第36話 愛される姫を学ぶということ
座敷には、まだ少し妙な空気が残っていた。
萌呼は何事もなかったように座っている。
けれど、光秀も秀吉も政宗も、さっきの萌呼の視線を忘れてはいなかった。
明智光秀を見た時だけ、あまりにも目が違った。
「……やはり」
光秀は萌呼を静かに見つめる。
「私は、この娘に何かいたしましたかな」
「……いいえ。初めてお会いしました」
「そうですか」
光秀は穏やかに答えたが、納得した様子ではなかった。
秀吉も同じだった。
「先ほどは、ずいぶんと厳しい目をしておったのう」
「……すみません」
「また謝っておる」
秀吉は笑った。
けれど、その目は萌呼を観察している。
政宗も腕を組んだまま黙っていた。
信長だけは、少し面倒そうに眉を寄せる。
「知らぬと言うておるのであろう」
「信長様」
光秀が静かに呼ぶ。
「何じゃ」
「気になられぬのですか」
「妙な娘なのは昨日から分かっておる」
「そこは気になっておられるのですね」
「うるさい」
その時だった。
「兄上」
座敷の外から、柔らかな声が聞こえた。
信長が顔を上げる。
「市か」
萌呼の目が僅かに見開かれた。
――お市。
知っている。
織田信長の妹。
歴史の中でも、その名を何度も見た。
美しい姫として知られ、多くの人に愛された女性。
襖が静かに開き、一人の女性が座敷へ入ってきた。
上品に整えられた着物。
柔らかな表情。
落ち着いた所作。
ただ入ってきただけなのに、座敷の空気が少し和らぐ。
「女子がこちらへ来たと聞きましたので、ご挨拶だけでもと思いまして」
お市は萌呼を見ると、優しく微笑んだ。
萌呼は、その姿をじっと見つめた。
本当に、お市だ。
歴史の中で知っていた人が、今、自分へ笑いかけている。
「こちらは?」
「萌呼という娘じゃ。昨日、山で見つけた」
「まあ」
お市は少し驚いたように萌呼を見る。
「お怪我はございませんか?」
「……はい。大丈夫です」
「それなら良かったです」
自然な笑顔。
自然な気遣い。
萌呼は、その姿を見ながら考えていた。
この人は愛されている。
信長からも。
周りの者からも。
当たり前のように。
「市ぃぃぃ!」
突然、秀吉の声が大きくなった。
萌呼が驚いて顔を上げる。
秀吉は、さっきまでとは別人のように完全に顔が緩んでいた。
「今日も美しいのう!」
「秀吉」
信長が呆れたように見る。
「何じゃ、殿」
「顔がうるさい」
「顔に音はありませぬぞ」
「うるさい」
お市は少し困ったように笑った。
「秀吉殿は、いつもお元気ですね」
「市殿に会えば元気にもなりまする!」
「そういうことを申すから、兄上に怒られるのです」
「怒られても構わぬ!」
「構え」
信長が即座に返す。
政宗が小さく笑い、光秀も僅かに口元を緩めた。
萌呼は、そのやり取りを見ていた。
お市は何もしていない。
ただ入ってきて、笑って、話しているだけ。
なのに、みんなが自然に見る。
自然に笑う。
自然に大切にする。
萌呼には、それが分からなかった。
何故、この人は愛されるのだろう。
何をしたから、こんなふうに人の心が向くのだろう。
「萌呼様」
「……はい」
「こちらでの生活で、何かお困りのことはありませんか?」
お市が優しく尋ねる。
萌呼は少し考えた。
そして、静かに口を開いた。
「……一つ、お願いがございます」
「何でしょう」
「私、この国のことを何も知りません」
座り方も、話し方も、礼儀も、作法も、立ち振る舞いも。
何一つ、自分は知らない。
「信長様にも、皆様にも、ご迷惑をおかけしたくありません」
萌呼は一度だけ信長を見た。
そして、もう一度お市へ視線を戻す。
「もし許していただけるのなら、お市様のもとで礼儀や作法を学ばせていただけないでしょうか」
座敷が少し静かになった。
萌呼は頭を下げたまま待つ。
お市は驚いたように目を瞬かせたが、すぐに柔らかく笑った。
「もちろんです」
萌呼が顔を上げる。
「本当ですか?」
「ええ。私でよろしければ、喜んで」
「ありがとうございます」
「そんなに固くならなくても大丈夫ですよ。分からないことは、少しずつ覚えていけばいいのです」
その言葉を聞いて、萌呼はまたお市を見つめた。
少しずつ覚えていけばいい。
でも、それでは遅い。
この人のようになれば、自分も愛されるのではないか。
信長に。
政宗に。
この人と同じように。
*
その日の午後。
萌呼は、お市の部屋へ呼ばれていた。
「まずは、座り方から始めましょうか」
「はい」
お市が手本を見せる。
背筋を伸ばし、膝を揃え、手を自然に重ねる。
無駄がない。
けれど、堅くもない。
「このように」
「……綺麗ですね」
「ありがとうございます。でも、最初から完璧でなくても大丈夫ですよ」
「はい」
萌呼は真似をする。
けれど、やっぱり違う。
同じように座っているのに、お市とは何かが違う。
「次は、お辞儀を」
「はい」
「目線を落としすぎず、ゆっくり」
萌呼は言われた通りに動く。
「そうです。とてもお上手ですよ」
「……ありがとうございます」
言葉も。
動きも。
表情も。
一つずつ覚えていく。
それでも萌呼の中では、別のことばかりが気になっていた。
これを全部覚えれば。
自分も、お市のように見えるだろうか。
愛される人に見えるだろうか。
でも。
何故この人が愛されるのか。
それだけは、いくら見ても分からない。
美しいから?
姫だから?
信長の妹だから?
作法が綺麗だから?
それとも、こうして優しく笑うから?
萌呼には、答えが見つからなかった。
「指先は、こう添えるのです」
お市が萌呼の手を取った。
「力を入れすぎずに」
「……はい」
その瞬間だった。
萌呼の指先から、黒い炎が滲んだ。
「……?」
お市の瞳に、一瞬だけ黒い炎が映る。
萌呼は息を止めた。
けれど、お市は何も言わない。
その代わり。
萌呼の中へ、一気に何かが流れ込んできた。
歩き方も。
座り方も。
礼の仕方も。
着物の扱いも。
言葉の選び方も。
声の柔らかさも。
食事の作法も。
人前での振る舞いも。
お市が姫として身につけてきたものが、すべて一気に萌呼の中へ流れ込んでくる。
「……」
萌呼の目が大きくなる。
分かる。
さっきまで、いちいち考えなければできなかったことが。
全部。
自然にできる。
萌呼は静かに手を動かした。
お市と同じ角度で指先を揃え、背筋を伸ばし、目線を落とす。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
完璧だった。
「……できた」
小さく呟く。
「ええ」
お市が答えた。
萌呼が顔を上げる。
その瞬間。
違和感に気づいた。
お市の目。
さっきまでとは違う。
優しい。
それは同じ。
けれど、もっと深い。
もっと熱い。
その視線が、自分だけに向いている。
「……お市様?」
「はい」
お市は萌呼の手を両手で包んだ。
「どうされました?」
「……」
「何でもおっしゃってください」
萌呼が瞬きをする。
「何でも……?」
「ええ」
迷いのない声だった。
「萌呼が望むことでしたら、何でもいたします」
萌呼は、その顔を見つめた。
さっきまでとは違う。
はっきりと分かる。
自分を喜ばせようとしている。
自分を大切にしようとしている。
自分の言葉を、何よりも優先しようとしている。
「……私の言うことを、何でも聞いてくださるのですか?」
「もちろんです」
お市は一切迷わず答えた。
その瞬間。
萌呼の胸の奥が熱くなる。
これが。
黒い炎の力。
人の心を変える。
自分を好きにさせる。
自分を大切にさせる。
自分の言葉を何よりも優先させる。
そして。
望むように動かす。
萌呼は、ゆっくりと笑った。
「では……」
お市の目を見る。
「私が、この国で愛される姫になれるようにしてください」
「ええ」
お市は嬉しそうに頷いた。
「必ず」
萌呼は、その返事を聞いて初めて確信した。
この人は、もう自分の味方だ。
そして萌呼は、まだ気づいていなかった。
お市が愛されている理由は。
その作法でも。
立ち振る舞いでも。
姫という立場でもないということに。




