


 そして。


 少し困ったように言った。


「萌呼殿が、城内のことへ口を出されるのは、少し控えていただいた方がよろしいかと」


 萌呼の表情が固まった。


 政宗が顔を上げる。


 秀吉も黙った。


「理由は」


 信長が聞く。


「まだ、この城へ来られて日も浅い」


「そうじゃな」


「各家臣の立場や、土地の事情も分かられておりません」


「それで?」


「悪意があるとは思いませぬ。ただ」


 家臣は丁寧に頭を下げる。


「今は、もう少し周囲を知っていただいてからの方がよいかと」


 正論だった。


 萌呼にも。


 悪意が向けられているわけではない。


 責められているわけでもない。


 けれど。


 胸が痛んだ。


 否定された。


 そう感じた。


 愛されていない。


 そう感じた。


 萌呼は膝の上で。


 指を握った。


「信長様……」


「何じゃ」


「私……邪魔なのでしょうか」


「誰もそうは申しておらぬ」


「でも……」


 萌呼の瞳が僅かに潤む。


「私、信長様のお役に立ちたくて……」


 黒い炎が。


 指先で揺れた。


 信長の目に。


 また。


 黒い影が走る。


「……」


 家臣が顔を上げる。


 信長は。


 しばらく萌呼を見ていた。


 そして。


「下がれ」


 家臣が瞬きをする。


「……は?」


「今日はもう下がれ」


「殿」


「聞こえなかったか」


「いえ。しかし」


「萌呼が城のことを知ろうとしておるのを、邪魔する必要はない」


 家臣が驚いた顔をする。


「私は、邪魔をするつもりでは――」


「ならば黙って見ておれ」


「……」


 政宗の顔から。


 完全に笑みが消えた。


「信長」


「何じゃ」


「今のはおかしいだろ」


「何がじゃ」


「こいつ、普通のこと言っただけだぞ」


「だから何じゃ」


「お前なら、今までだったら」


 政宗は家臣を見る。


「一回話聞いて終わりだった」


「今も話は聞いた」


「聞いてねぇよ」


「聞いた」


「じゃあ何で追い出す」


「気に入らぬからじゃ」


 政宗の目が鋭くなる。


「誰が」


 信長が一瞬。


 黙った。


 そして。


「……余がじゃ」


 政宗は。


 信長をじっと見た。


「本当に?」


「何が言いたい」


「それ」


 政宗は静かに言った。


「お前の判断か?」


 部屋が。


 しんと静まり返った。


 萌呼の指先が僅かに震える。


 秀吉も。


 信長を見る。


「政宗」


 信長の声が低くなる。


「余を疑っておるのか」


「疑ってる」


 即答だった。


「昨日からな」


 萌呼が政宗を見る。


 信長の眉間に皺が寄る。


「無礼な」


「今さらだろ」


 政宗は立ち上がった。


「お前が天下取ったことも」


 信長を見る。


「国をちゃんと治めてることも」


「俺は認めてる」


 だからこそ。


「今のは」


 政宗の声が低くなる。


「お前らしくねぇ」


 信長は何も言わない。


 萌呼の胸が。


 強く鳴った。


     *


 夕方。


 政宗は一人で廊下を歩いていた。


「政宗様」


 後ろから。


 萌呼の声がした。


 政宗は足を止める。


「何だ」


 萌呼が近づいてくる。


「先ほどは……」


「あぁ」


「信長様へ、あのようなことを言わなくても」


「何で?」


「信長様が、お怒りになります」


「怒らせときゃいい」


「でも」


「俺とあいつの話だ」


 萌呼は少し黙った。


 そして。


「政宗様は」


 一歩。


 近づく。


「信長様を、とても大切にされているのですね」


「は?」


「ずっと見ておられるから」


「気持ち悪ぃ言い方すんな」


「すみません」


「また謝んのか」


 萌呼は少しだけ笑った。


 けれど。


 胸の奥では。


 別の感情が動いていた。


 信長には。


 効いた。


 少しずつ。


 自分の言葉を聞くようになっている。


 なら。


 政宗にも。


 萌呼の指先に。


 黒い炎が灯る。


「政宗様」


「何だ」


「私のことを」


 萌呼は。


 まっすぐ政宗を見る。


「もっと、大切にしてください」


 黒い炎が。


 政宗へ伸びる。


 その身体へ。


 触れた。


 瞬間。


 ふっ。


 何事もなかったように。


 消えた。


「……」


 萌呼が目を見開く。


 政宗は。


 ただ。


 怪訝そうに萌呼を見ていた。


「何だ、それ」


「……え」


「急に」


「その……」


「何で俺がお前を大切にしなきゃなんねぇんだ」


 萌呼の顔が固まる。


 何も。


 変わっていない。


 声も。


 目も。


 態度も。


 いつもの政宗だ。


「……どうして」


 小さく漏れた。


「何が」


「……いいえ」


 萌呼は首を振った。


「何でもありません」


「またそれかよ」


 政宗は小さく息を吐いた。


「話終わりなら行くぞ」


 横を通り過ぎる。


 萌呼は。


 その背中を見た。


 信長には。


 届いた。


 お市にも。


 届いた。


 なのに。


 政宗だけ。


 自分の望んだように。


 動いてくれない。


「……政宗様」


 萌呼の指が。


 ゆっくり握られる。


 悲しい。


 寂しい。


 なのに。


 諦めたいとは。


 思わなかった。


 むしろ。


 逆だった。


「……欲しい」


 誰にも聞こえない声で。


 萌呼は呟いた。


 手に入らないから。


 余計に。


 欲しくなった。

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