第38話 愛される姫になるということ
翌朝。
安土城の廊下を歩く萌呼の姿を見て、政宗は思わず足を止めた。
「……は?」
昨日までとは、まるで違った。
背筋は真っ直ぐ。
歩幅は小さく、着物の裾を乱さない。
廊下の向こうから武将が来れば、邪魔にならぬよう自然に端へ寄り、静かに頭を下げる。
「おはようございます」
柔らかな声。
落ち着いた笑顔。
相手を見上げる角度まで、妙に綺麗だった。
昨日まで。
人と話すだけでも緊張して。
すぐに謝り。
どこへ視線を置けばいいのかも分からなかった娘。
それが。
一晩で。
「……誰だ、お前」
政宗が思わず口にした。
萌呼が振り返る。
「政宗様。おはようございます」
にこりと微笑む。
「……おう」
政宗は返事をしながら、眉間へ皺を寄せた。
「何ですか?」
「いや」
「何か、変でしょうか」
「変っていうか……」
政宗は萌呼を上から下まで見る。
「昨日までと違いすぎんだろ」
萌呼は少しだけ首を傾げた。
「お市様に、色々と教えていただきました」
「一晩で?」
「はい」
「一晩で全部?」
「お市様が、とても分かりやすく教えてくださったので」
また。
柔らかく笑う。
その笑顔まで。
どこか、お市に似ていた。
政宗の目が細くなる。
「……へえ」
「どうされました?」
「何でもねぇよ」
政宗はそう答えたが。
何でもなくはなかった。
*
その日。
安土城には、朝から多くの武将が出入りしていた。
各地の状況を伝える者。
信長へ謁見する者。
兵の動きを確認する者。
商談のために訪れる者。
萌呼は、お市から教わった通り。
いや。
お市から得たものを、そのまま使うように。
一人一人へ丁寧に接していた。
「遠方より、お疲れ様でございます」
「おぬしは?」
「萌呼と申します」
「そうか」
「どうぞ、ご無理なさらず」
微笑む。
頭を下げる。
相手が話せば、きちんと聞く。
出過ぎず。
引きすぎず。
相手を立て。
自分は柔らかく控える。
それだけで。
周囲の反応は、昨日までとは明らかに変わった。
「感じの良い娘じゃな」
「礼儀もようできておる」
「どこの姫君かと思ったぞ」
そんな声が、少しずつ増えていく。
萌呼は。
そのたびに。
胸の奥が満たされていくのを感じていた。
これだ。
こうすれば。
人は自分を好きになる。
こうしていれば。
愛される。
その日の昼頃。
城へ一人の男が訪れた。
堂々とした体格。
落ち着いた眼差し。
周囲の者が自然に道を開ける。
萌呼は、その姿を見た瞬間に分かった。
――武田信玄。
知っている。
もちろん。
歴史の中で何度も見た名前。
信玄が信長との話を終え、廊下へ出てきたところで。
萌呼は静かに頭を下げた。
「お帰りでございますか」
信玄が足を止める。
「おぬしは?」
「萌呼と申します」
「ほう」
萌呼は柔らかく微笑んだ。
「遠いところ、お疲れ様でございました。どうぞ、お気をつけてお帰りくださいませ」
信玄は、少し意外そうに萌呼を見る。
そして。
穏やかに笑った。
「気の利く娘じゃな」
「ありがとうございます」
「また会おう」
「はい」
信玄が去っていく。
萌呼は、その背中を見送った。
嬉しかった。
自分を。
好意的に見てくれた。
これでいい。
間違っていない。
お市のように振る舞えば。
人は、自分を好いてくれる。
萌呼は満足そうに微笑んだ。
*
「なあ」
その日の午後。
政宗は信長の部屋へ入るなり、開口一番そう言った。
「何じゃ」
「あの女」
「萌呼か」
「変わりすぎじゃねぇか?」
信長は書状から顔を上げる。
「何がじゃ」
「何がって……昨日まで人とまともに話せなかっただろ」
「市に教わったのであろう」
「教わったからって、一晩でああなるか?」
「知らぬ」
「知らぬってお前な」
政宗は腕を組む。
「歩き方も、喋り方も、笑い方も」
一度、言葉を止める。
「全部、市みてぇなんだよ」
信長は少し考えた。
「前より接しやすくなったではないか」
「……そこじゃねぇんだよ」
「なら何じゃ」
「急すぎんだろって言ってんだ」
「努力したのであろう」
「お前、意外と人疑わねぇな」
「天下を取るのに、いちいち娘の歩き方まで気にしておれるか」
「そこだよ」
政宗は額を押さえた。
「お前、自分のことで頭いっぱいすぎんだろ」
「当然じゃ」
「開き直るな」
その時だった。
「何の話をしておる?」
廊下から声がした。
秀吉だった。
「萌呼だよ」
政宗が答える。
秀吉の表情が、僅かに変わる。
「……やはり、おぬしも気づいたか」
政宗が眉を上げた。
「やっぱおかしいよな?」
「おかしい」
即答だった。
信長だけが二人を見る。
「何がじゃ」
「殿は黙っておられよ」
「何故じゃ!」
「気づいておられぬからです」
「秀吉、おぬしまで」
秀吉は信長を無視して、政宗を見る。
「おそらく」
一度。
声を落とす。
「呪術じゃ」
政宗の顔から笑みが消えた。
「……呪術?」
「あぁ」
信長もようやく書状を置いた。
「何を根拠に申しておる」
秀吉の顔が。
初めて。
完全に真剣になる。
「市じゃ」
「市?」
「昨日から、市がおかしい」
信長の眉が僅かに動く。
秀吉は続けた。
「わしは、市をよう見ておる」
「それは知ってる」
政宗が即答する。
「黙っておれ」
「はいはい」
「市は優しい。誰にでも気を配る。だが」
秀吉の目が鋭くなる。
「今は違う」
「どう違う」
「萌呼だけじゃ」
政宗が黙る。
「市の目が、萌呼だけを追っておる」
秀吉は低い声で続ける。
「萌呼が何か言えば、すぐに動く。萌呼が望めば、何でも叶えようとする」
「……」
「市はそのような女ではない」
信長の表情から、少しずつ余裕が消えていった。
「それだけで呪術と決めるのか」
「それだけではない」
秀吉は政宗を見る。
「萌呼の立ち振る舞い」
「あぁ」
「市そのものじゃ」
歩き方。
座り方。
礼の仕方。
人へ向ける笑顔。
言葉の選び方。
すべて。
「市が長い年月をかけて身につけたものを」
秀吉の声が低くなる。
「一晩で身につけておる」
部屋が静かになった。
政宗の目が細くなる。
「……盗ったってことか?」
「そう考えれば、辻褄が合う」
「で、市の方は洗脳された」
「おそらくな」
信長が立ち上がった。
「待て」
秀吉が止める。
「何じゃ」
「今、萌呼を問い詰めてはならぬ」
「何故じゃ」
「どこまで力を使えるか分からぬ」
秀吉は静かに言った。
「市へ何をしたのかも」
「……」
「誰まで操れるのかも」
政宗が腕を組み直す。
「俺と信長を見る目が異常だったのも、それか」
「かもしれぬ」
秀吉は一度、目を伏せた。
そして。
「何より」
その声に。
怒りが混じった。
「市を元に戻さねばならぬ」
政宗が秀吉を見る。
いつも。
お市を見れば顔を緩ませ。
信長に呆れられている男。
けれど今は。
一切笑っていない。
「……お前」
政宗が小さく言った。
「市のことになると、鋭ぇな」
秀吉は答えなかった。
ただ。
萌呼のいる方角を。
静かに睨んでいた。
政宗も、その視線を追う。
昨日まで。
ただ妙な娘だと思っていた。
信長と自分を見る目がおかしい。
それだけだと思っていた。
けれど。
もし。
秀吉の言う通りなら。
あの小さな少女は。
すでに。
この城の中で。
一人の心を。
自分のものにしている。




